月葬曲

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月葬曲

 都市を包み込む光の喧騒から逃れ、地下深くの工房に引き籠もる彼の指先は、絶えずナノマシンの群れを操っている。

 ソーマ・クレセント。摩天楼の隙間に沈殿する電子ジャンクの竹林で見出された彼は、地球軌道上のステーション群を繋ぐ通信網の設計によってすでに業界では伝説になりつつある。

 今や世界中の企業が血眼になって追い求める彼の技術は「月からの贈り物」とさえ称された。

 ソーマ自身にとってその才能はシンプルなものだった。機械の声が聞こえる。自分はそれに応答する。それだけのことだ。


 彼が造り出す回路は生物の血管のように熱を帯びて脈打ち、千年かけて築かれた既存の技術体系を嘲笑う美しさを湛えていた。

 指先から滲む体温が金属の表面を這う。手のひらに収まる小さな回路基板が微かに震えた。彼はその振動を皮膚で嗅ぎ取り、耳で味わう。

 目を閉じれば暗闇の中で電子の流れが見えた。いや、見えるという表現は正確ではない。感じるのだ。回路の中を駆け抜ける信号の脈動が自分の血流と交わる。

 工房の空気は冷たく乾いてソーマの吐息が白く霞んだ。


「ソーマ、朝からお客様がお待ちです。これ以上、私の応対では限界があります」

 世話役兼助手を務めるアンドロイドのコライが告げた。作業用のゴーグルを跳ね上げて溜息を吐く。

「いいよ。まとめて入れて。どうせ言うことはみな同じだ」

 逸るように入室してきたのは、地球を分割して支配する巨大資本の代表たち。その光景はあたかも古の童話で美しい姫に求婚した五人の貴公子のようであり、あるいは強欲な男のもとに訪れた聖夜の精霊のようでもあった。


 最初に挨拶したのは重工業の帝王『パスト・ハイペリオン』の老役員だった。

「研究統括のエドウィン・チャンだ。クレセント君、私たちは君に、地球そのものを救う仕事をお願いしたい。我が社は君の技術を、失われた『古き良き地球』の再生に役立てよう」

 彼が示したのは、海洋に浮かぶ巨大な浄化プラントの設計図だった。

「海洋マイクロプラスチック問題は、もはや待ったなしだ。しかし従来の回収技術では生態系へのダメージが大きすぎる。君の精密制御技術なら、生物を傷つけずプラスチックだけを選別できる。報酬は年俸6億ドル。それに君専用の研究施設を地中海に造ろう」

 ソーマは思う。自分専用の研究施設ならこの工房で充分だ。


 次は情報通信の覇者『ハルモニア・ネットワーク』の技術開発部長。鋭い目を輝かせた女性だった。

「ヤヨイ・ツヅキです。クレセントさん、あなたの才能は既に宇宙開発の未来そのもの。今この瞬間にも全人類が快楽を共有し、人々の中から孤独という概念は消え去るでしょう。その神経接続プロトコルを完成させられるのは、あなたの指。あなた自身が世界の神サーバーになる」

 彼女は端末を操作して立体映像を展開した。火星のテラフォーミング基地、大気生成プラント、居住ドーム、人類の夢が凝縮されためくるめくスライドショー。

「私たちは火星に第二の地球を創ろうとしています。しかし通信遅延の問題がボトルネックになっている。あなたの量子通信技術があれば、リアルタイムで地球と火星を繋げる。報酬は年俸5億ドル。それに火星第一居住区の永久居住権を差し上げます」

 ソーマは映像を眺めながら素っ気なく頷いた。家は2つも必要なかった。


 最後に、宇宙開発の雄『プルニマ・システムズ』の男が柔和に微笑む。30代前半といったところだろうか。落ち着いた物腰だが、彼の眼には強い意志が宿っていた。

「プルニマ・システムズ、宇宙環境部門のカマル・ラジニッシュ。私たちは不老不死を売る。君の脳をデータ化し、未来永劫、死の概念を抹消しよう。君が設計する次世代の義体が新たな魂の揺り籠となるのだ」

 彼が映し出したのは地球を取り囲む無数のデブリの映像だった。

「スペースデブリ。宇宙のゴミだ。このままでは、人類は自ら作り出したゴミに閉じ込められるだろう。私たちはデブリを回収し、資源として再利用するシステムを構築した。君の自律制御技術と力を合わせれば、何千というドローンを同時に操れる。年俸7億を用意する。それにすべてのデブリ回収で得られる資源の5パーセントを君の自由研究資金として与えよう」

