愛するために殻をもつ

チャーハン@新作はぼちぼち

卵殻を作ろう

 大学二年の春。

 僕は恋愛サービスを使った。


 月に二千数百円。たっかい学食を数回我慢すればTAだけで払える金額だ。

 画面の向こうでは、相性のよい相手が「おすすめ」として整列する。

 指先ひとつで近づけるという。


 例えば……趣味。

 例えば……価値観。

 例えば……休日の過ごし方。


 そういう情報を交換し、噛み合わせがよければ恋人になれるのだ。

 当時の僕は、ただ幼い生物だった。地方から関東へ引っ越してきたばかりで、人という生物の呼吸を知らなかった。


 人は欲望に囚われている。

 欲望は、ただの性的衝動ではない。生きるために、増やすために、守るために、飾るために、正当化するために——人を動かす見えない指令だ。

 それを知らないまま、僕は「測られる場所」に足を踏み入れた。


 せめて――僕のような失敗者が、もう増えないことを祈り、綴らせていただく。



 人にモテるとは、何か。

 僕は当時、それを「生まれつきの才能」と「後天的なやり取り」だと思っていた。


 生まれつきの才能は、容姿だ。

 悲しいかな、容姿は思うほど自由に変えられない。身長も骨格も、笑ったときの皺の入り方も、簡単には書き換わらない。

 僕の中にはさらに、うまく喋れない時間や、うまく眠れない夜があった。僕はそれを「欠陥」と呼び、直せないものだと決めつけていた。


 だから残るのは、行動力だ。

 行動して、経験値を増やして、会話の勝ち筋を覚えて、自分の価値を高める。そういう努力で差を埋める。

 けれど努力には、どこかで天井が来る——僕はそう信じていた。


 僕は「ワーキングメモリ」という言葉が好きだった。

 作業記憶。処理できる情報量。器の大きさを表す用語。

 その言葉を知ってしまえば、「僕の脳みそは優秀ではない」と言える。言えるということは、逃げられるということだ。


 言い訳があれば、負けを受け入れられる。

 負けを受け入れれば、挑戦しなくて済む。

 ――だから僕は、愚者であった。



 僕はアプリを使うにあたり、様々な人間の伝聞を聞いた。

 伝聞を聞かねば、僕としての価値は一銭もないと判断したためだ。


 登録画面は、僕を小さな部品に分解していく。

 表示されるニックネーム。登録用の本名。身長。年齢。居住地。カード情報。

 血液型は任意のはずなのに、空欄だと臆病に見える気がして埋めた。任意が任意でなくなる場所だった。


 趣味はタグで選べと言う。読書、映画、散歩、カフェ。

 人間の中身を語る言葉のはずなのに、棚に貼るラベルのようだった。


 自己紹介文には、こう書いてある。

 「あなたの魅力を伝えましょう」


 魅力。


 僕にそんなものがあるなら、こんな場所で証明する必要はない。

 だが証明しないとゼロになる。僕はゼロを怖れている。


 魅力とは、なんだろうか。

 結局それは、「平均」と呼ばれる幻が定めた作法の集合だ。

 笑い方、距離、清潔感、気遣い、話題の選び方。そこから逸れた瞬間、異物として弾かれる。

 モラルではない。安全の顔をした同調圧力だ。


 人は皆、生存したい。

 誰よりも幸せに、誰よりも幸福に——そう願う。

 だから人は、自分を守るためにルールを作り、ルールに合わないものを「魅力がない」と呼ぶ。便利な言葉だ。切り捨てる理由になるから。


 僕だって同じだ。

 人の価値観を「ごみ」と断じておいて、その価値観に従わなければ生きられない。

 従う者が勝ち、逆らう者が負ける。

 僕は負けが怖かった。



 写真は、いちばん卑怯だった。

 僕の顔は僕のものなのに、他人の評価の入り口になる。角度を変え、光を変え、笑い方を変え、なるべく「正しい人間」に見える瞬間を切り出す。

 作業を終えた頃には、もう一人の僕が画面の向こうに立っていた。そこにいるのは僕のはずなのに、僕ではない。最初の擬態が、すでに始まっていた。


 マッチングは軽い。

 相手のカードを右に払えば肯定、左に払えば無視。肯定は快感になる。無視は罪にならない。

 人間を「可」「不可」に仕分けする指が、いつのまにか自分の喉にも触れている。

 通知が鳴るたび、胸が熱くなる。喜びよりも先に、数値が増えるような感覚があった。僕の価値が点として増える。点は面になり、面は皮膚になる。僕は皮膚を必要としていた。


 彼女と繋がったのは夜だった。

 プロフィールの文章は短いのに妙に湿っていた。好きなものの欄に「安心」と書いてある。そんなものを趣味みたいに置ける人間がいるのか、と僕は思った。

 メッセージの最初は定型の挨拶だったはずだ。なのに彼女は、返事の一行目で距離を詰めてきた。


「ねえ、今ひとり?」

「うん」

「そっか。じゃあ、ちょっとだけここにいて」


 そこにいて、という言い方が奇妙だった。会ってもいないのに、僕の居場所を指定する。

