ひんながみ

たにがわみやび

第1話 人情路地

 その人形は息子・吹上璃空(ふきあげりく)と同い年である。


 璃空が生まれたのはいまから20年の昔、とは言ってもこの町では20年という歳月はあまり意味を持たない。なにせ20年前の風景写真を現在のものと偽っても、気づく人の方が少ないのではないかというほど変化が乏しいのである。


 「この町」とはこの物語の主人公のひとり・吹上達人(ふきあげたつと)の住む「堀辻町」のことである。人口は約600人。年齢バランスも偏らず老若男女が暮らしている。

 堀辻町は某大都市の下町、それも典型的な下町である。四間道路と言い伝えられるメインの道路は、幅員7メートルほどの狭い路地であり、舗装されてはいるが、アスファルトがつぎはぎだらけで、あちこちがデコボコしていてなんとも不格好な道路である。道路の正式名称はおそらくほとんど誰も知らないだろう。そして道の両側には家が隙間ないほどに密集している。


 堀辻町は住民の出入りの激しい住宅地とは違い、昔ながらの共同体によって成り立っている。通りに面した家々には年季の入った趣があり、確かに一部の家は老朽化に耐えかねてリフォームしたものもあるが、どの家も広いとはいいがたいほどにこぢんまりとまとまっているのだ。


 いくつかの家は事業所も兼ねており、またこれも昔ながらの、今では見ることも珍しくなった駄菓子屋兼お好み焼き屋兼日常雑貨店もある。

 まるで昭和平成から時が止まったような町並みこそが堀辻町の個性でもあった。

 昭和の時代からだろうか、誰かしらから、この狭い通りを少々気恥ずかしい名称ではあるが「人情路地」と呼ぶようになっていた。


 古い町ということで、ここでは因習めいたものも受け継がれている。そのあたりは田舎の、過疎地域に残る古めかしい習慣と似ている。家屋が密集する人口稠密地帯でありながら、そこには昔の姿が残っている。


 まずことあるごとに町内会が問題に首を突っこんでくる。この町ではほとんど諍いらしいものは起きないが、それでも小さな問題はたまに起きる。こうしたなにかしらのトラブルがあると町内会長はじめ人情路地の長老たちがなだめにくるのだ。


 記念行事的な時には町内会費から贈答品を送られる。まあこんなレベルに落ち着けざるを得ないなと思うものから、安い町内会費からこんなものがよく購入できたな、と思わせるものまで多々ある。


 町内会費からの、支出の内訳も町の維持管理に必要な納得できる出費もあれば、宗教法人である神社仏閣への寄付など、公の金としてその使い方はどうか? と思わせるものまで多岐にわたるが特に不満も出ていないようではある。よく言えばおおらか、悪く言えば馴れ合いの世界であった。


 現在の町内会長は麻生田要(おうだかなめ)71歳である。ちょうど吹上家に長男璃空が生まれた年に会長に就任している。ということは就任当初は51歳ということになる。痩せ体型で、チタン製のシニアグラスをかけている。なんでも海外で開発された、ブルーライトカット仕様とのことで目に優しいのだそうだ。本当に効果があるのかどうかは知らない。

 麻生田会長は会合の場などで、しばしば「そろそろ私もトシだから後任に道を譲りたい」と言ってはいるが、そこはこうした役職を敬遠したがる世間の傾向のまま、なかなか後任者が現れないのが悩みのようだ。


 この町では毎年6~7人の子供が産まれる。少子化が叫ばれる現代からすると、まあこんなものだろう。当然、子供たちは成長するので、進学・成人・就職・結婚と進むことになる。さすがに結婚まで一度も人情路地から離れることなく住み続ける人ということになると少数派かも知れない。


 進学や成人はどの年代層においてもほぼ同時に迎えるので、いずれのメモリアル年もそれぞれ同じくらいの人数となる。

 町内会ではこうしたメモリアルな年に、贈答品や幾ばくかの祝い金を渡すことが慣例となっている。誕生時には物品を、小学校進学の時には祝い金、成人の時には祝い金と物品の両方を贈る。物品の内容は年によって違い、町内会の役員の合議で決まるが、最終的には町内会長の判断をもって決定する。


 吹上家は24年前、達人とその妻が結婚した際に引っ越してきた。通常、新婚家庭は小綺麗な住宅に住みたいと考えるものだが、この町の風景に惚れ込んだ夫・達人がなかば勝手に移住を決めたのである。


 最初は垢抜けないこの町に違和感を抱いていた妻・理恵もやがて環境に馴染んでいき、今ではこの町にずっと住み続けたいとまで語るようになった。

 町の人とは24年の間にすっかり親しくはなったが、町の年配者の言の葉にのぼる際となると、

「吹上さん? ああ、あの新しく来た人ね」

で通るのである。24年…ほぼ四半世紀も住み続けているのに、ここでは年配者の間では吹上家は「新しく来た人」なのだ。

 まさに時間の流れがまったく違う、そんな地域であった。


 そして移住して4年後、璃空が産まれた。


 璃空の誕生年度にも例外はなく、贈答された品がある。それが人形だった。

 人形はどうやらアンデス地方に伝わる木製の人形で、意外にも中年男性の姿をしており、毛織りの帽子をかぶっている。インディオをイメージした人形であることはそのデザインからはっきりわかり、現地では幸せを呼ぶ人形とされている。人形というとかわいい女の子のイメージが強いが、この人形はまったく異色だ。あまりかわいいという印象にはならないが、嫌う人も少ない風貌だろう。


