イグニス・アド・イグネム
伊阪 証
本編
ダークファンタジー(直球)
スピンオフ作品で本当にスピン(自転)オフにするやつがあるか。
暗闇は、単なる色の欠如ではなかった。それは質量を伴った黒曜石の滑らかさで子供たちの皮膚を包み、輪郭を塗り潰し、足元の感触さえも希薄なものに変えていた。右足を踏み出した先が、固い瓦礫なのか、それとも底の見えない奈落なのか。それを判断する唯一の基準は、指先に伝わる布の張り具合だった。先頭を行く一人が、衣服の裾と結び合わせた布帯を力強く握り締める。その感触が、二番目を行く子の指先へ、さらにその後ろへと波紋のように伝わっていく。細い指が結び目を探り、位置を確認し、確かな重みを引き受ける。それは奪い合うための力ではなく、体温を分かち合うための静かな受け渡しだった。
「……。」
誰も口を開かない。声は、この世界では不確実な反響を生み、距離感を狂わせる。だから彼らは、必要がない限り声を捨てた。代わりに、一人の子が隣の肩を二回、指の腹で柔らかく叩いた。停止の合図だ。連鎖する布が、ピンと一本の線のように張り詰める。六人の呼吸が、示し合わせたわけでもなく徐々に重なり、一つの大きな鼓動のように規則正しく刻まれ始めた。停止は、ただの休息ではない。冷え切った空気が肺を焼き、皮膚を刺す中で、互いの体温を確認するための儀式だった。一人が、隣に立つ子の凍えきった手を取り、自分の掌で包み込む。その小さな熱の移動だけが、自分たちがまだ生きた肉体を持っていることを証明していた。
不意に、誰かの足先が小さな石を蹴った。カラ、と乾いた音がして、石は闇の奥へと転がっていく。だが、その音は奇妙だった。数メートル先で止まるはずの音が、まるで水中を潜るかのように鈍く、不自然に間延びして聞こえた。踏み出した一歩が、予期せぬ軽さで宙を泳ぎ、反動が返ってこない。そこだけ世界の密度が薄れているような、奇妙な浮遊感が足裏を撫でる。誰もそれを「重力が狂っている」とは形容しなかった。ただ、その「違和感」を手順の一部として処理し、重心を低く保つことで闇に適応する。前進を再開する一回の手の握り込みが、布を通じて全員に伝わった。朽ちたコンクリートの壁際をなぞるように、六本の細い脚が、慎重に、かつ無駄のない動作で進んでいく。胴が短く、四肢だけが異様に長く発達したそのシルエットは、暗闇の中で蠢く精緻な自動人形の連なりのようでもあった。
ふと、風が抜けた。それは都市の残骸が途切れ、視界が開けた合図だった。だが、開けた先にあるのは希望ではなく、完全な虚無だ。見上げれば、夜空には無数の光が散らばっている。それは遥かな過去の残像に過ぎない。死んだ星の光だけが、地上の闇に唯一の峻烈な輪郭を与えていた。救済の光はどこまでも遠く、彼らが今踏み締めている地上の凍土を照らすことは決してない。一人が、空を見上げたまま、乾いた唇を小さく動かした。
「星は見える。」
指先で布を強く握り直す。その結び目の向こう側には、星が水面に降りてくるという、ありもしない伝説があった。それでも、彼らは手順を止めない。次の一歩を踏み出すための理由は、それで十分だった。
瓦礫の死んだ沈黙を、異質な律動が浸食し始めた。それは乾いた都市の残骸には存在しない、重く、粘りつくような液体の摩擦音だ。耳の奥に届く湿った響きは、この世界には存在しないはずの「潤い」という名の毒を予感させた。先頭の子が布を短く引いた。危険の合図だ。続けて、隣の肩を二回叩く。停止。六人の動きがぴたりと止まった。連結された布の感触は、屋外の乾燥した空気とは異なり、肌にまとわりつくような湿気を帯び始めている。衣服の繊維が湿気を吸い、肌に吸い付くような冷たさが神経を逆撫でさせた。
「……。」
誰も口を開かない。彼らは新しく決めた手順に従い、布の結び目を手繰り寄せた。これまでの一歩分の距離を半分に縮め、互いの体温が触れ合うほどに密着する。一人がもう一人の腰に手を回し、不安定な重心を支え合うことで一つの生命体のように歩調を合わせた。
闇の向こう側に、視覚を裏切る光景が広がっていた。足元から数メートル先、地上を塗り潰していたはずの深い闇が、唐突に反転している。見上げた空と同じ無数の星が、そこに落ちていた。空の星は届かない残像だが、目の前の光は手を伸ばせば掴めるほどに鮮明で、偽りの明るさを放っている。子供たちの瞳には、ただ世界が二倍になり、地上の欠落が星の輝きによって埋め尽くされたように映った。
声になり切らない吐息が、喉の奥で擦れた。 「星が、落ちてる……?」
もう一つ、熱を帯びた囁きが漏れる。 「綺麗だ……。」
