異世界パンデミック【短編】
ユニ
第1話 最強の最低レベル
「――ふっ」
気合とも呼べない、ただの呼吸音。
俺の手首がわずかに返ると同時に、鉄の塊が空を裂く。
パァンッ、と乾いた音が響いた。
切っ先が触れた瞬間、目の前のスライムは抵抗する素振りすら見せず、青白い光の粒子となって弾け飛んだ。
キラキラと舞い散るその光は、まるで夏の盛りに降る雪のようだ。
だが、俺の心は動かない。
これで今日、何体目だ?
無意識に振るった剣の軌道が、昨日よりも、一昨日よりも洗練されているのを感じる。……それが、どこか不気味だった。
俺が立っているのは、のどかな公園の一角。
古びた金網で囲われた直径10メートルほどのドーム状空間――通称『簡易ダンジョン』だ。
広さはボクシングのリング程度。世界を脅かす魔窟とは程遠い、子供の遊び場のような空間。
だというのに、金網の外からは、やんやの喝采が湧き起こっている。
「わーっ! おにいちゃん、すごーい! キラキラだー!」
「うんうん、今日の手際も見事じゃったのう。拝んでおこう、ありがたや、ありがたや」
金網にしがみついてはしゃぐ小さな女の子。
拝むように手を合わせる近所のおばあちゃん。
周囲を見渡せば、俺の『作業』を見守る子供たちや井戸端会議中のママさん達で溢れかえっている。
平和だ。あまりにも平和すぎる。
俺はこの界隈で、ちょっとした『ご近所ヒーロー』扱いをされているらしい。
だが、俺は知っている。
この安穏とした空気の中に、奇妙なノイズが混じり始めていることを。
(……おかしい)
俺は剣をだらりと下げ、わずかに眉をひそめた。
スライムが霧散した後のマナの残滓。それがいつもより濃い。
肌にまとわりつくような静電気にも似た感覚。
観客たちの歓声が遠くに聞こえるほど、鼓動が妙に早鐘を打っている。
何かが、来る。
この退屈で幸せな日常を、根底から覆すような『何か』が。
――――――――――――――――――――
【システム通知】
経験値を獲得しました。
レベルアップ条件を満たしていません。
レベルは1のままです。
――――――――――――――――――――
今日で連続109日目。
討伐数、5253体。
主人公が「システム上の数値(レベル)」とは無関係に、**実戦経験によって身体能力や感覚が異常な領域に達している**という描写を加筆しました。これにより、「レベル1だけど実は最強」というカタルシスへの布石を打ちます。
---
視界の端、半透明のホログラムが音もなく滑り出てくる。
無機質なシステムログが、俺の網膜に冷酷な事実を突きつけた。
――――――――――――――――――――
【戦闘終了】
獲得経験値:ERROR(計測不能)
レベルアップ条件:未達成
現在のレベル:1
――――――――――――――――――――
「……また、これか」
今日で連続109日目。討伐数は5000を超えた。
普通の冒険者ならとっくに中級職へ転職している数だ。
だというのに、俺のステータスは凍りついたように『1』から動かない。バグなのか、あるいは何かの呪いなのか。俺は世界に見放された、永遠のレベル1だ。
だが――不思議と、絶望感はなかった。
俺は手の中にある剣を、軽く握り直す。
支給品の安っぽい鉄剣。最初は重くて振るうのもやっとだったその鉄塊が、今は**まるで羽毛のように軽い**。
指先と剣の重心が完全に同調し、振るう前から「斬れる軌道」が脳裏に焼き付くような感覚。
経験値がシステムに反映されないなら、肉体に刻むまでだ。
5000回の実戦。5000回の命のやり取り。
その反復は、俺の神経を研ぎ澄まし、動体視力を異常な域まで引き上げていた。
さっきのスライムの動きもそうだ。襲いかかってくる瞬間、俺にはまるで**コマ送りのスローモーション**のように見えていた。
「……ま、レベルなんて後からついてくる。」
俺はシステムウィンドウを指先で弾き消した。
今はただ、この研ぎ澄まされた感覚で、近所の人たちのささやかな日常を守れるのなら、それで十分だ。
「おいコラ! どけお前ら! 邪魔だ邪魔だぁ!」
突然、和やかな空気を切り裂く怒号が響いた。
子供たちが怯えて母親の後ろに隠れる。
「……猿田(さるた)君。どうしたんだい?」
現れたのは、俺と同じ高校の制服を着た男、猿田正彦(さるた ただひこ)。
高校生にしてレベル23。この地域でも指折りの「エリート(自称)」だ。
猿田は金網を蹴り飛ばすようにして中へ入ってくると、鼻で笑った。
「よう万年レベル1。またスライムいじめか? 相変わらず底辺な仕事がお似合いだな、あぁん?」
「猿田君。ここはセーフティエリア外だ。制服のまま入ってくるのは危険だよ」
「はあ? 俺に指図すんのかゴミが。スライムなんて、俺んちの猫でも勝てるわ!」
猿田が威圧的に声を張り上げる。
180センチを超える長身に、鍛え上げられた体躯。そして何より、この粗暴な振る舞い。
観客だった近所の人たちは、すでに蜘蛛の子を散らすように逃げ出していた。
「……スライム討伐は、俺達の当番制のはずだ。そもそも、俺に全て押し付けたのは君じゃないか」
「ギャハハ! そうだったそうだった!」
猿田は腹を抱えて笑う。わざとらしい動作だ。
「悪いなァ。でも仕方ねえだろ? 俺様みたいな『Sランク候補』がやる仕事じゃねえんだよ。スライム掃除(クリーナー)がお似合いのお前と違ってな!」
「……掃除屋って呼ぶなよ」
「事実だろ? せいぜい頑張れよ、底辺。俺は忙しいか――」
猿田が俺の肩を突き飛ばし、背を向けた瞬間だった。
ブォンッ!