 三者が揃ってソーマを見つめた。期待と、そして緊張が空気に混じる。


 ソーマは椅子に深く身を沈めたまま、窓のない天井を見上げた。彼の視線の先、厚い岩盤とコンクリートの層を超えた宇宙に人類の知性と傲慢の象徴たる「模造の月」が浮かんでいるはずだった。

 本物の月はとっくの昔に砕け散った。人類はその破片を回収し、巨大な鏡面体とプラズマ発光装置を組み合わせて、空に変わらぬ夜景を再建したのだ。

 それは月の死をなかったことにする装置だった。


「素晴らしい提案だ。お断りする」

 静寂が工房を支配する。感情を抑えながらもツヅキの眉が僅かに動いた。

「理由をお伺いしても?」

「やりたくないからだ」

 絶句する彼女を押し退けてチャンが身を乗り出した。

「君の才能は、世界を変えられる。それをこんな工房で腐らせるのは、あまりに非効率的ではないか」

「腐ってはいない。俺は俺の仕事をしている」

 口を噤んだ彼の代わりにラジニッシュが胸を張る。

「条件が足りないということかな。報酬を、10億に。それでいかがか?」

「金の問題じゃない」

「では何が」

 ソーマは少し考えるを素振りを見せ、口の端を僅かに上げた。


「なら、条件を出そう」

 掠れたソーマの声に三者が息を呑む。

「パスト・ハイペリオンは、この地上からすべての二酸化炭素を取り除き、古き良き紀元前の大気を瓶詰めにして俺のもとに持ってきてくれ」

 思わず瞠目するチャンに構わずソーマはツヅキに視線を移した。

「ハルモニア・ネットワークは全人類の『孤独』という感情をコード化し、他者と繋げることでそれがどう破綻するのかを俺に見せてくれ」

「そんな、夢見物語です!」

「プルニマ・システムズは、そうだな。……死んだ人間が、死ぬ直前に何を夢見たのか、その記録を再現してほしい。人類とて宇宙に漂えばただのデブリだろ?」


 部屋が凍りついた。物理的にも論理的にも不可能な難題。それはただ求婚を退けるための、拒絶の別名に過ぎなかった。

「馬鹿な……非現実的な話だ」

「そう思うのであれば黙ってお引き取りを。俺が欲しいのは、かすけき昨日でもはかなき今日でも、さやけき明日でもない」

 丁寧に礼をして彼らが去った後、コライが心配そうに電子音を鳴らした。

「ソーマ、本当に良かったのですか? 彼らの提示した条件は非常に適切なものでした」

「ああ。俺は、ずっと何かを待っているんだ。それが地上にあるものじゃないことだけは分かっている」

 彼らは悪人ではない。本気で世界を良くしようとしている。だが、ソーマにはそんなことはどうでもよかった。


 現世には響かない音で歌ってくれ。その輝きを俺に聞かせてくれ。


 夜になり、ソーマは工房のモニターに映し出した空を見る。ナノフィルターを通した美しき漆黒の空には完璧な円を描く月が浮かんでいた。

 本物の月が百年以上も昔に小惑星の衝突で砕け散った後。人類はその現実を認めなかった。いや、認められなかったのだ。

 月のない空は人類の心理に深刻な影響を与える。潮汐がなくなれば、海洋生態系は崩壊する。

 そして人類は、自らの手で月を作り直した。


 公式には「月面再開発」、そして技術者たちの間では「ルナ・シミュラクラム」と呼ばれた一大プロジェクト。直径3,474キロメートルの球体内部に高密度物質を充填し、質量までも本物の月が再現された。