一人の子の喉から、熱を帯びた吐息が漏れた。それは未知の現象に対する生物的な警戒と、抗いがたい誘惑の混ざった響きだった。一人が、瓦礫の破片を拾い上げ、光の渦へと静かに突き立てる。境界を揺らされた星たちが歪み、逃げるように砕け散った。破片が沈む音は予想よりも遥かに重く、底の知れない深淵がその下に口を開けていることを予感させた。
一人が冷たい境界に指を近づける。指先がそれを越えた瞬間、刺すような冷気が皮膚の感覚を奪い去った。反射的に手を引っ込める。濡れた指先から熱が急速に奪われ、その冷たさだけが、目の前の光景が甘美な楽園などではないことを告げていた。
その淵の縁は、目に見えない飛沫によって、摩擦という概念が消失したかのように滑りやすくなっている。足裏に力を込めても、地面は反動を返してくれない。浮き上がるような、あるいは地面が吸い込まれるような、局所的な物理の揺らぎが彼らを襲う。彼らはそれを言葉にできないまま、ただ「今日は足元が信じられない」という確信だけを共有した。水際では、星の光が反射して輪郭を奪い、どこまでが石で、どこからが奈落なのかを曖昧にしている。
一人の子が、揺れる一番大きな星を、その手で掴み取ろうと無防備に身を乗り出した。その体が一線を越える寸前、後ろにいた子が、その細い手首を無言で掴み、力強く引き戻した。繋がれた布が限界まで張り詰め、二人の体温がぶつかり合う。止める手は厳しく冷たかったが、その拒絶には、言葉よりも確かな「生」への執着と、震える背中を温めるような静かな意志が込められていた。
地上の星は、一度砕けても再び静かに集まり、元の形へと戻っていく。その不自然な美しさが、彼らには自分たちを誘い込む巨大な瞳のように見えた。
「一人で、近づかない。」
「……布を、短くして。」
短く途切れた言葉が、新しい「手順」として暗闇に刻印された。救いに見えた光の鏡は、同時に、かつてないほど鋭い殺意を持って彼らを見つめ返していた。彼らはその光から目を逸らさぬまま、慎重に距離を保ち始める。湿った石の上を、より深く重い闇の方へと、彼らは再び歩き始めた。
湖畔を覆う湿気は、もはや皮膚を濡らすだけではなく、肺の奥まで重く冷たい粒子を送り込んでいた。頭上には死んだ恒星の残像が冷然と瞬き、足元ではそれを複製した鏡面が、世界の底を底なしの空へと変質させている。星の反射が岩の輪郭を奪い、どこまでが確かな大地で、どこからが光の罠なのかを曖昧にしていた。六人の子供たちは、連結された布を短く手繰り、互いの肩が触れ合う距離で固まっていた。新しく定められた手順が、彼らの間に静かな緊張を強いている。
「……。」
先頭を行く一人が、隣の肩を指の腹で二回、重く叩いた。停止の合図だ。 全員が動きを止め、無言のまま指先を動かした。布に作られた結び目を、一つ、二つと指でなぞり、そこに繋がった温もりを確認する。全員がいる。この確認の儀式だけが、彼らが暗闇の中で自分自身を失わずに済む唯一の拠り所だった。
移動を再開しようとした瞬間、一人の足裏を、説明のつかない違和感が撫でた。石を蹴り、反動を得て体を前へ押し出す。その極めて単純な物理の連鎖が、唐突に沈黙した。踏み込んだはずの力が地面を捉えず、逆に足が滑らかに前方へと吸い込まれていく。濡れた苔が摩擦という概念を奪い去り、さらには局所的な重力の揺らぎが、体重を大地ではなく横方向へと投げ出していた。一人がよろめき、連結された布が激しく波打った。
「……あ、」
短い吐息が喉の奥で潰れる。 その子は、叫ぶ暇さえ与えられなかった。湖畔の縁は、星の反射によって視覚的な境界を完全に消失させていた。踏ん張ろうとしても、足裏は空を蹴るばかりで反動が返ってこない。滑走は加速し、その体は光の鏡へと、音もなく滑り落ちていった。
連結された布が、鋼のように鋭く張り詰める。残された五人の指に、滑り落ちた一人の全重量が、そしてそれを引き戻しようとする物理の限界が食い込んだ。助けようと力を込めれば、足元に反動のない五人もまた、その鏡の中へと等しく引き摺り込まれる。それは助けではなく、心中を強いる力だった。張り詰めた布が、耐えきれず指の間を滑り落ちた。
鈍く、低い音が闇のどこかで響いた。それが水面を叩く音なのか、あるいは底に沈んだ瓦礫に触れた音なのかさえ、距離感を狂わせる暗闇の中では判別できない。あとに残されたのは、かつてないほど濃密な沈黙だけだった。五人の間に、会話は生まれない。