金網の中心、スライムの湧きポイントが、今まで見たこともない赤黒い光を放ち始めた。
「ん? なんだ今の音は」
猿田が振り返る。
いつもなら一瞬で終わる召喚光が、収まるどころか激しさを増していく。
大気がビリビリと震え、金網が悲鳴を上げた。
「おいヒサシ、お前なんか変なことしたんじゃ……なっ!?」
光が弾けた。
現れたのは、ゼリー状の魔物ではない。
全身を紅蓮の鱗に包んだ、絶望の具現。
――――――――――――――――――――
【敵性体解析】
個体名:レッドドラゴン
推定討伐推奨レベル:60(Sランク相当)
スキル:焦熱地獄(インフェルノ・ブレス)
――――――――――――――――――――
「グオオオオオオオオッ!!」
雄叫びだけで衝撃波が発生し、金網が飴細工のように吹き飛んだ。
「レ、レッドドラゴン……!? なんでこんな所に!?」
猿田の声が裏返る。
だが、すぐに彼はニヤリと口角を吊り上げ、一瞬で戦闘用装備【黄金の騎士鎧(ゴールド・メイル)】を装着した。
「ハッ! ツイてるぜ! こいつを倒せば俺は一気に英雄だ!」
「待て猿田! レベル23じゃ無理だ! 逃げるぞ!」
「うるせえ雑魚! お前はそこで指くわえて見てろ! 俺の伝説の始まりをなぁ!」
制止も聞かず、猿田は剣を抜いて突っ込んだ。
「らああああ! 死ねえええ!」
「グルァ?」
ドラゴンが煩わしそうに、鼻先へ迫る猿田を見た。
まるで羽虫を見る目だ。
ブォン。
ドラゴンの尻尾が、軽く薙ぎ払われる。
「え?」
ドゴォォォォォン!!
ただの尻尾の一撃。
それだけで、黄金の鎧は紙屑のようにひしゃげた。
猿田の体はボールのように弾き飛ばされ、公園の公衆トイレに激突。コンクリートの壁を粉砕して瓦礫の山に埋もれた。
「が……あ、あ……」
砂煙の中、猿田が這い出してくる。
自慢の鎧はボロボロで、片腕が奇妙な方向に曲がっていた。
顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。
「ひ、ひぃ……うそだ、嘘だ……俺は、エリート……」
「猿田!」
俺は瓦礫の方へ駆け寄ろうとしたが、ドラゴンの視線が俺たちを捉えた。
喉の奥で、業火が輝き始めている。ブレスが来る。
「ヒ、ヒサシ……」
猿田が震える声で俺を見た。
その目にあったのは、さっきまでの傲慢さではない。圧倒的な強者への恐怖と、諦めだ。
「逃げ……ろ……。お前みたいな……レベル1が……勝てるわけ、ねぇ……」
この期に及んで、こいつは。
まあいい。ここで見殺しにしたら寝覚めが悪い。
「……下がってろ、猿田」
「あ……? なに、言って……」
俺はスライム用の安物の剣を構え、ドラゴンと対峙する。
不思議と恐怖はなかった。
毎日毎日、5000回以上剣を振り続けた感覚が、体に染み付いている。
「すぐに終わる」
俺は小さく呟き、たった一つのスキルを発動させた。
――【一閃】。
刹那。
世界から音が消えた。
俺が剣を振り抜いた姿勢のまま静止すると、遅れて衝撃が走る。
ドラゴンの首元に一本の線が走り――次の瞬間、巨体がズレた。
ドサァッ。
首を失ったドラゴンの体が地に落ち、膨大な青い光となって霧散していく。
勝利まで、0.1秒。
「……ふぅ。ちょっと刃こぼれしたか」
俺は剣を確認して、血振るいをしてから鞘に納めた。
そして、腰を抜かしている猿田の方を振り返る。
「大丈夫か? 猿田君」
「は……」
猿田は、パクパクと口を開閉させていた。
焦点の定まらない目で、俺と、ドラゴンが消えた虚空を交互に見ている。
「え……あ、え……?」
先ほどまで「底辺」と見下していたレベル1の男が、Sランクモンスターを瞬殺した。
その事実が、猿田のエリートとしてのプライドと常識を、粉々に破壊していた。
俺は呆然とする猿田を放置して、散らばったドロップアイテムを拾い始めた。
明日のスライム掃除、大変そうだな……。
異世界パンデミック【短編】 ユニ @uninya
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