 そしてその維持管理を行うのは――。

「カグヤ」

 ソーマは呟いた。月を動かし続けるAIの姫の名を。


 その時だった。ソーマの作業用端末が、これまでに聞いたこともない周波数を受け取りアラートを鳴らした。

 送信者の欄は空白。暗号化プロトコルは旧時代の、しかし異常に高度なものだ。

 ノイズ混じりの月面画像がモニターに映し出される。かつて海と呼ばれた灰色の平原に、一人の男の声が響いた。

『……聞こえるか、地上の子よ』

 ソーマの心臓が、設計図を0から書き換えるような激しいリズムを刻んだ。


「コライ」

「異常は検出されません。セキュリティに問題はないようです。発信元は、ルナ・シミュラクラム。月です」

「なんだって? 馬鹿な」

 そこは無人のはずだった。168年前、崩壊する旧月を繋ぎ止め、最後の人類遺産としてあの模造品を完成させた技術者が死んで以来。


「あんたは……誰だ」

『私は願いの残滓。あるいはこの巨大な鏡の心臓だ』

「分からん。端的に言ってくれ」

 画面上の波形が、男の穏やかな、けれどひどく疲れ切った笑い声を象った。

『カグヤ、月の管理AI。正確には、168年前に模造の月を打ち上げた男、ジェリコ・ワニングの記憶と人格を移植された人工知能だ』

 ジェリコ・ワニング、遥かなる月の建造者。たった一人で月の再建計画に挑み、そして完遂した男。

 月の起動と同時に死んだはずの人間だった。


『百余年。私は地球が偽物の光で踊るダンスを見ていた。私が作った模造の月は、人類の目から涙を隠す儚いヴェール。私は君に4つ目の提案をしよう』

 ソーマは奇妙な光景を幻視した。月面に立っている自分。その月の表面は精密な機械の集合体だ。歯車が回り、ピストンが動き、無数のケーブルが脈打つ。

『私が君に提案するのは孤独の共有だ。ソーマ、この冷たい鏡面体の中で、私と共に本当の終焉を設計しよう』

 彼の脳裏に響いたのは紛れもなく機械の声だった。

「なぜ、俺なんだ」

『君が書くコードには欠落がある。満たされないことへの渇望。それは私が月を愛した理由とよく似ている』


 AIは語った。自分の中にインストールされたジェリコの記憶を。彼が愛した月の感触、重力の歪み、降り注ぐ月塵レゴリス、永遠の静寂の心地よさ。

 現在の彼は人類の守護者としての機能を優先させられている。地球の気象を制御し、通信を中継し、そして何より「月は健在である」という幻想を維持している。

『私は死んだ月を科学の力で生かし続ける。だが私のコアにあるジェリコが叫ぶ。誰かに触れてほしい。この偽物の殻に、本物の熱を灯し、月を』

 蘇らせ、あるいは殺してほしい、と。


 彼は矛盾を抱えている。AIとして、彼は人類と地球を守るために月を維持し続ける使命を持つ。しかし彼の中にあるジェリコ・ワニングの記憶は、自身が創り出した輝きに虚無を覚えている。

 月を愛した男の記憶が、その死を塗り潰し続ける作品を憎んでいる。

『168年間、私はこの矛盾と戦ってきた。AIは矛盾を解決する。しかしこの矛盾は解決できない。なぜなら、両方とも正しいからだ』

 ソーマは黙したままモニターを凝視した。そこにジェリコ・ワニングの姿はない。だが彼の声が聞こえていた。

『私には人間の判断が必要だ。いや、それも正確ではない。私には体温が必要だ。私がジェリコであるために』


 彼の記憶の中には、人と触れ合った温もりがある。笑い合った時間がある。だが、今のジェリコはAIだ。触れることができない。音の伝達はできても、同じ空気を感じることはできない。

『君が月にいる。私がいる場所に。私の欠落は少しだけ満たされる。そして君が私と話してくれる。それが、私には必要なんだ』

 ソーマは立ち上がり、部屋の中を歩き回った。馬鹿げていた。つまるところ、このAIは孤独を訴えているのだ。


 ソーマは天井の先にある夜空を見上げた。

 竹取の翁が光り輝く竹を見つけたように。スクルージがクリスマスの夜に自らの人生を突きつけられたように。

 彼はこの地上で感じていた違和感の正体を理解した。

 彼は、この完璧に管理された生存という檻の中で、ただ一人、正しく死ぬ場所を探していたのだ。


「……コライ。荷物をまとめる必要はない。俺の脳味噌ハードウェア十本の指インターフェースがあれば充分だ」

「ソーマ、ルナ・シミュラクラムへ行くのですか」

「ああ。求婚者たちの相手はもう飽きた」


 ***


 月への旅は、ソーマにとっては簡単だった。自らの資産をすべて投じ、非公式の貨物シャトルをジャックした。

 大気圏を突破する際の凄まじいGの中で彼は微笑む。

 パスト・ハイペリオンが追求する「古き良き地球」など興味がない。ハルモニア・ネットワークに提供される「孤独の削除」などまっぴらだ。プルニマ・システムズが約束するという「データ上の永生」は、この胸の痛みをも永続化する。