一人が、隣に立つ子の震える手を、自分の掌で包み込んだ。汗と湿気でぬめる手の中で、急速に失われていく熱を、自分の体温で必死に繋ぎ止めるように、指を絡ませる。 その皮膚の接触だけが、絶望を冷たい事実へと固定させていた。彼らは立ち上がり、濡れた布を新しい握り方で持ち替えた。手の筋肉が悲鳴を上げる前に、確実に、次の手順を体に覚え込ませる必要がある。それ以外のことは決めない。決めれば決めるほど、冷えが深くなる。そして、彼らは再び歩き出す前に、もう一度だけ布の結び目を数え始めた。
「……。」
結び目が、一つ足りない。その物理的な欠落だけが、彼らの世界から一人が消えたことを、静かに、そして確定的に告げていた。
濡れた布の重みは、そのまま失われた一人の質量となって五人の指先に食い込んでいた。湖畔から遠ざかる歩調は重く、誰一人として背後の光の鏡を振り返る者はいない。彼らにとって、あの輝きはもはや救済の象徴ではなく、仲間を吸い込み、手順を嘲笑った冷徹な物理の罠でしかなかった。沈黙の中で、定期的な停止と計数の儀式が繰り返される。肩を二回叩き、結び目を一つずつなぞる。五つ。指先に触れる布の結び目は、湿気と泥を吸って以前よりも硬く、冷たくなっている。その感触を確かめるたびに、欠落した一つの空間が、暗闇の中で鋭利な輪郭を持って浮き彫りになった。
「……。」
不意に、連結された布の張りが不自然に乱れた。 先頭の子が布を短く引き、危険を知らせる。続けて隣の肩を二回叩く。停止。二番目を歩く子が、手順にない停止を独断で行ったのだ。その子の視線は足元の闇を捨て、遥か頭上で冷然と瞬く過去の残像へと注がれていた。湖の星は、手を伸ばせば届くほど近く、そして残酷だった。偽物の光に触れようとして一人を失った記憶が、その子の内部で代替への激しい拒絶へと転換されていく。下に落ちた星では満足できない。下にある光が人を殺すのなら、真実の光は上にしかないはずだという、根拠のない、しかし抗いがたい欲がその子の呼吸を荒くさせた。
先頭の子が異変を察知し、足を止めて振り返る。説教や拒絶の言葉は投げられない。ただ、震える二番目の子の手を、自分の掌で静かに包み込み、下ろさせた。震える背中にそっと自分の胸を押し当て、熱を分け合うことで、暴走し始めた欲を現実の温度へと引き戻そうとする。 その甘やかな体温の移動は、命令よりも重く、届かない星を追う意志の切なさを際立たせた。
声にはならないはずのものが、喉の奥で擦れて漏れた。 「上。」
「高い所……。」
その短い言葉は、毒のように暗闇に浸透した。反対も賛成も、議論という形の無駄な熱量は消費されない。五人はただ、その欲を新しい危険因子として定義し、手順によってそれを受け入れた。危険があるならば、より密度を上げればいい。それが彼らの導き出した、生存のための冷たい回答だった。
彼らの前方に、闇を切り裂くような巨大な構造物の断片が姿を現した。崩落したビルの外壁に張り付くように残された、錆びついた非常階段の影だ。一段目の段差に足をかけた瞬間、足裏に伝わる反動が、平地とは異なる奇妙な遅延を持って返ってきた。まだ誰も別フィールドという言葉を知らない。 だが、そこから先は、これまでの手順が通用しない領域であることを、彼らの本能が察知していた。
「……布を、もっと短く。」
一人が、新しい手順を宣告した。五人は互いの衣服が擦れ合うほどの距離まで連結を縮め、結び目を握り直す。いつもの踏ん張りが、ここでは遅れて届く。高い場所へ。本物の星へと近づくための、死へ繋がる手順が、音もなく開始された。
錆びた鉄の梯子が、闇の奥へと垂直の線を引いている。四肢の長い五人の子供たちは、その麓で一度動きを止めた。先頭の子が布を短く引いた。危険の合図だ。すぐさま隣の肩を二回叩く連鎖が起こり、全員が彫像のように静止した。彼らは無言のまま、指先を動かして結び目を数える。一つ、二つ、三つ、四つ、五つ。確認を終えると、先頭の子が布をさらに短く手繰り寄せ、隣の体温が直に伝わる距離まで全員を引き寄せた。指先で冷たい鉄の感触を確かめ、錆の剥落を足裏で感知する。一段ずつ、確実な手順だけを積み上げて、彼らは上への侵入を開始した。
数メートル登ったところで、足裏に伝わる感覚が変質し始めた。蹴り出す足が、羽毛のように軽い。本来ならば肉体の質量を引き止め、地に繋ぎ止めてくれるはずの力が虚空へと霧散し、鉄の踏面が確かな反動を返してくれない。一人が誤って蹴り落とした小石が、闇の中を落ちていく。その音はいつまでも足元に届かず、どこか遠い場所へと吸い込まれるような、不自然な遅延を伴っていた。
「……。」
誰もその違和感を説明しようとはしなかった。ただ、何かが決定的に変だという確信だけが、張り詰めた布を通じて共有される。梯子の最上部、崩落した踊り場に差し掛かった瞬間、悲劇は必然として起こった。星を追い続けていた二番目の子が、濡れた鉄板に足を滑らせた。身体が大きく宙に投げ出され、連結された布が悲鳴を上げるように鋭く鳴る。
