【短編】忍びと密命

黒蓬

第1話 下された密命

月のない夜だった。


俺は屋根から屋根へと跳び移り、闇に紛れて長屋の一角へと帰還した。任務は滞りなく完了、標的は眠ったまま息を引き取った。気づくことも苦しむ間もなく。


足音を殺して長の部屋へ向かう。廊下には誰もいない。この時刻、ほとんどの者は任務に出ているか、明日に備えて休んでいるかのどちらかだ。


襖を開けると、長が座していた。


「戻りました」


「ご苦労」


短い言葉だけが交わされる。俺たちに必要なのは結果だけだ。感想も、感情も、いらない。ただ命じられた通りに動き、確実に仕留める。それが忍びとしての生き方だった。


長は懐から一枚の紙を取り出した。


「次の任務だ」


「は」


俺は紙を受け取り、目を通す。場所は記されているが、標的に関する情報が驚くほど少ない。隠れ屋敷に囚われている人物を暗殺せよ。ただそれだけだ。


「……対象の詳細は」


「見れば分かる」


長の声には、いつもと変わらぬ静けさがあった。だが、その一言には明確な意図が込められている。これ以上聞くな、と。


俺は黙って頷いた。


稀にある。知らされない任務が。知るべきではない情報が。忍びとして生きる以上、それを受け入れるしかない。疑問を抱くことはあっても、それを口にすることは許されない。


「承知しました」


「三日以内に」


「は」


俺は紙を懐にしまい、長の部屋を後にした。廊下を歩きながら、任務の内容を反芻する。隠れ屋敷。囚われている人物。暗殺。断片的な情報だけが、頭の中で静かに整理されていく。


自室に戻り、装備を確認する。苦無、煙玉、鉤縄。全て問題ない。刃の手入れを済ませると、俺は仮眠をとることにした。任務は明日の夜に決行する。


翌日の夕刻。


俺は指定された場所の近くまで来ていた。人気のない山間の道を進み、木々の合間から目的の屋敷を確認する。


思っていたより大きな屋敷だった。


高い塀に囲まれ、要所要所に見張りが立っている。明かりが灯る窓は少なく、ほとんどの部屋が闇に沈んでいる。警備は厳重に見えるが、侵入できないほどではない。


俺は木の上から屋敷の全体像を把握していく。門の位置、警備の巡回パターン、死角となる場所。全てを頭に叩き込み、最適な侵入経路を組み立てる。


風が吹いた。


木々が揺れ、葉擦れの音が静寂を破る。俺は息を整え、屋敷を見据える。


あの中に、標的がいる。


誰なのかは分からない。なぜ囚われているのかも知らない。だが、それは俺が知るべきことではない。ただ命じられた通りに動き、確実に仕留める。


それだけだ。


夜が深まるのを待ちながら、俺は屋敷の様子を観察し続けた。警備の交代時刻、灯りの消える順番、全てを記憶に刻む。


やがて、月が雲に隠れた。


絶好の機会を逃さず、俺は木から降りると闇に紛れて屋敷へと近づいていく。塀の影に身を潜め、警備が通り過ぎるのを待つ。足音が遠ざいたのを確認すると、俺は鉤縄を投げ、塀を越えた。


着地は音もなく。


敷地内に侵入した俺は、屋敷の外壁に沿って移動する。窓からわずかに漏れる明かりを避け、暗がりだけを選んで進む。


この先に何が待っているのか、俺にはまだ分からない。ただ一つ確かなのは、今夜中に標的を仕留めるということだけだ。


感情を殺し、呼吸を整え、俺は屋敷の奥へ進んでいった。

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