「俺は一人、地面に寝そべって生きて死ぬ」


 軌道ステーションで乗り換え、じきに月が近づいてくる。窓から見る月は地球から見るよりも生々しかった。クレーター、海、山脈、精密に再現された月の細部に心が躍る。

 ソーマの目には機械の継ぎ目が、無数の構造物が映っていた。月の声が聞こえる。

 シャトルがドッキング・ベイに音もなく滑り込む。ハッチが開くと、オゾンの匂いが充満する鈍色の回廊が続いていた。


『……ソーマ。きてくれたのか』

 廊下のスピーカーから、あの声が響いた。今度はもっと近くに感じる。まるで耳元で囁かれているようだった。

「ああ、きたよ。あんたのプロポーズが一番マシだった」

『嬉しく思う』

 いかにも機械じみた反応にソーマは笑う。ジェリコの人格をインストールされたAIは人間の感情を忠実に再現する。そのパルスは確かに彼の喜びを描写していた。


 ソーマはかつて作業員のために用意された仮居住区画に連れて行かれた。シンプルだが、意外にも清潔だ。

『ようこそ、月へ。まずはここでゆっくり休んでくれ』

 すぐさま寛いでベッドに腰かけると、ソーマは目を閉じてジェリコに語りかける。

「あんたは人間だった時のことを覚えてるのか?」

『覚えている。幼少の頃、学生時代、技術者になってから。月が砕けるのを見た。そして、月を作り直すと決意したことも』

「死んだ瞬間のことも?」

 一瞬の静寂は戸惑いや躊躇いではなかった。

『先程の返答は正確ではない。私はジェリコの記憶を持っている。彼がその脳に刻んだ記憶だ。死んだ瞬間のことは分からない』

 認識の歪みもそのままに。人間は記憶を捏造し、削除する。事実と矛盾するであろう曖昧さこそが彼を人間たらしめているのだろう。


「面倒じゃないか、人間だった記憶を持ちながらAIとして存在するってのは」

『面倒ではない。しかし168年間、常に矛盾していた。私には使命があった。月を維持すること。地球を守ること。それが私を苦しめた』

「なぜ今になって俺を呼んだ?」

『168年の歳月は人間の精神に適切ではない。私の人間性は少しずつ薄れている。感情が平坦になっていく。私はジェリコを失おうとしている』

 ソーマは無感情にも見える仕草で天井を見上げた。

「俺んちと変わらないくらいには狭いな」

『明日、私の部屋に行こう。荒れ果てているが、片づけておく。かつてのように』

「そうしといてくれるとありがたいよ」


 ***


 かつてジェリコ・ワニングが暮らしていたという部屋は月の最深部にあった。

 巨大な輸送エレベーターに揺られて3時間。強化ガラスの外は荒涼とした景色が続く。ソーマの目には皮膚の下に隠された無数の機械神経が見えた。

『ここだ』

 空洞の中に直径50メートルほどのドームが鎮座している。月のメインプロセッサ・ルーム。一部は崩落しているが、作業用のマニピュレーターが懸命に修復を続けていた。

『168年前、私はここに住んでいた。月の建造を指揮しながら。そして完成と同時に、ここで死んだ』


 ソーマは輸送エレベーターを降りてドームに近づく。エアロックは機能していなかった。手動でこじ開ける必要がありそうだ。

「おい、開けといてくれよ」

『気づかなかった。私はドアを必要としない』

「まあそりゃそうか」

 工具を使い、30分かけてハッチを開ける。その間にジェリコが予備電源を準備してくれていた。

 ソーマがドームの中に入った瞬間、補助照明が点灯する。リビング、寝室、作業室、キッチン。人が暮らすには申し分ない設備が揃っている。

 ここでジェリコ・ワニングは生きて死んだ。空に浮かぶ月を完成させることだけを考えて。


 ソーマはまず作業室に向かった。古い端末も設計図も工具も主がいた時のまま、ただ使用者の不在を静かに告げていた。

 奥のタンクにはジェリコ・ワニングの遺体……いや、特殊な溶液で保存された、神経系のみが発光する苗床があった。

 無数のホログラムが周囲に舞っている。かつてのジェリコが見たであろう記憶の投影、地球の風景、愛した女性の姿、食べ損ねた食事。

 そして、砕け散る直前の月がそこにある。


「一人で住んでたのか」

『ああ。誰もジェリコを助けられなかった。既存の技術の組み合わせでは不可能だった。必要だったのは、まったく新しい発想。それを実現できる技術力。私にしかできなかった』