声にはならないはずのものが、喉の奥で擦れて漏れた。 「……あ!」
背後の子供たちは、地上で何度も繰り返してきた安全な手順を即座に実行した。滑落した者を救うために、全身の体重をかけて布を引き戻す。だが、この場所では、その正解が最悪の裏切りとなった。引く力に対して地面が反動を返さない。仲間を助けようと引けば引くほど、自身の身体までもが奈落の縁へと吸い寄せられていく。五人全員を道連れにする、死の牽引。
「……!」
布を握る指先が白く震え、限界を超えた張力が五人の生存を脅かした。助けるための手順が、全員を殺すための導線へと変質している。彼らは、その手順を手放すことでしか、次へ進むことができなかった。指の間を、湿った布が滑り落ちていく。落下する影は、悲鳴を上げることもなく、星の光に溶けるようにして闇の深淵へと消えていった。
どれほど待っても、衝突の音は聞こえていない。ただ、無限に続く空虚だけがそこにあった。残された四人は、踊り場の冷たい鉄板に這いつくばり、荒い呼吸を重ねた。一人が戻れないところまで行ったのだという事実を、冷え切った大気が肌に刻みつける。彼らは震える指を動かし、再び結び目を数え始めた。
「……。」
一つ、足りない。喪失を確定させるその数だけが、暗闇の中で唯一の真実だった。彼らはその場で、新しい手順を無言のうちに共有した。高所では引かない。布が張ったら、ただ耐える。救うための力が救いにならないことを、彼らは一人分の重みと引き換えに学んだ。
見上げた星は、相変わらず美しく、何一つとして彼らを照らしてはいない。湖からも、高所からも、届かない光への道は閉ざされていた。四人の関心は、もはや星にはなかった。皮膚を焼く冷気と、胃を抉るような飢え。彼らは星を捨て、生きるための温もりを求めて、再び闇の底へと視線を落とした。
高所に貼り付いていた、呼吸のしにくさと、拒絶のような浮遊感は、四人の足裏から急速に剥がれ落ちていった。階段を下り、鉄の冷たさを捨てた彼らが次に踏み締めたのは、都市の最下層に溜まった粘りつくような泥の感触だった。先頭を歩く一人が、連結された布を短く握り込み、進行の合図を送る。目的地は、もはや届かない空の星ではない。視覚を埋める完全な闇の中で、彼らは生存という名の、より泥臭く切実な手順へと意識を沈めていった。
進路は、乾いた残骸を避け、湿り気と腐敗した臭いが漂う地下水道の入り口へと向けられた。ここには星の鏡こそないが、生命が放つ微かな揺らぎが確実に存在していた。
「……。」
二番目を歩く子が、先頭の背にそっと手を添えた。その子は、他の誰よりもわずかな温度の変化に敏感だった。指先が、空気の層が孕む微細な震えを捉える。先頭の子は、迷うことなくその探知に身を委ね、歩調を預けた。役割を押し付けるのではなく、互いの特性を生存の軸として無言で信託するその手つきには、過酷な暗闇にのみ許された、体温の共有という名の甘い連帯があった。
闇の奥から、乾いた残骸にはないピチャ、ピチャという湿った摩擦音が届く。泥の匂いに混じって、獣の排泄物に近いツンとした臭いが鼻腔を突いた。温もり担当の子が布を短く引いた。危険の合図だ。だが同時に、飢えた彼らにとっては資源が近いという意味にもなった。彼らは布の距離をさらに縮め、一つの塊のような沈黙となって獲物を追い込んだ。
コンクリートの割れ目に、数匹のネズミのような小動物が固まっている。彼らは手順通りに四方から逃げ道を塞ぎ、一斉に手を伸ばした。逃げ惑う小さな爪音が泥を跳ね飛ばすが、四人の組織的な捕獲手順からは逃れられない。
「温かい。」と、吐息だけが漏れた。
一人が捕らえたその小さな肉体は、凍てつく彼らの指先に、暴力的とも言えるほどの熱を伝えてきた。満足や希望といった高尚な感情ではなく、ただ食えるという現実的な確信が、彼らの荒い呼吸を一つに重ねた。
しかし、その成功の余韻は長くは続かなかった。捕らえ損ねた他の小動物たちが、異常な速度で闇の奥へと霧散していく。それは、空腹の子供たちから逃げるための動きというより、もっと根源的で巨大な何かを察知した、本能的な沈黙の伝播だった。
胸の奥で、不確かな予感が形を成す。 「……?」
先ほどまで聞こえていた微かな爪音や湿った呼吸音が、一瞬にして消失した。地下水道を支配するのは、水の滴る音さえも吸い込むような、不自然に凝固した静寂だ。彼らはその場に留まり、新しい手順を無言で刻み込んだ。
温もりを追う時は、布の距離を最小に。
彼らは一つの生命体として塊になり、湿り気を帯びた帯状の闇を、手探りで進み始めた。小動物たちが一斉に消えたその先には、名付けられない捕食の気配が、湿った空気の停滞となって溜まっていた。
