第2話:遠回りの変奏
それは感情と呼ぶには、少し静かすぎた。
嬉しいとか、悲しいとか、そういう分かりやすい動きはなかった。胸が高鳴ることも、息が詰まることもない。ただ、ある日を境に、いくつかの選択がゆっくりになる。急がなくてよくなった、というほうが近い。
彼女と知り合ったのは、偶然だったと思う。職場が同じで、帰る時間が重なる日が何度かあった。それだけのことだ。会話は短く、必要なことだけ。沈黙が長くなっても、気まずさはなかった。
最初に変わったのは、帰り道だった。
それまで私は、駅まで最短の道を選んでいた。信号が少なく、人通りもそこそこある、効率のいい道だ。彼女と並んで歩くようになってからも、しばらくは同じだった。
ある日、彼女が言った。
「こっち、遠回りだけど静かだよ」
理由はそれだけだった。特別な景色があるわけでもない。街灯が少し暗くて、住宅の間を抜ける道だ。私は一瞬だけ迷って、それから頷いた。
遠回りは、確かに静かだった。
車の音が減り、足音が残る。話さなくても、沈黙が広がらない。時間が伸びたのに、損をした感じはしなかった。駅に着くころには、電車を一本逃していたが、それも大した問題ではなかった。
次の日は、遠回りをしなかった。
彼女が何も言わなかったからだ。私も何も言わなかった。最短の道を歩いて、いつも通りの時間に駅に着いた。電車にも間に合った。何も問題はなかったはずなのに、前の日よりも時間が早く進んだような気がした。
その次の日は、彼女が少し遅れて現れた。
「今日は急いでる?」
そう聞かれて、私は首を横に振った。急いでいなかったわけじゃない。ただ、急ぐ理由を口にするほどのことでもなかった。
「じゃあ、昨日と同じ道で」
彼女はそう言って、遠回りのほうへ足を向けた。私は、その一歩を見てからついていった。選んだというより、置いていかれなかった、という感じに近い。
遠回りは、毎回同じではなかった。
雨の日は、舗装の割れた場所を避けて歩いた。風の強い日は、建物の陰を選んだ。コンビニの明かりが漏れている道を通ることもあれば、街灯だけが続く道を選ぶこともあった。
私は、いつからか距離を測るようになっていた。
彼女との距離ではない。駅までの距離でもない。遠回りをした日と、しなかった日との差だ。何分違うのか。何本電車が違うのか。数字にすれば簡単だった。でも、私はしなかった。測ってしまうと、どちらが正しいか決めなければならなくなる気がした。
ある日は、途中で彼女が立ち止まった。
「今日はここまでで」
理由は言わなかった。私は頷いて、少し先まで一緒に歩いてから別れた。振り返らなかった。振り返る必要がある別れではなかったからだ。
その日は、一人で遠回りを続けた。
彼女がいない道は、少しだけ音が多かった。足音が二人分から一人分になったせいか、周囲の音が入り込んできた。車の音、遠くのテレビの音、犬の鳴き声。静かではあったが、前とは違う静かさだった。
駅に着くと、私はベンチに座った。
次の電車まで、数分あった。立って待つこともできたが、そうしなかった。座る理由も、急ぐ理由もなかった。スマートフォンを見る気にもならず、ただホームを行き交う人を眺めていた。
そのとき、私は思った。
遠回りは、時間を使う行為じゃない。時間を使わないための行為なのかもしれない、と。
私は、その考えに名前をつけなかった。
名前をつけてしまうと、正しさを確認したくなる。誰かと共有したくなる。説明できないと、不安になる。そういう段階には、まだ行きたくなかった。
翌日、彼女は言った。
「今日は、どっちにする?」
私は少しだけ考えて、それから答えた。
「任せる」
彼女は小さく笑って、遠回りのほうを選んだ。
その笑顔に意味があるのかどうか、私は判断しなかった。ただ、その日も電車を一本逃した。それだけだった。
名前をつけなかった感情は、こうして少しずつ場所を変えていった。
増えもしないし、減りもしない。ただ、選択の間に入り込んで、決断を遅らせる。急がなくていい、と言うわけでもない。急ぐ必要があるのか、と問い返してくるだけだ。
私はそれを、邪魔だとは思わなかった。
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