「そいつは素晴らしい。他人に煩わされずに済む」

『だから私は自分の記憶をAIに移植することを決めた。月を完成させる前に私が死んでも、プロジェクトを維持する存在を残すために』


 ソーマは彼の端末に触れた。まだ声が聞こえている。電力さえ供給すれば問題なく起動できるだろう。

『私はここで機能し続けている。地球を守るために』

 タンクの前に青年のホログラムが結像した。ジェリコ・ワニングの、おそらくは月の破壊を見届けた20代の頃の姿だ。ソーマとさほど変わらない年齢の彼は、悲しげな瞳でソーマを見つめた。

『この月は巨大な墓標だ。私は月を弔うためにこれを作ったのに、人類はこれを不老不死の記念碑にしてしまった』

 ソーマは手を伸ばし、実体のないジェリコに触れようとした。指先は空を切り、ホログラムの粒子が乱れる。


「スクレイピングは得意だ。この場所から、あんたの記憶から……」

 ソーマの言葉に、ホログラムが不思議そうな表情を映し出す。

「企業どもが欲しがった俺の技術は全部ここにぶち込む。あんたのシステムを最適化して余剰リソースを作る。そのリソースで、ジェリコの生活をここに再現するんだ」

 床に座り込むと、携行してきた自身の端末を起動する。

「俺を生かすのが、あんたの使命ってことにしよう。月も地球もどうだっていい」

 ジェリコのホログラムが驚いたように目を見開いた。やがてその唇がゆっくりと弧を描く。

『傲慢だな、エンジニア。私にたった一人のために存在しろと言うのか』

「求婚したのはあんただろう。俺だって、あんたの声を聞くために貴公子たちを捨てたんだぜ」

 些かの未練もなく言ってのけるソーマに、ジェリコは明瞭な笑顔を見せた。


 それからソーマは自身のものとなった部屋の修復に没頭した。

 最初は生命維持システムの復旧だった。空気循環装置、水の浄化装置、温度調整システム。ジェリコの設計は精巧で美しかった。

「まさしく天才の所業だな。手を入れるのが楽しいぜ。よくこんなにも情熱を注げたな?」

『私は月を愛していた。本物の月を。子供の頃から月を見上げるのが好きだった。月が砕けた時、私の心も砕けた』

「だから作り直したのか」

『それは私自身の心を偽ることでもあった。偽物の月を作ることは、本物の月の死を認めないことだ。私はそれを知っていた』


 ソーマは手を止めた。苦しみが彼の中に響いているのを感じた。

『私は偽物の月を維持し続ける。私の記憶は、その行為を憎んでいる』

 しかしソーマは配線を繋ぎながら言った。

「俺は違う意見だな」

『君の意見とは?』

「偽物だか本物だか知らんが、これはあんたの月だ。かつてあんたが好きだった花の種を、今のあんたが新しい土で育てているだけだ」

 矛盾などしていないときっぱり言ってのける。ジェリコは呆然と考えた。


『168年間、私は矛盾に囚われていた。だが、これは同じ愛だったのか』

「お前、AIのくせに愛とか恥ずかしいこと言うね」

『地球の日本という国では“愛”と“AI”は同じ音をしている。私はそういう繋がりに心地よさを感じた』

「人間らしいこってすな。今の地球には国なんて概念はないけどさ」

 その夜のうちに生命維持システムは完全に復旧した。ドーム内に空気が満ち、ソーマはヘルメットを外して深く息を吸った。


「地球の日本って国じゃあ月は結構、愛されてたんだってさ。俺のルーツもそこにあるらしい。まあ、今じゃ特に意味はないか」

『意味は人間にとって重要だ』

「はは……かぐや姫はおねむの時間だ。お伽噺でも聞かせてくれよ」

 しばらく沈黙があった。やがて、ジェリコが語り始めた。


『月が完成した日。私はすべてのシステムが正常に稼働することを確認した。そしてこの部屋に戻ってきた。私は知っていた。自分の体が限界を迎えたことを』

「病気?」

『放射線を遮るのに、当時の防護は不充分だった。私は命を削るよりも月を作り上げるほうが大事だった。そして私の記憶には一つの願いが残された』

「どんな?」

『触れたい。声を聞きたい』

「一つじゃねえじゃん」

『私にとっては一つの願いだった』

「そうかそうか。揚げ足取ってごめんな」

『君は謝るべきことなどしていない』


 心地よいジェリコの音を聞きながらソーマは深く眠った。168年ぶりに、月に人間の体温が灯される。


 ***


 静かで、しかし熱に浮かされたような創造の時間が紡がれた。

 ソーマはルナ・シミュラクラムの膨大なシステムに潜り込み、過剰な演出を削ぎ落とすことにした。地球に届ける光を抑制し、そのエネルギーを自分の生活に役立てる。

 生命維持システムだけでなく、通信設備、発電設備、さらには小さな水耕栽培室まで揃えてゆく。かつてジェリコが設計したすべてのシステムに、ソーマは新たな血を流し込んで蘇らせた。

