SCENE#176 空を奪い合う、欲望の集積 The Sky We Fight For

魚住 陸

空を奪い合う、欲望の集積 The Sky We Fight For

第一章:1センチの「空」を競り落とす夜 ―― 垂直の強欲







20XX年、ネオ・トウキョウ。この都市において、富の象徴はもはや地上の面積では測れなくなっていた。地表はスラム化し、入り組んだ路地には腐敗した霧と排気ガスがよどんでいる。人々が生存の場を求めた先は、上方――つまり「空」という名の、最後の開拓地だった。








しかし、そこはもはや自由な空間ではない。実体のあるコンクリートの建物を建てる余地が物理的に尽きたとき、人類はそこに、高精細な「ホログラム・ビルディング」を投影し始めたのだ。空は、所有権を細分化された「空間のパズル」と化した。








「……次。港区第三層、高度350メートルから355メートルのレイヤー。15平方センチメートルの広告権、ならびに投射権。オークション開始!」








世界を牛耳る超巨大企業『カエルム・コーポレーション』のオークション会場。そこでは、目に見えない無味無臭の「空間」が、一国の国家予算に匹敵する天文学的な金額で次々と競り落とされていく。落札した企業は、その空間に実体を持たない仮想の摩天楼や、巨大なブランドロゴを投影する権利を得る。







カゼは、その「欲望の垂直都市」を維持するための末端労働者、「スカイ・クリーナー」だった。彼の仕事は、上空に浮遊する無数のホログラム投射機のレンズを磨き、不法に投影された「野良ホログラム」や、ノイズとなって重なった古いデータを電子デリーターで消去することだ。







カゼが作業用のポッドに乗り込み、高度を上げるたび、周囲の視界は窒息しそうなほどの色と光に埋め尽くされていく。色彩過多なハンバーガーの巨大広告が食欲を煽り、天を突く仮想のラグジュアリー・ホテルが、実体のない贅沢を誇示している。それらの虚飾が放つ「欲望の光」が何重にも重なり合い、空には泥のような極彩色の雲が停滞していた。








「皆が、空を奪い合ってる………」








カゼは、作業ポッドの汚れた窓越しに、もはや青色を失った頭上を見上げた。かつての詩人が「無限」と謳った空は、今や1センチ単位で値札が付けられた、世界で最も過密で、最も卑俗な「光のゴミ捨て場」へと変貌を遂げていた。










第二章:サブスクリプションの太陽 ―― 偽りの恵みと階級の影







ネオ・トウキョウの人々は、本物の太陽を見たことがない。カエルム・コーポレーションは、街全体の空を巨大なドーム状のホログラムスクリーンで覆い、「パーフェクト・スカイ・サービス」を提供していた。







「今日の空は『南カリフォルニアの夏』、ランクAの輝きです。さらに心地よい南風を感じたい方は、プレミアムプランへのアップグレードを推奨いたします!」







街角に設置されたスピーカーからは、合成音声による優雅な案内が絶え間なく流れてくる。しかし、その「恵み」の実態は残酷な階級社会そのものだった。地表に近い下層区に住む人々には、企業のロゴマークを太陽の形に並べた「安価な光源」しか与えられない。







彼らは、自分が浴びている光が、実は背後のホログラム・ビルから反射された「広告の照り返し」であることに気づきながらも、それを享受するしかなかった。一方、高額なサブスクリプションを支払う上層階の住人には、高度な演算によって再現された、本物に近い「仮想の太陽」の光と暖かさが独占されていた。







「ねえ、カゼ。昔、本当の空は、お金を払わなくても誰でも見られたって、本当なの?」







カゼが投射機の定期メンテナンス中に、廃ビルの中層階で出会った少女、ソラが尋ねた。彼女は、下層のゴミ山から拾い集めた古い「写真」を宝物にしていた。その写真には、何の文字も、広告も、ロゴも映っていない、ただただ「何もない青色」が地平線の彼方まで続いていた。







「ああ、おとぎ話みたいなもんだけどな。昔は、誰でも勝手に空を見上げて、勝手に感動してたらしいぜ。所有者なんていなかったんだ…」






「勝手に……。それは、とっても贅沢なことね。今は、ため息をつくだけで、誰かのビルに傷がつくって言われるもの…」







ソラは、頭上でチカチカと明滅する「期間限定、全フロア半額セール」と書かれた巨大な赤い雲を見上げながら、悲しげに微笑んだ。カゼはその時、彼女の瞳の中に、偽物の光を拒絶するような、深い「闇」への渇望を見た気がした。










第三章:影を塗る反逆者 ―― 虚飾のキャンバスへの亀裂






カエルム社の支配に抗う者が、一人もいないわけではなかった。「シャドウ・ペインター」と呼ばれる謎の集団。彼らはホログラム投射機を巧妙にハッキングし、色彩に溢れた空の一部を「漆黒の闇」で塗りつぶす、極めて悪質なグラフィティ・アーティストたちだ。







