名前をつけなかった感情について
アイル・シュトラウス
第1話:名前をつけなかった感情について
それは感情と呼ぶには、少し静かすぎた。
胸が高鳴ることもなければ、落ち着かない夜を過ごすこともなかった。
朝は普通に目が覚め、コーヒーの味もいつもと変わらない。
変化があるとすれば、いくつかの選択にかかる時間が、
以前より長くなったことくらいだった。
急がなくてよくなった、という感覚に近い。
私の住んでいる社会では、感情には名前がある。
正確には、名前を与えることができる。
一定以上の強度を持った感情は、記録され、分類され、管理される。
義務ではないが、推奨はされている。
名前のない感情は扱いにくく、判断を遅らせるからだ。
多くの人は、その仕組みを便利だと感じている。
自分が今どういう状態なのかを、言葉にしなくても確認できる。
迷ったときは一覧を開き、該当する項目を選べばいい。
選択が済めば、あとはシステムが補助してくれる。
仕事でも、人間関係でも、感情の自己申告は前提条件になっていた。
私は、その流れに特別な違和感を覚えたことはなかった。
彼女と知り合うまでは。
同じ職場で、部署も近い。
顔を合わせれば挨拶をするし、必要があれば短い会話も交わす。
最初はそれだけの関係だった。
昼食を一緒に取ることもなければ、
仕事以外の話をすることもない。
帰る時間が重なったのは、偶然だと思う。
エレベーターで一緒になり、建物を出て、駅へ向かう。
同じ方向だと分かってからも、特に理由はなかった。
ただ並んで歩くようになった。
それだけだ。
会話は少なかった。
天気の話や、電車の遅延。
仕事の愚痴も、ほんの一言で終わる。
沈黙が長くなっても、どちらも気にしなかった。
無理に埋めようとしない沈黙は、
意外と続くものだと、そのとき初めて知った。
数値を確認する必要もなかった。
彼女がどんな感情を登録しているのか、私は知らない。
彼女も、私の状態を尋ねてこなかった。
その距離感が、ちょうどよかった。
近づきすぎず、離れすぎない。
判断を要求されない関係。
最初に変わったのは、帰り道だった。
それまで私は、駅まで最短の道を選んでいた。
信号が少なく、人通りも安定している。
効率だけを考えれば、他に選ぶ理由はない。
ある日、彼女が言った。
「こっち、少し遠回りだけど静かだよ」
理由はそれだけだった。
私は一瞬だけ立ち止まって、それから頷いた。
遠回りをする必要はなかったが、断る理由もなかった。
地図上では数分の差だったし、
その日は特に急ぐ予定もなかった。
遠回りの道は、確かに静かだった。
車の音が減り、足音がはっきり聞こえる。
街灯は少なく、住宅の影が長く伸びている。
話さなくても、沈黙が広がらない。
時間が伸びたという事実だけが、
ゆっくりと積み重なっていく。
駅に着いたとき、電車を一本逃していた。
それでも、困った感じはしなかった。
私はその感覚に、名前をつけなかった。
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