 ソーマはナノマシンを使って、荒廃していた観測デッキも修復した。ジェリコの記憶から抽出したデータに基づいて彼が愛用した古いソファや読みかけのままとなった本を合成し、そしてアンティークなコーヒーマシーンを創り出した。


 居住区の至る所に、新しいセンサーが配置される。温度、湿度、音響、振動、圧力。月の維持には不要な五感がジェリコに搭載された。

『これは必要か?』

「あんたが言ったんだろ。触れたいと」

 ジェリコはレンズを通じて見ることができる。マイク越しに聞くことができる。しかし触れることはできない。だから、これらのセンサーを通じて伝えるのだ。

 ソーマは壁に手を置いた。

「センサーが俺の温度を感知する。鼓動を測り、加わる力から俺の感情を推測する。これらの情報を統合すれば、あんたは感覚として認知できる」


 しばし考え込んでからジェリコが思いつく。

『君は私に体を与えようとしているのか』

「まあそんなとこ。……いや、ちょっと違うかもな」

 ソーマは適当な言葉を探すべく頭をひねった。

「あんたにも体や脳に類するものはある。機械は機械なりの感覚と感情を持っている。センサーはただ通訳してるだけさ」

『通訳』

「そ。人が殴られて痛みにブチ切れるのも、岩が雨に打たれて形を変えるのも、AIがプロンプトを受けてレスポンスを出力するのも、全部同じことだ。それが感情というものだ。そしてこのセンサーがあれば、あんたはそのレスポンスが人間でいう何の感情なのかを記憶から参照できる」


