第10話
*
「疲れたあ、明日で実習も終わりだ。早く終わってほしい」
「明日終わったらさ、新しく出来たカフェ行こうよ。午前中には実習終わるじゃん。それからならランチタイムも間に合いそうだし」
「おっいいねえ。じゃ明日の楽しみの為に帰ったら最後の追い込みかけるか」
「そんな事言って、帰ったらすぐ寝ちゃうでしょ」
「流石にそんな事しないって。今回の実習は大事だって先生も言ってたじゃん。今日も徹夜で勉強するつもり」
「気合い入ってるじゃん。じゃ私こっちだから。また明日ね、寝落ちすんなよ」
「しないわ、じゃあね」
携帯の液晶画面で時間を確認する。
二十一時十三分。思った以上に帰りが遅くなってしまった。
早く帰らなきゃ。早足で帰路を急ぐ。帰ったらまずお風呂に入っちゃおう。それから軽くご飯食べて、すぐに勉強始めなきゃ。眠気覚ましの為に珈琲でも飲もうかな。
八月も半ばに差し掛かり猛暑のピークを迎え、夜間も蒸し蒸しとした日々が続いていた。
こめかみから汗が垂れ落ち、それを右手で拭う。
大通りを抜けると、一気に騒音が無くなり辺りは静寂に包まれた。薄暗い街灯が等間隔で並んでいる。一箇所だけ点滅していて、消え掛かっていた。街灯の灯りに群がる虫の羽音が、鮮明に聞こえてくる。
不快な音を聞かない様にする為、イヤフォンを取り出そうと鞄を漁っていると、視界の端で何かが動いた。
なんだろう。
辺りを見回すが、変わった様子はない。不快な虫の羽音だけが暗い路地に響き渡る。
気持ち悪い、早く帰ろう。
その場から駆け出そうとしたその時、物陰に潜んでいたであろう真っ黒な何かがこちらへと近づいてくるのを捉える。
人だ。全身を真っ黒に包んでいるその人は、無言でこちらへと近づいてくる。
熱帯夜にも関わらず、フードとマスクしていて顔が見えない。
「あの、誰ですか」
何も答えない。にも関わらず、一歩、また一歩とこちらへと距離を詰める。
「なっなんですか、来ないで下さい」
鞄を両腕に抱いたまま後ずさる。恐怖からか声が震えた。
薄暗い街灯の灯りで、その人が後ろ手に持っているものが鈍く照らされる。
それを見た途端瞬時に理解した。こいつだ。こいつがこの街に潜む殺人鬼なんだ。この鈍器で何人もの人を殺したんだ。頭が混乱しその場から動けなくなると、その姿を見た殺人鬼は両手で鈍器を握り高く振り上げた。
「うわっ」
間一髪で殺人鬼の一撃を避けるが、そのまま地面に倒れ込んでしまう。鞄に入っていた財布や携帯電話が散らばる。地面についた掌が熱い。
殺人鬼は鈍器を地面に引きづり、カラカラと音を鳴らして近づいてくる。
足が震えて立つ事が出来ない。股の間から生温い液体が垂れ、はいていたズボンにシミをつくる。
「ごめっごっ、ごめんなさい。ころっ殺さないで。何でもするから。お願いします、お願いします」
顔を伏せ許しをこう様に、何度も何度も口にする。
「こっ殺さないで。お願いします、お願いします、お願いします、お願いします・・・」
薄汚れたスニーカーが視界に入る。歯をカチカチと鳴らし、胸の前で両手を握りしめる。震えが止まらない。溢れ出す涙と鼻水が顔を濡らした。
「助けて、助けて、助けて、助けて・・・」
目の前の薄汚れたスニーカーは動く気配をみせない。意を決して伏せていた顔を恐る恐る上げる。
振り上げられた鈍器が目の前に迫っていた。
あつい。それもそうだ。きょうはねったいやだ。
こめかみから垂れた汗を右手で拭う。熱を帯びた様に熱くなっている。
なんでこんなにあついんだろう。あれ、おかしいな。あせがあかいいろをしている。
止まる気配を見せない汗は絶え間なくこめかみから溢れ出す。
おかしいなあ、と汗を拭う。右手は真っ赤に染まっている。掌を開くと指先が震えた。
震える指先の向こうに、吸い込まれそうな夜空が広がっている。
きれいだなあ。ずっとみていたいけれど、あしたはじっしゅうなんだからはやくかえらなきゃ。
夜空の暗さに目が慣れ、夜の闇にぼんやりとしたシルエットが浮かび上がる。シルエットは次第に鮮明になっていき、人の形となった。
フードとマスクに覆われた顔は、見上げる形となった今でも捉える事は出来ない。まるでブラックホールの様な、光さえも飲み込んでしまう大きな黒い穴が顔を覆っている様であった。
「・・・だれ、な・・・の・・・」
消え入りそうな声で懸命に言葉を紡ぐが、頭部に再び重い衝撃を受ける。
激痛が走り、深い暗闇の底に落ちていく意識の片隅で、珈琲を淹れる祖母の後ろ姿を見た。
*
花泣言葉 池子 @koiking7474
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