カゼはある夜、作業ポッドでのパトロール中に、偶然にもその現場を目撃した。高層ビルの窓拭きゴンドラを違法に改造した機体で、巨大な飲料メーカーの看板ビルのど真ん中に、巨大な「穴」を開けている人影があった。それは、あの日出会った少女、ソラだった。







「何をしている! 警備ドローンに感知されれば、即座に抹消されるぞ!」







カゼの必死の制止を、ソラは冷たい沈黙で受け流した。彼女はスプレー状の特殊なハッキングデバイスを空中に噴射し続けていた。







「光を消さなきゃ、何も見えないの。カゼ、あなたも気づいているでしょう? みんな、この『欲望の集積』に目が眩んで、自分が窒息しそうなことにすら気づいていない。私は、空に『隙間』を作りたいだけなの。そこから、本当の何かが漏れ出すかもしれないから…」







ソラが「塗った」黒い穴。そこには、何も投影されていない、本来の夜の闇がポッカリと口を開けていた。しかし、周囲の広告ビルの色彩があまりに眩しすぎるため、その闇は不気味な欠損、まるで世界そのものが壊れたかのような「傷跡」にしか見えなかった。







カゼは、彼女を捕縛し、当局に引き渡すべき立場にありながら、その「闇」から目が離せなくなった。何層にも、垂直に積み重ねられた欲望。その厚みが増すごとに、人々の心は重くなり、街全体が自分たちが積み上げた情報の重みで自沈していくような、耐え難い圧迫感。







ソラの「闇」は、その重力に抗う唯一の、そしてあまりに危うい抵抗に見えた。カゼは静かに、自分のポッドの警備ログを消去した。










第四章:欲望の過密 ―― 飽和するデジタル・ヘブン






数カ月後。カエルム社が発表した新プロジェクト「ヘブンズ・ゲート」は、街の狂気をさらに加速させた。それは、既存のホログラム・ビルのさらに上空、高度2000メートルの未開拓域に、新たな「聖域居住区」を投影するというものだった。これにより、街を覆うホログラムの層はさらに厚くなり、地表に届く光は現在の10パーセントにまで減少することが予想された。もはや光源ですらなく、ただの「データの壁」が、空という概念を完全に抹殺しようとしていた。








「もう限界だ…」







カゼは、メンテナンスセンターの奥で、同僚の技術者たちと声を潜めて語り合った。ホログラムは光の像だが、それを数千万規模で維持するには莫大な電力が必要であり、それを処理する演算サーバーは、物理的な放熱の限界に達していた。空を奪い合う欲望の集積は、もはや熱力学的にこの街を焼き尽くそうとしていた。事実、下層区の気温は、サーバーからの排熱によって冬場でも30度を超え、不快な熱気が停滞していた。







街のあちこちで、ホログラムのノイズが発生し始めていた。幸せそうに笑う家族の巨大なホログラムが、一瞬だけ恐ろしい形相に歪み、バグを起こしたピクセルが血の雨のように降る。穏やかな南国の海が、真っ赤なエラーメッセージに塗り替えられ、空中に巨大な断絶が走る。







それでも、人々はさらに高い場所、さらに広い仮想空間を求めて、新しい空の権利を買い続けた。自分が立っている地面が、欲望の重みで今にも崩れそうなことに、誰もが気づかない振りをしていた。いや、気づいたところで、一度積み上げた欲望を降ろす方法を、誰も知らなかった。










第五章:システム・ダウン ―― 真実の静寂が降りる時






決行の夜が来た。ソラとカゼ、そして現状に絶望した少数の技術者たちは、カエルム社のメインサーバー・ハブへと忍び込んだ。カゼのマスターキーと、ソラのハッキング技術、そして技術者たちの内部コード。それらが組み合わさり、空を管理する「管理者権限(管理者モード)」の深淵へと辿り着いた。







「すべてを消せば、この街は死ぬかもしれない。パニックで暴動が起きるかもしれない。でも、そうしなきゃ、私たちはこの『光の繭』の中で窒息して終わるだけよ…」







ソラの指がキーボードを叩く。カゼは、システムの過負荷を防ぐためのリミッターを次々と解除していった。午前0時。日付が変わるその瞬間。突如として、ネオ・トウキョウの「空」が消えた。数千、数万のホログラム・ビル、巨大なロゴマーク、空中のラグジュアリー・ホテル、そして偽りの太陽。それらすべてが、スイッチを切ったテレビ画面のように、瞬時にしてかき消えた。