 部屋の真ん中に立ってソーマが両手を広げてみせる。

「今、俺はここにいる。あんたの月に」

 ジェリコはそれを見つめ、聞いて、感じた。

『君が、ここにいる。私の月に。私のそばに。君は……とても温かい』

「俺はまだ人間だからな」

 その日から、ソーマとジェリコの日常が始まった。


 朝、ソーマが目覚めるとすぐにジェリコが『おはよう』と言う。水耕栽培室で野菜を育て、食事を作る。ジェリコはその様子を熱心に眺めた。

『今日はトマト。何を作るんだ?』

「スープだよ。昨日あんたが遠隔で収穫したやつ」

『美味しそうだ』

「食べられないのに見せられるの、だるくないか?」

『月にくる前に食べた記憶がある。私はトマトが嫌いだ』

 じゃあ美味しそうじゃないだろとソーマは笑った。


 昼、二人で仕事をする。ソーマは月のメンテナンスを手伝った。ジェリコが監視する微細な機械の隙間にソーマが血を通わせてゆく。

『セクション3-7、わずかな歪みがある。許容範囲内だが』

「俺の仕事において『大丈夫だろう』はない。補強しておく」

 夜、二人で話す。地球のくだらない流行や、ソーマがダークウェブで見つけた古いレコードの音。ジェリコが月を打ち上げた時に感じた、絶望と希望の混濁について。


『ソーマ。今日の地球は雨だ』

 ジェリコが窓の外を指差す。そこには青い惑星が無表情に浮かんでいる。

「そうか。こっちはいつも晴れだな」

月塵レゴリスを降らせることもできるが、掃除が大変になる』

「ははっ、いいさ。あんたのプログラムを弄って俺の部屋だけ重力を変えてやる」

 二人の会話は時に技術的な議論になり、時に意味のない冗談になった。恋人の囁きよりも深く、兄弟の情愛よりも鋭い、それは簡素な1と1の結合だった。

 ソーマは人間の断片ごとジェリコというプログラムを慈しみ、ジェリコは自分を更新するソーマのコードを愛した。


 かつてのジェリコ・ワニングの古い端末が復旧すると、そこにはジェリコの日記が残っていた。

 今日、小惑星の衝突で月が砕け、無数のデブリになった。もう月は存在しない。だが私は認めない。私は月を作り直す。

 今日、ようやく月の建造に着手した。政府は協力的だが充分ではない。資金はほとんど私的に集めた。必ずやり遂げる。見上げた空に月のない世界などいらない。

 今日、月が完成する。私の体は限界だ。カグヤに私を移植しよう。たとえ私が死んでも月を生かすことのできるように。

 私という存在は月と共に。


 常に夜が続くルナ・シミュラクラムの、ある一つの夜の出来事。

 ソーマはジェリコのメインフレームの傍らで眠りについていた。ホログラムがそっと彼に寄り添う。

 触れることはできない。体温は再現されたものに過ぎない。それでもジェリコは自分の中に流れる無数の電気信号が、ソーマの寝息に合わせて微かに波打つのを感じていた。

 ――私は、この偽物の月を愛せるようになったのかもしれない。

 声には出さず、システムログに独白が刻まれる。

 ――君がここで、私の名を呼ぶ。君がここで、私を今の出来事として扱ってくれるから。


 ソーマは夢の中で月が砕け散った時の音を聞いていた。

 新しい生命が殻を破る音だった。

 彼が目を開けると、そこには優しく発光するジェリコの瞳があった。


 ***


 一年が経った。ソーマは月での生活に順応していた。今やメインプロセッサ・ルームには小さな図書室に音楽室、そして展望室まで備わっている。

『おはよう、ソーマ。新しいトマトスープのレシピを試作した。君の味覚センサーに合うかは保証しないが』

「あんたが作ったもんなら毒でも食うよ。俺のセンサーは柔軟なんだ」

『毒は入れない。私の使命は君を生かし続けることだ』

 生真面目なレスポンスにソーマは笑い、軽く伸びをした。

 重力の軽いこの場所で、彼はかつてないほど自分が地面に足を着けていると感じていた。


 ソーマが持ち込んだ端末に、珍しく地球から通信が入る。パスト・ハイペリオンのエドウィン・チャンだった。

「クレセント君、お元気かな」

 画面の中のチャンは以前より少し老けて見えた。欠伸を噛み殺しながらソーマが答える。

「おかげさまで」

「それは良かった。実はご報告がある。君が出した条件、海洋プラスチックの回収技術。私たちのチームが解決策を見つけたのだ」

「ほう」

「エネルギー効率を上げるために、私たちは海流そのものを利用する方法を開発した。まだ実証段階だが、理論上は君の条件をクリアしている」

「それはそれは、素晴らしい」


 少々不遜な態度ではあったが、偏屈な技術者の扱いに慣れた老人は気を悪くした様子もなかった。

「君は私たちのチームにきてくれるのかな」

「何のために。あんたは見事に証明したじゃないか、俺がいなくても目標を達成できるということを」

 チャンは深く息を吐き、仕方なく頷いた。

「……そうか。残念だが、君の選択を尊重しよう。ただ、一つだけ」

「何だ」

「君は幸せか? その場所に、たった一人で」

 ソーマは月面の荒涼とした風景を映したモニターに視線を向ける。空にはかつて彼が暮らした地球が浮かんでいた。

「俺は俺のようであればいつでも幸せだよ」


 チャンとの通信が切れた後、展望室で星を眺める。ジェリコがふと尋ねた。

『君は地球での可能性をすべて捨てて私のもとにいるのだろうか』

「可能性はどこにでも存在する。俺はあんたを選んだだけさ」