 僕は軽く返した。軽く返せば安全だと噂で聞いたからだ。

 だが彼女は軽さを許さなかった。返事が遅れると「寝た?」と送ってきて、早いと「偉い」と褒める。褒め方が妙に具体的で、神経に触れた。飼いならすみたいに。


 会うまでの速度も、彼女は決めた。


「今週、空いてる?」

「どこかで」

「どこかじゃ嫌。日にち」


 僕が日付を出すと、彼女は即座に場所を指定した。大学から遠くない駅前のカフェ。人目が多いのに、逃げ道がある席。彼女はそれを知っているようだった。


 当日、彼女は少し遅れて来た。遅刻の謝罪は言葉ではなく匂いで済ませた。甘い香水と、風に冷えた髪。席に座ると、彼女はまずスマホを伏せた。


「これ、見えないほうがいいから」


 何が、とは言わない。言わないまま、僕にだけ理解させようとする。

 僕は理解したふりをした。理解したふりは、僕の得意技だ。


 会話は平坦だった。好きな映画、最近の授業、バイトの話。どれも安全な道。

 ところが彼女は、ある瞬間、突然そこから降りた。


「私ね、彼氏いるんだ」


 淡々と言った。罪悪感を見せるでもなく、誇るでもなく。

 噂には「そういう人もいる」と書いてあった。だが実物は、噂より体温がある。口の中の水分が消えた。


「そうなんだ」

 僕はそれだけ言った。正しい反応がわからなかったからだ。


「でも、いま仲悪い」


 彼女は砂糖を入れすぎたコーヒーを一口飲み、顔をしかめた。


「喧嘩すると、体が冷えるの。わかる?」


 わかるはずがない。だが僕は頷いた。頷けば安全だと噂で聞いた。

 彼女は安心したように息を吐いた。まるで、僕の頷きが体温を戻したみたいに。


 そこから先、彼女は僕を「避難所」として扱った。

 夜中に来る。「今、無理」「もう帰りたい」「泣きそう」。

 僕が返す。「大丈夫」「話して」「ここにいる」。

 その一連のやり取りは、会話というより儀式だった。彼女は儀式を必要としていた。儀式は意味を作る。意味は人を縛る。


 彼女は上手い。弱さを見せるタイミングが、計算ではなく反射に見える。反射だからこそ厄介だ。

 こちらは「利用されている」と知りながら、「救っている」と錯覚する。

 僕も例外ではなかった。僕は救いたかったのではない。救っている自分でいたかった。救う側でいれば、価値がある気がするからだ。


 彼女は、ときどき残酷に現実を突きつけた。


「今日、会える?」

「いま?」

「うん。終電まで」


 僕が迷うと、彼女は笑いもせずに言う。


「無理ならいいよ。そういう人、多いし」


 多いし、という言葉が刃物だった。僕は「多い」側になりたくない。多い側は替えが利く。替えが利くものに価値はない。

 だから僕は会いに行く。会う理由を自分で作って。


 会えば彼女は甘い。甘さは蜜ではなく粘液に近い。肌の距離を詰め、目の焦点を合わせ、僕の言葉を吸う。


「ねえ、私のこと、好き?」


 そう聞くくせに答えを求めていない。答えが出た瞬間、次の条件が生まれるからだ。

 好きと言えば「じゃあ、待てるよね」。

 好きじゃないと言えば「ひどい、じゃあ何でいるの」。

 どちらも彼女の勝ち筋だ。


 僕は学んだ。好き、という言葉は使わないほうがいい。代わりに、ここにいる、と言えばいい。彼女が欲しいのは恋人ではなく、存在証明の装置だからだ。


「ここにいるよ」


 そう送ると、彼女は満足する。僕が人間である証拠を、僕自身から引き出して、布団のように被る。


 彼女の「彼氏」は、影のようにいつもいる。名前は出ない。写真も見せない。

 だが彼女の言葉の端々に、別の誰かの手触りが残っている。


「今日ね、怒鳴られた」

「『お前が悪い』って」


 具体的すぎて、吐き気がした。僕は彼女の体験に触れているのではない。彼女を通して、見えない男の声をなぞっている。僕の喉が、他人の言葉の通り道になる。


 それでも僕は離れなかった。いや、離れられなかった。

 彼女が「会いたい」と言う時、そこには必ず期限がある。終電まで。明日の朝まで。今だけ。

 期限は決断を奪う。決断できない人間は流される。流されることは、僕にとって楽だった。自分の意志で選ばない限り、罪悪感は薄まる。


 彼女は僕を「キープ」した。

 キープ、という言葉は彼女の口からは出ない。出さないところが、いちばん気持ち悪い。

 彼女は代わりにこう言った。


「あなたは、私を捨てない」


 断定形。約束ではなく規則。

 僕が否定すると、彼女は静かに泣く。泣き方も上手い。声を上げない。涙だけ落とす。

 僕は罪を感じる。罪を感じたくないから、肯定する。肯定した瞬間、規則が成立する。


 僕も彼女をキープした。

 僕にとって彼女は恋人候補ではない。価値の証明書だった。

 彼女から「必要」と言われることが、僕の空白を埋める。空白を埋めるためなら、倫理の形を少し歪めるくらい、僕は簡単にやってしまえる。