 なんともユーモラスな姿をしており、欲しいものの一部もしくはリストを身にまとわせて望みをかなえてくれるとされている。

 価格的にも数千円程度とそれほどのものではないので、贈った側も受けとった側も気がねせずに済むことから、絶妙の選択であったように思われた。


 吹上家の感想もまずまずだった。夫・達人が言う。

「うん、愉快そうな人形でいいんじゃないか?」

 妻・理恵が返す。

「これ望みがかなうんだよね。なんの望みにしようかな。やっぱり璃空の無事な成長を望むかな」

「そうだな。日本人形とかだとなんか怖いイメージがあるけど、こういった楽しそうな人形ならいいな」

「日本人形なんて高すぎて町内会費から出せないでしょうけどね」


 口を開けた人形はなんだか笑っているようにも見える。

 璃空はベビーチェアにもたしかかってうつらうつらしている。もちろんまだ人形にはなんの反応も示さない。

 人形はそんな璃空を見つめるように、不思議な笑みを浮かべ続けていた。


 それから20年の時が過ぎた。


 璃空はたくましく育っていった。特に体格がよいわけでもなく、体育系の部活をしていたわけでもないが、好きで野球の練習をしばしばしており、達人ともキャッチボールを毎日のようにしており、ボールの扱いに慣れていたためか、助っ人として呼ばれることもあった。だいたいにおいて球技全体が得意なようで、サッカーやテニスなどにも手を出しているようだ。


 父親の達人は球技のセンスがゼロで、子供のころから続けてきた璃空とのキャッチボールですら捕り損ねるのがしょっちゅうだった。運動といえば高校時代にかじったことのある柔道くらいのものであるから、それに比べれば璃空は球技の運動神経には恵まれたといえるのだろう。


 人形はいまだに戸棚の上に鎮座している。色こそやや褪せた感じはあったが、そのユーモラスな表情はそのままだった。

 何度か人形の前で望みごとを口にしたこともあったが、さすがに幸運は思うようには訪れないようだ。いやなにごともないまま過ぎていったことこそ、なによりの幸運かも知れない。


 やがて人形の相手もしなくなり、人形は空気がその場に溶け込むように存在するようになった。


 今日は7月1日の土曜日、まだ梅雨のためにやや天気が安定しないが、それでもいよいよ夏も始まり、世の中は次第に夏色の風景へと変わってゆく。

 この日、町内会は近所のビアガーデンで会合を行う予定だった。会合といっても、参加費は自分持ちであるし、はっきり目的を持って始める会でもない。

 いや、一応は「電気自動車の充電施設への補助について」という名目はついている。しかしすでに町内会から多少の補助を出すことで折り合いはついており、特段に会議するまでもない。


 下町ということもあって車を持たない家も多く、少しは反対も出たようだが、そこは馴れ合いとなあなあで流される町だ。言い換えれば「いいかげん」が通用する町なので、時間の流れとともに決まったのである。

 ということで、主たる目的は飲むことである。開始は19時、宴会時間…ではなくて会議時間は2時間と決まっていた。


「やあ吹上さん、ご機嫌いかがですかな?」

 すでに一杯入っている麻生田会長が達人の座っているベンチの端に寄ってきた。まだほとんど飲んでもいないのに、まるで酔っぱらったかのようなノリの良さだ。席に座るとトレードマークのシニアグラスをひと拭きした。

「ええ、町の雰囲気がいいので楽しくやってますよ」

 これは達人にとって偽らざる感想。この町の雰囲気は大好きだ。そもそも下町に憧れて人情路地に移り住んだものとして、雰囲気が悪いはずがない。もちろん、古い町にありがちなわずらわしさや理不尽さを感じることもあるが、それはどこの町に住んでも形を変えて降りかかることである。


「わたしもリタイヤしてもう10年。今じゃ町内会くらいしかお役に立てることもなくなった年寄りですが、まあやりがいはありますな。わたしが会長の座について20年ですか、そろそろ次世代に渡したいですわ」

「でも会長さん、70代に見えませんね。10歳は若く見えますよ」

「そうかな? 嬉しいね。町内会の手伝いに来てくれてる関のところの女の子も同じように言ってくれて嬉しかったなあ」

 関の女の子というのは、副町内会長の関和宏の長女だ。すでにこの町で結婚して家庭を持っている。

(…待てよ、あの人ももういい歳のはずだが?)