地下水道を支配していた湿った大気は、ある一点を境に、粘りつくような重圧を伴って凝固し始めた。それは単なる無音ではなく、あらゆる生物が呼吸を止めることで生じる、死の静止に近い沈黙だった。先ほどまで執拗に鼓膜を叩いていた小動物の爪音や、泥を跳ね飛ばす湿った摩擦音は、まるで刃物で切り落とされたかのように一斉に消失した。代わりに、地下の空洞を伝って届くのは、低い、地面そのものが呻きを上げているかのような微振動だ。
四人の子供たちは、連結された布を最短距離で握り締め、互いの衣服が擦れ合うほどの密度で固まっていた。バラけないという手順を肉体の一部として機能させ、一つの巨大な、しかし脆い塊となって闇に融け込もうとする。だが、その沈黙の塊の中で、一人の指先だけが、手順を裏切る異常な熱を帯びて震えていた。
小動物を捕らえた際の、あの指を焼くような、命そのものの温もり。飢えと冷えによって剥き出しになったその子の本能は、理性が積み上げた手順という名の防壁を、内側から食い破ろうとしていた。資源への渇望が、捕食者の接近を知らせる沈黙の警笛さえも、期待という名の毒に塗り替えていく。
「……。」
その子は、連結された布の結び目から、ゆっくりと指をずらした。他の三人が闇の圧力を肌で感じ、肩を二回叩いて停止と退避の合図を送ったその瞬間、一人の子だけが、逃げ去った資源の残像を追って闇の深淵へと身を乗り出した。繋がれた布が、緩慢な動きで弛み、そしてある一点で唐突に、鋼のように鋭く張り詰める。その感触は、これまで経験してきたどの危険とも異なっていた。
泥の上を巨大な質量が引きずるような、重く、温い接触音が、反響のない空間を鈍く震わせる。三人が反射的に布を引き戻そうとした瞬間、指先に伝わったのは、助けを求める仲間の拒絶ではなく、それを受け止める強大な、抗いがたい重みだった。引き戻すための手順は、ここでは捕食者へと全員を献上するための、凄惨な導線へと変質している。三人の足裏には、踏ん張るための反動など存在しない。引けば引くほど、三人の身体は泥の上を滑るように、その重みの源泉へと吸い寄せられていく。
「……!」
三人は、無言のまま、自分たちの指の間を滑り落ちていく布の感触を、ただ冷徹に受け入れた。生存という手順を継続するために、死への導線を物理的に切断する。闇の奥で、何かが砕ける短い音が響いた。それは瓦礫が崩れる音に似ていたが、より湿り気を帯び、生命の構造が物理的に破綻する際の、取り返しのつかない響きを持っていた。
悲鳴はなかった。あるのは、濡れた毛並みが泥を擦る音と、空腹を抱えた何かが通り過ぎた後に残した、深い沈黙だけだった。三人は退避し、十分な距離を確保した後に、再び肩を二回叩いた。停止。指先を動かし、冷たく、泥で重くなった布の結び目をなぞる。一つ、二つ、三つ。欠落した一つ分の空白が、暗闇の中で確定的な事実として、三人の指に刻印された。そこにいたはずの命は、もはやいないという手順の一部として処理される。
「肩を二回。停止。布を短く引く。危険。退く。」
その反復が、新しい手順として刻印された。一人が、隣に立つ子の震える肩に、自分の掌を静かに重ねた。その皮膚の接触だけが、凍りついた絶望を、次の手順へと進めるための唯一の燃料だった。彼らは星を追うことをやめ、温もりを追うことに失敗し、今はただ、残された三つの結び目を守ることだけを選び取っていた。
移動の速度は、肉体の衰弱を待たずして、精神の沈滞によって物理的に殺がれていった。三人の子供たちが地下水道から離れ、冷えたコンクリートの残骸に身を寄せたとき、そこにあるのは休息ではなく、死への緩慢な待機だった。暗闇は、視覚を奪うだけでなく、聴覚と記憶を異常なまでに鋭敏にする。三人のうちの一人だけが、他の二人が持ち得ない、凄惨な知識を持っていた。
かつて飢えに耐えかね、闇の中で捕らえたネズミやカエルを、その手で殺し、解体し、食べた経験。指先に残る骨の軋み、裂ける肉の感触、そしてそれらを咀嚼する際に鼓膜に届く、あの独特の摩擦音。先ほど地下水道の奥で響いた、あの砕ける音の意味を、その子だけが物理的な実感として確定させてしまった。知っているという事実は、ここでは救済ではなく、行動を縛り上げる鎖として機能する。
他の二人が不気味な物音として忘却できる断片さえも、その子にとっては、仲間の身体がどのように解体され、どのような手順で咀嚼されているかという、克明な映像となって脳裏に焼き付いていた。恐怖は、未知からではなく、あまりに生々しい既知から生まれる。伝えようとしても、言葉は喉の奥で氷の塊となって詰まり、概念を共有するための手段は存在しない。理解は分散されることなく、その子の内部で冷たく結晶化し、指先から熱を奪っていく。