街を支配していた執拗なまでの広告の音声、過剰な光、そしてサーバーが発していた唸るような駆動音。それらすべてが消滅し、世界は数世紀ぶりとなる「真の闇」と「真の静寂」に包まれた。暗闇の中で、凄まじい悲鳴が上がり、人々は、突然奪われた「自分の財産(ホログラムのビル)」を求めて、盲目のように手を伸ばし、暗闇の中で右往左往した。







しかし、そのパニックはやがて、奇妙な沈黙へと変わっていった。人々が、おずおずと顔を上げ始めたからだ。そこには、何の文字もない、何の価格設定もされていない、吸い込まれるような深みを持った無限の夜空が広がっていた。そして、何よりも人々を驚かせたのは、都会の光が消えたことで姿を現した、無数の「星々」だった。










第六章:青という名の衝撃 ―― 忘れられた記憶の再起動






夜が明け始めた。カゼとソラは、街で最も高い、本物のコンクリートでできた廃ビルの屋上で、その瞬間を待っていた。地平線の向こうから、本物の、一切のフィルタリングも、一切の加工も施されていない太陽が、ゆっくりと顔を出した。







それは、カエルム社が売っていた「最高級プレミアム・サンセット」よりもずっと眩しく、そして、目を焼くほどに鋭く、残酷なまでに美しかった。本物の太陽の光は、ホログラムで隠されていた街の「本当の姿」を容赦なく照らし出した。ボロボロに朽ち果てた地表、錆びついた廃ビルの鉄骨、入り組んだ路地に積もったゴミの山。そして、美しい仮想空間の住人だと思い込んでいた自分たちの、薄汚れて、疲れ切った、ありのままの姿。








「……これが、本物なのね。こんなに痛いくらいに、眩しいなんて…」







ソラは眩しさに目を細め、溢れる涙を拭おうともせずに立ち尽くしていた。







「ああ。ひどいもんだな…ホログラムの方が、よっぽど綺麗で、よっぽどマシな世界だったかもしれないぜ…」







カゼは自嘲気味に笑ったが、その胸は、今までに感じたことのない清々しい解放感で満たされていた。

光に重さがあることを、カゼは初めて知った。これまでの偽物の光は、誰かの欲望や誰かの見栄を乗せて、人々の肩にズシリとのしかかっていた。しかし、この本物の太陽の光は、ただそこにあるだけで、何も求めてはこない。何も売りつけようとはしない。








街中の人々が、それぞれの場所で立ち尽くし、空を見上げていた。彼らが何十年、何百年と積み重ねてきた「欲望の集積」は、たった一晩のシステムダウンによって塵と化した。しかし、その瓦礫の中から彼らが手に入れたのは、誰にも奪うことができず、誰にも売ることができない、果てしない「空の奥行き」だった。










第七章:空を誰にも譲らない ―― 欲望の再定義







カエルム・コーポレーションは、その大きな資産と信用を失い、瞬く間に崩壊した。しかし、物語はそこで終わりとはならない。人間という生き物の欲望は、そう簡単には死なないからだ。








「今のうちにこの空き地を確保しろ!」






「太陽の光を反射させる巨大な鏡を空に浮かべようぜ!」






「本物の太陽を見るための観覧チケットを販売するぞ!」







空が空になった途端、そこをまた自分の色で埋め尽くし、支配したいという本能が、街のあちこちで頭をもたげ始めた。しかし、カゼとソラは、以前とは違う場所で、違う目的のために働いていた。彼らの新しい仕事は、空に何かを建てることではない。「空に何も建てさせないこと」だった。







「ねえ、カゼ。港区の高度400メートル付近。個人投資家が勝手にレーザー・ロゴを照射し始めたわ。掃除の時間よ!」







ソラが端末を操作しながら指差す先、地表の隅から、小さな光の針が空を汚そうとしていた。カゼは、愛用の電子デリーターを肩に担ぎ直し、不敵な笑みを浮かべてポッドに乗り込んだ。








「了解だ。空ってのは、欲望を溜め込むためのクローゼットじゃない。何もないことを楽しむための、みんなの広場だってことを、あいつらに教えてやらなきゃな!」







二人は、真っ青な、どこまでも透き通った本物の空の下を歩き出した。頭上には、広告も、ロゴも、ホログラムのビルも、何一つ存在しない。ただ、どこまでも冷たく、清らかな「青」があるだけだった。

人々が奪い合うことをやめ、何も所有しないことを受け入れたとき、空は初めて、誰のものでもない、世界そのものになった。








欲望が集積することのない、透明な世界…







二人が見上げる空には、昨日までそこにあったどんな豪華な仮想の城よりも美しい、白く、柔らかな本物の雲が、風に吹かれてゆっくりと流れていた。

カゼとソラ。風と空。その二つの名が、新しい時代の最初の一行を、何もない空に刻んでいく…

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