「会長さん、関さんの姓は変わってますし、あの人、既婚だし年齢ももう40代くらいですよ。女の子はマズいかも知れません」

 達人は別にとがめる口調ではなく、軽い笑みを浮かべながら言った。

「そうかな? 若く表現するのは問題ないかと思っていたが」

「いまはなんでもセクハラの時代ですからね。言葉には気をつけないと」

「そうか、世知辛くなったなあ」

 昭和を生きてきた麻生田会長には少しばかり寂しい現実があった。

「ではなんと呼べばよろしいのかな?」

「普通に名前で呼ぶのが無難かと…」

「うーん、宮田の商店街なんか、50、60のおばさんでも『おねえさん』と呼ばれてるんだけどなあ」

「いや…それはちょっと意味が違うような…」

 ふたりの間になんともかみ合わない会話が続く。


「ところで…」

 麻生田会長が話題を変える。

「息子さん…でしたよね」

 息子の話になったので、達人も会話をあわせた。

「はい、息子の璃空です」

「うーん、やはり最近の名前は少し変わってますな」

「まあそうでしょうね。これも時代の流れですから」

 璃空は別にキラキラネームというほどではないだろうが、瑠璃という言葉を知らない人には読みづらい名前かも知れない。実は子供の名前は璃空にしようとは、出産前から決めていた。なんとなく瑠璃色を思い起こさせてキレイな感じがするし、男でも女でも使えそうな名前だったからだ。


 スポーツ好きでゲーム好きという、いかにも現代の若者に育った璃空は、これといった反抗期も見られず素直に成長を遂げていた。そうよくいえば素直、言い方を変えればのほほんと育ったのだ。

「それで璃空くんはもう中学を卒業の頃ですか?」

「いえ…もう大学生ですけど」

「おお、それは失礼した。他人の子供は成長するのが早いというが本当ですな。そうか、もう大学生ですか…」

「先月20歳の誕生日を迎えました」

「なんと、では来春にでも町内会からお祝いを出さねばならんですね。金子を一封とあとは記念品ということになりますな」

「まあ無理のない範囲でよろしいですけど…」


 この町内会では誕生、就学、成人にあわせて祝い物を贈呈しているが、それは毎年の年度が終わるときである。つまり来年の3月ということになる。それまで町内会費をプールしておいて、予算の範囲内で贈呈品を決めるということらしい。町内会費は高額でもないので贈呈品がつつましやかになっても仕方はない。


「さて、記念品はなにがよろしいかな」

「そうですね、生まれたときには人形をいただきましたから、ほかのものがいいですね。安くてもかまわないので、日常で使いやすいものとか」

「なるほど。参考にさせていただきます」

 麻生田会長は目を輝かせた。なにか案でもあるのだろうか?


「吹上さんはこの地にこられて20年以上になりますか。息子さんが20歳ということはもっとかな?」

「今年で24年ですね」

「もうそんなになるのですなぁ。いやぁマジメな吹上さんだけに、町に溶け込むのも早くてよかった」

「マジメ過ぎてつまんない奴だとも言われてきましたけどね。運動とかも柔道以外ほとんどしてないので、女の子にモテたわけでもなし。なかなか柔道ではモテないんですよ。悲しいことに」

「いやいや、人間つまるところ堅実に生きるのが一番ですよ。わたしなんか、ガキの頃からいたずらばかりで…というか、本音は気が弱いので、ワルぶってるだけだったんですけどね」

「そういう性格だったんですか」

「ああ、学校のガラスが割られたというときに、自分では割る度胸もないくせに、自分がやったって名乗り出て格好つけてましたよ。なにも自分からわざわざ叱られにいくこともないのにね」

「そういう年ごろだったんでしょうね」

 達人は子供のころの麻生田会長を想像すると笑みがこぼれた。


「そういえば…」

 麻生田会長が視線を逸らし、あるひとりの人物を見た。

「員弁さんの家も20歳の娘さんがいると言ってましたな」

「はい、璃空と同い年です。小学校への登校の際は、集団登校で仲良く通っていたようですよ」

「いいですな。20歳の娘さん、まさに娘盛りというところで、…おお!」

 会話の途中で麻生田会長が手を振る。

「こちらですよ、員弁さん!」

 見ると麻生田会長の手を振る先には員弁がいた。


 員弁隆敏(いなべたかとし)

 達人の息子・璃空と同い年の娘を持つ父親だ。子供は2人いて、上は20歳の長女澪(みお)、息子長男は下の子となる。澪は璃空の1か月前に誕生しており、璃空と同学年の今年20歳だ。


 員弁は麻生田会長と目が合ったためか、ビールのコップを片手に持ちながらふたりに向かって歩いてきた。

「やあ、会長さんに吹上さん。なにかおふたりそろってわたしの悪口で盛り上がっていたのですかな?」

 員弁の軽口に麻生田会長が答える。

「おや聞こえてしまいましたか。それはまずいですな」

 麻生田会長は冗舌だ。冗談を冗談で返すことには人並み外れた才能を持っている。今回の員弁の言葉にも、軽いノリの切り返しを見せた。

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