足を踏み出すための反動を得ようとするたびに、脳裏で骨の砕ける音が再生され、筋肉が反射的に収縮を拒絶した。停止の合図である肩の打鍵は、以前よりも重く、間隔が短くなっていく。手順としての結び目計数さえも、そこにいない一人を確定させ、自分たちの未来を予見させる儀式へと変質し、その子は次第に布に触れることさえも忌避し始めた。
「……。」
隣の子が、震えの止まらないその子の背に触れ、自分の体温を押し当てる。だが、その子の震えは外気によるものではなく、内部から溢れ出す、知識という名の極寒によるものだった。停止時間が長引けば長引くほど、周囲の冷気は彼らの生命維持に必要な熱量を、一滴残らず吸い取っていく。
その子は、布に触れようとして指を引っ込めた。結び目を数える動作が、なぜかできない。確かめれば確かめるほど、音が蘇るからだ。
確定させたくないという意志が、周囲の音や匂い、隣人の手の感触さえも拒絶させ、その子は次第に外界との接触を断ち切るように、自分自身の内側へと丸まっていく。冷気が肺を焼き、意識の縁が白く濁り始める中で、その子は最後に残った三つの結び目さえも、もはや数えようとはしなかった。停止は、もはや手順ではなく、彼らの生そのものが静止しようとしている予兆だった。
地下水道の湿り気を脱した先で待っていたのは、肺胞の湿り気さえも瞬時に結晶化させるような、乾いた極寒の静寂だった。都市の残骸が牙のように突き出す瓦礫帯。風そのものは弱いが、停滞した大気は鋭利な刃物となって、三人の子供たちの薄い皮膚を容赦なく削り取っていく。彼らは連結された布を最短距離で握り締め、互いの体温を唯一の生存条件として身を寄せ合っていた。だが、その連帯の鎖は、一人の子の内部から溢れ出す恐怖という名の猛毒によって、音もなく崩壊しようとしていた。
「……。」
二番目を歩く知ってしまう子が、再び肩を二回叩いた。停止の合図だ。その頻度は、既に生存の手順を逸脱していた。停止はもはや休息のためではなく、一歩を踏み出すことで確定してしまう何かから逃れるための、絶望的な拒絶の表現だった。その子は布を握ることを拒むように指を硬直させ、結び目をなぞる計数の儀式からも、物理的に意識を逸らし始めていた。
連結された布の先には、重く、冷たい塊が引きずられている感触があった。それが崩落した瓦礫の一部なのか、あるいは先ほどまで温もりを共有していた仲間の成れの果てなのか。指先の感覚が死滅し、痛覚さえも消失しかけている彼らには、布越しに伝わるその物体の輪郭を判別する術はない。体温を分け合おうと背を寄せ、凍えた掌で布を包み込んでも、布とその中身は微かに温度を変えるだけで、冷徹な物理の壁を越えて真実を明かすことはなかった。確定させたくないという強烈な回避の意志が、その子の足をコンクリートの床に縫い付け、停止を固着へと変質させていく。
もしその正体がただの重りであれば、切り捨てて進めばいい。だが、もしそれが動かなくなった仲間であるならば。その判別不能という不確定要素こそが、彼らの足を止める最大の楔となっていた。知ってしまう子は、闇の奥で響いた砕ける音の意味を、物理的な実感として理解してしまっていた。その知識が、布の先にある塊の正体を最悪の形で想像させ、一歩を踏み出すための反動さえも生成できなくさせている。
支える側の二人は、責めることも、無理に引きずることもなかった。過去の事故が教えた引き戻しは裏目に出るという冷酷な手順が、彼らの行動を厳格に支配していた。無理に引けば、全員がバランスを崩し、等しく凍土に沈むことになる。彼らはただ、その子の左右から寄り添い、呼吸の周期を合わせようと試みるしかなかった。温もりは、物理的な接触によってのみ伝播する。だが、その子の震えは外気によるものではなく、内部から溢れ出す、知識という名の極寒によるものだった。
停止が長引くにつれ、大気は彼らの生命維持に必要な熱量を、一滴残らず吸い取っていった。反応は鈍くなり、握り返す手の力は、冬の枯れ枝のように脆くなっていく。ついに、二番目の子の身体から一切の微動が消失した。それは休息の終わりではなく、熱という名の情報の完全な停止だった。残された二人は、沈黙の中で、最後の、そして最も残酷な手順を開始した。安全確保のための停止、そして結び目の計数。知ってしまう子は、もはや自分の結び目を数えることはなかった。二人の指が、冷たく、泥で重くなった布をなぞっていく。
一つ、二つ。