 気づけば僕は、彼女の涙の理由より、通知の赤い点のほうを信じていた。


 彼女は時々、僕のことを「いい人」と呼んだ。

 褒め言葉の形をしているが、実際には鎖だ。

 いい人は怒れない。いい人は要求しない。

 いい人は、いつでもそこにいる。


 彼女は僕をいい人に固定し、必要な時だけ開封した。

 開封されるたびに、僕は嬉しかった。

 開封されるたびに、僕は薄くなった。


 理性という蠟燭蠟が、ぽたりと金皿におちた。


 ――決定的だった夜。


 彼女から「来て」とだけ送られてきた。

 場所も理由もない。

 僕が「どこ?」と返すと、少し間を置いて駅名が来た。


 ――――いやなよかんがした。


 服を着て足早に外へ出た。

 改札の近くで会った彼女は笑っていた。

 泣いた後の笑いだ。目の奥が濡れているのに、口角だけ上がっている。


「仲直りした」


 鈴声が胸をゆらした。

 フフッ、脳に反響する笑いが脳をゆらした。


「でも、今日はあなたに会いたかった。思い出にホテル、行かない?」


 その言い方は、敗者に対する優しさの形をしていた。

 僕は敗者にされたのに、慰められている。気持ち悪さが喉に溜まる。

 それでも僕は、そこにいた。そこにいることでしか、自分を保てないからだ。


「……ごめん」

「そう。なら、代わりにあげるね」


 彼女は僕の手を取って、指を一本ずつ確かめるように撫でた。

 そして――口づけをした。


 彼女の方が少しだけ熱かった。体温が高いのだろう。

 ………………それだけしか、思いつかなった。


 やはり、僕は頭が悪いようだ。

 

「温かい時間、ありがとうね。安心感あって、楽しかった」


 温かい、という評価。僕は体温の機能に変換される。

 彼女はそれを「安心」と呼ぶ。

 安心は、彼女の欲望のいちばん露骨な名前だった。


 それは、肉体の話ではない。


 生命が勝手に求めてしまう“居場所”の話だ。


「あなたは、私のことを分かってくれた。とても…とても………うれしかった」


 ……うそだ。

 ……わかるはずがない。


 僕という気持ちは……ぼくにしか、わからない。

 それでも、僕は頷いた。 

 敗者は敗者なりに、きれいに散りたかったのだ。


 頷けば、僕は価値のある人間になれる気がしたから。


 帰り道、スマホの画面に彼女から連絡がきた。


「また、暇があったら連絡するね」


 それだけだった。


 あの日から――僕は、優しさを持つようになった。

 誰かにやさしくすれば、虚像の僕をすく人がいるのだから。 


 そのために僕は、汚れたままの優しさを持ち歩く。

 彼女が誰かの元に帰っても、僕は他の彼女を待てる。

 キープできれば、安心できる。逃げ道が増えるから。

 

 ――――僕は、輪郭がさらに薄くなった。


 恋と呼ばれる盲目は、僕と呼ばれる核をやすりで削り取ってくる。

 金属音で削られた僕の体は、テセウスの船みたいに代替される。

 替えられた道具はかなり強く、僕を強くしていく。


 ――僕は、誰かの心が分からなくなった。


 それは――多分、正義心なのだろう。


 もう消えてしまった……童の心なのだろう。


 僕はもう、止まれなかった。 

 目の前の画面から届くブルーライトに目を揺らされて。

 僕の人生は、永遠に、殻を強く、強く――強くしていく。


 たとえ――中身が空っぽでも。

 たとえ――その愛が、空っぽだと、分かっていても。


 殻で組み上げた身体と、体裁で煮詰めた脳みそだけを抱えて。

 僕は今日も、出会いを求めてしまう。


【最後に】

 

 これを読んだあなたへ。

 お願いがある。


 「誰かのため」という言葉を、安く使わないでほしい。

 それは優しさに見えて、実際には自分の欲望を他人に預ける行為だからだ。預けた瞬間、欲望は返ってこない。返ってこない代わりに、相手の手つきだけが上手くなる。


 嫌なら嫌と。

 好きなら好きと。

 はっきり言えるほうがいい。


 キープなんて、くだらないことをしなくていい。

 自分の都合を、相手の「事情」で包んで正当化しなくていい。

 そして何より、自分の言葉を手放さないでほしい。


 越えてはいけない一線がある。

 それは肉体の線ではない。倫理の線でもない。


 自分が本当は望んでいないのに、望んでいるふりを続ける線だ。

 拒めるのに、拒めないふりをする線だ。

 自分を守るための嘘を、誰かを救うための嘘だと呼び替える線だ。


 その線を越えると、自分という存在は驚くほど簡単に消える。

 消えるのに、呼吸だけは続く。

 殻だけが増える。

 おすすめだけが終わらない。


 そうして気づいた時、あなたはきっと僕みたいに言う。

 「まだ終わっていない」と。

 そして、その言葉がいちばん怖い、と。

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