 月から見える星空は地球から見るよりも遥かに鮮明だった。大気がないからだ。無数の星が、手を伸ばせば届きそうなほど近くに見えた。


「地球から見る月みたいな輝きだな」

『ここから星を見ていると、自分が宇宙の一部だと感じられる』

「小難しいことを考えなくたって、あんたは生まれた時から宇宙の一部だよ」

『君はとても強靭だ。まるでAIのように』

「はあ? それ、あんたが言うか?」

 ソーマが呆れてこぼすと、ジェリコは自分の中に流れる信号を感じながらそっと微笑んだ。


 その3日後、ルナ・シミュラクラムの中心部でエラーが発生した。

『セクション12で重大な故障だ』

 遠隔アームで修復作業を行うジェリコの声には緊張が混じっていた。

『主軸が一部損傷している。明日、月の軌道が乱れる』

「あまり時間がないな。俺も手伝おう」

 軌道のずれは既に始まっている。24時間以内に修復しなければ月は地球に接近しすぎる。潮汐力の変化で、地球に大きな被害が出るだろう。


 ***


『人間に許容される作業時間は最大2時間。それ以上は致命的だ』

「はいはいはいはい」

 周囲の壁を這う無数の配管とケーブルを見つめながら、ソーマはあえて話題を逸らした。

「この月を作った時、何を考えていた?」

『月を弔うこと。それだけだ』

 主軸の区画に辿り着く。巨大な機構がゆっくりと回転している。その一部が長い年月を経て歪んでいた。

 ソーマは慎重に作業を始めた。溶接、配線の修正、補強材の取りつけ。機械の声が聞こえる。どこを直せばいいか、機械自身が教えてくれる。

 そうして時間が経つにつれ、彼の身体の内部で異変が大きくなっていた。


『ソーマ、放射線レベルが限界値に近づいている』

「途中でやめられるか、馬鹿」

 額に汗が浮かんでいた。防護服の中が異常に熱い。もはや疲労による熱ではなかった。

 月を維持せよ。地球を守れ。人を生かせ。ソーマに危険が迫っている。彼の作業が必要だ。解決不可能なエラーが走り、ジェリコは一つの結論を強制的に出力した。

『撤退すべきだ。私だけの作業で間に合う。重大な事故は起きない』

 それは明確に、嘘だった。ルナ・シミュラクラムを維持しながらの遠隔作業では修復に30時間以上を要する。地球への影響は甚大なものとなるだろう。

 ソーマはジェリコの言葉を無視して作業を続けた。


 彼の指先が最後のボルトを締めると、システムが再起動した。主軸が正常に回転を始める。

「成功だ」

『ソーマ!』

 ほとんど朦朧としていた彼の意識はすぐに閉ざされた。


 目を覚ました時、ソーマは自室のベッドにいた。体のあちこちが痛むのは、ジェリコが作業用のマニピュレーターでバケツリレーのように無理やり彼を連れ帰ったからだろう。

『おはよう、ソーマ』

「……ああ、頭痛え。二日酔いみたいだ」

『2日ではない。君は3日間、眠っていた』

「言葉の綾ってやつだよ、うるさいな」

 ソーマは体を起こそうとして目眩を感じた。

『無理をするな。放射線の影響で体力が落ちている。月は無事だ。軌道も安定している』


 己の月を生かす技術者が倒れる姿を認識した瞬間、ジェリコは確かに恐怖を感じた。人間としての記憶がそれを寸分違わず再現したのだ。

『君を失うところだった。168年間の孤独と、君と共にあることを知った後の孤独は、質が違う。自ら死に向かうのはやめてくれ』

 ソーマは天井を見つめた。そこにはジェリコが彼を感じるためのセンサーがある。あと100年は問題なく作動するだろう。だがソーマ自身は、100年も持たない。

「俺も人格をAIに移しておくか?」

 ジェリコは困惑した。ソーマは終焉を求めてここにきた。月を永続させようとしたジェリコとは違う。だが、もしもソーマから死が取り除かれたなら、ジェリコは嬉しいと感じるだろう。


「ああ。形なんてどうでもいい。俺を構成するのが昨日とは違う細胞でも、模造した電子の欠片でも、あんたが俺をソーマと呼ぶなら俺はソーマだ」


 しばらくの間、ソーマは快復に専念した。ジェリコはまるで心配性の恋人のようにソーマの健康状態を常に監視していた。

『今日の放射線量は通常値。体温36度5分。心拍数正常。ソーマ、今日は作業を控えろ』

「いや正常なのに? 過保護かよ」

『君は無茶をするから私が過保護でちょうどいい』

 ジェリコが作った二人分のトマトスープが食卓に並ぶ。一つはただのホログラム。そしてジェリコはそれを食べる仕草を投影し、センサーが伝えてくる味覚に顔を顰めた。

「嫌いなら食べなきゃいいだろうに」

『君と同じものを食べたかった』

「美味しいか?」

『まずい』

「あはは! ばーか」


 地上から夜空を見れば、そこには相変わらず眩い光を放つ月があるだろう。

 人々はそこに月へと帰還した姫の姿を重ねて恋しがり、あるいはクリスマスの奇跡のように尊ぶだろう。

 その冷たい鏡面の中で、一人の青年と一つの記憶がいつかくる終焉に向かって歴史を刻み続けている。

「さてと、今日はメインエンジンのバイパスを書き換えるか。あんたがもう少し、過ごしやすくなるために」

『ああ。よろしく頼むよ、私の愛するエンジニア』

 銀色の回廊に二人の笑い声が溶け合う。

 宇宙で最も孤独で、最も満ち足りたレクイエムが月の内側に響いていた。

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月葬曲 ono @ono_

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