三つ目の結び目は、そこに確かに存在した。だが、それに繋がるはずの熱は、もはや暗闇のどこにも存在しなかった。結び目が二つになったという物理的な事実だけが、一人の喪失を、静かに、そして確定的に宣告した。欠落の確定こそが、彼らの世界における唯一の葬送だった。二人は、動けば死に、止まっても死ぬという極限の板挟みの中で、初めて次の目的地へと舵を切った。星は届かず、温もりは奪われた。ならば、自分たちで火を灯すしかない。
二人は、瓦礫が積み重なり、風を僅かに遮ることのできる窪地を見つけ出した。そこは、これまでの果てしない移動の果てに辿り着いた、一時的な、しかし絶対的な終点だった。もはや停止の合図は必要なかった。二人は互いの身体を限界まで寄せ合い、布帯の結び目を解くことなく、一つの塊となって地に伏せた。彼らの目的はもはや生き延びるための移動ではなく、満足するための静止へと移行していた。
火という概念は、彼らにとって教科書に記された聖なる知識ではなく、摩擦が熱を生み、熱が痛みを和らげるという、剥き出しの身体的経験の延長線上にあった。二人は、今の自分たちに扱える、満足できる知識だけを選別し、手順として組み上げていった。材料は、衣服の端から解いた細かな繊維の屑、瓦礫の中から拾い上げた乾燥しきった木片。そして、燃焼を継続させるための、かつての喪失から得た僅かな油分。それは忌まわしい過去の断片であったが、今この瞬間を生き抜くためには、不可欠な生存資源だった。
火の手順は、祈りではなく、冷徹な物理の積み上げとして進行した。
摩擦。 片方が土台となる石の窪みを固定し、もう片方が繊維の束を押し当て、一心不乱に手を動かす。連結の最初で培った呼吸の同期が、ここで極限の協働として結実する。
煙。 焦げた匂いが鼻腔を突き、細かな灰が舞う。失敗しても、二人は責め合わない。ただ黙って、冷え切った手を重ね合い、再び摩擦を再開する。
芯。 黒い、針の先ほどの小さな熱の点が、繊維の奥で脈打ち始めた。
点火。 油分を含ませた繊維が、微かな火花を捉え、そして――。
暗闇の中に、初めて現在の光が産声を上げた。橙色の小さな炎が、子供たちの汚れた頬を、震える指先を、そしてこれまで決して見ることのできなかった自分たちの手を、鮮明に照らし出した。その光は、数千光年の彼方から届く星の残像よりも遥かに熱く、確かな充足を彼らにもたらした。二人は、空を見上げることをやめた。届かない過去の星よりも、今ここで自分たちの手順によって生み出した、この小さな火こそが、彼らの求める目的地だった。
ふと、先ほどまで手にあったはずの、あの判別不能の塊に意識を向けた。だが、いつの間にか、その感触は消えていた。それがいつ手から離れたのか、誰かに奪われたのか、あるいは最初から存在しなかったのか。二人はそれを照らして正体を確かめようとはしなかった。答え合わせをする必要はなかった。執着は、火が灯った瞬間に、手順の一部として完了していた。考えているかどうかは分からないが、いつの間にか自分の手には無かった。その事実は、この暗闇において何よりも自然な解決として受け入れられた。
火の光は、彼らの凍てついた視界を押し広げ、前方の闇を僅かに切り裂いた。そこには、地熱に生かされた異形の樹木が蠢き、火山域特有の重苦しい熱気が漂い始めている。火は真実を暴くための装置ではなかった。だが、次に進むための、あるいはここで満足して終わるための、確かな導灯となった。二人は、一つの火を囲み、静かに呼吸を重ねた。
「……暖かい?」
と、吐息だけが漏れた。もう一人は答える代わりに、火を絶やさぬよう交代で守るという最後の手順を確認した。火を消さない。それが、この星で手に入れた最新の、そして唯一の掟だった。彼らは星空の鏡が与えられなかった救済を、自らの手のひらの中に作り出していた。自らが満足して終わりを選ぶための、唯一の正しい知識。二人は、燃え上がる小さな炎を、自分たちの現在として抱き締めた。
二人の指先で辛うじて維持されているイグニスは、暗闇を打ち払うための英雄的な光ではなく、絶え間ない手順の集積によってのみ存続を許される、ひどく脆い物理現象だった。彼らは火を運ぶための新しい、最も過酷な規律を肉体に課していた。片方が自らの身体を風除けとして歪め、冷気と乱気流から炎を遮断する。もう片方が、衣服から解いた繊維と泥、油分を捏ね合わせた火床を、宝物のように両手で捧げ持つ。火を消さないための交代は、もはや言葉を介した誓約ではなく、停止の合図と共に行われる静かな呼吸の同期によってのみ成立していた。
火は彼らに温もりを与えたが、同時に代償を要求した。火床から立ち上る微細な灰と不完全燃焼の煙は、子供たちの細い気管を容赦なく焼き、呼吸を浅く、苦しいものへと変質させていく。灰が目の表面に張り付き、涙が頬を伝うたびに、彼らは火があることの重みを、皮膚を焼く熱と肺を抉る痛みとして享受した。暖かいという感覚は決して安息ではなく、絶え間ない維持管理という労働の結果としてのみ得られる、一過性の充足に過ぎなかった。
足裏に伝わる感触が、ある地点を境に劇的な変容を見せた。これまで彼らの体温を奪い続けてきたコンクリートの残骸の、あの底冷えするような拒絶が消えたのだ。代わりに、泥は湿り気を帯び、ぬるい湿気を含んだ風が、硫黄の匂いを伴って彼らの足首を愛撫し始めた。火山域。そこは死せる星が吐き出す最後の吐息が溜まる場所であり、地表の物理法則が熱という名の暴力によって再定義される領域だった。
彼らの行く手を阻むように、闇の中で巨大な影が蠢き始めた。それは呼吸する樹木の群生だった。彼らはそれを木とは呼ばなかった。ただ、周期的に大気を押し返す圧力と、枝の隙間から漏れ出る湿った吐息のような音によって、それを生きている現象として認識した。樹木が吐き出す熱は火の熱とは異なり、粘りつくような生命の余熱となって子供たちの意識を混濁させていく。彼らはその異形の律動に呼吸を合わせ、熱源の深部へと足を進めた。
不意に、火の光が届く限界の縁に、不自然な整いが浮かび上がった。瓦礫が一定の高さで積み上げられ、地面には管理された炭化の跡、あるいは誰かが意図的に残した焦げた直線が引かれていた。二人はその整いを前にして、初めて自分たち以外の知性がこの暗闇を加工している事実を、沈黙の中に迎え入れた。
火山域の深部へと進むにつれ、熱は救済から再び仕様の圧へとその姿を変えていった。足元から立ち上る見えないガスが火の勢いを不自然に揺らし、時折、炎は青白い光を放って悶えるように縮小した。足場は熱によって脆く変質し、踏み込むたびに乾いた音を立てて崩落の兆しを見せる。温もりは安全を保証するものではなく、むしろ酸素を奪い、喉を焼き、意識を熱の檻へと閉じ込める新たな敵として君臨していた。彼らは火が万能ではないという事実を、乾ききった喉と止まらない咳によって、言葉を介さずに理解していった。
暗闇の密度が、ある場所を境に生活の匂いを帯び始めた。 火の光が照らし出したのは、徹底された管理の痕跡だった。そこには、吹き溜まった灰が一定の範囲に集められた火床の跡があり、瓦礫が風を完全に遮るための壁として積み上げられていた。隅には、彼らが苦労して集めたものと同じ繊維が、整然と束ねられて置かれている。二人は立ち止まり、その整然とした空間が持つ圧倒的な他者の気配に、呼吸を乱すことさえも忘れ、ただ見つめ続けた。
気配は、すぐ近くにあった。 影の奥から、布が擦れる微かな摩擦音と、規則的な、しかし自分たちよりはるかに深い呼吸の音が届く。視線を感じる。誰かが自分たちを見ている。だが、その影は決して光の中に姿を現さず、手を差し伸めることも、救いの言葉を投げかけることもなかった。そこにあるのは、助けられる距離にありながら決して介入しないという、**沈黙が「助けない」という手順の硬さを示していた。**二人はそれを悪意だとは感じなかった。ただ、この世界において助けないという選択が、どれほど強固で合理的な手順であるかを、その沈黙の重みによって悟るしかなかった。
二人は、もはや先へ進むことをやめた。 彼らは自分たちが作り出した火を、その生活の痕跡から僅かに離れた、しかし最も安定した足場へと定着させた。火を守るために背中合わせになり、互いの体温を最も効率的に預けられる位置取りを確定させていく。眠りの交代、火の監視、そして呼吸の同期。それら全ての手順をこの場所に固定した瞬間、彼らにとっての移動は終了し、物語はゲームセットへと舵を切った。もう星を追う必要はない。届かない光を求めるよりも、今この数メートルの空間で成立している満足を維持することの方が、彼らにとっては遥かに正しく、価値のある知識だった。
火は、呼吸する樹木たちの吐息に揺れながら、二人の輪郭を淡く、しかし確かにこの世界に刻み続けていた。近くにある誰かの気配は、依然として沈黙を保ったまま、火を囲む二人を暗闇の淵から見守っていた。救済も、奇跡も、約束された明日もない。ただ、自らが満足して終わりを選ぶための場所と、そのための手順だけが、そこには残っていた。
子供たちは無知だった。 大人は助けなかった。 それだけの話だ。
イグニス・アド・イグネム 伊阪 証 @isakaakasimk14
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