殉教
伊阪 証
本編
窓枠の僅かな隙間から這い入る冬の冷気が、油灯の黄色い炎を絶え間なく揺らしていた。低い天井に投げかけられた影が、生き物のように蠢き、狭い室内をさらに圧迫する。ゲオルグは、その不安定な光の円の中に、一枚の証明書を広げていた。厚手の紙は、指先の僅かな湿気を吸って、しなやかな物理的重量を帯びている。彼は、そこに記された「十九歳」という数字を、瞬きもせずに見つめていた。
数時間前に書き込んだばかりのインクは、既に完全に乾燥し、紙の繊維の奥深くまで沈着している。ゲオルグは鉄ペンの先で、数字の曲線を静かになぞった。一、と、九。その二文字が作り出す論理的な整合性を、彼は「検品」するように確かめる。インクの盛り上がり、筆跡の震え、紙の裏側への染み出し。そのどれもが、十九歳という事実を公的に保証するための精度を保っていることを、彼は指先の感触だけで判断した。
工業大学への在籍を証明するその書類は、本来なら数年後に「修了」の文字と共に完成するはずのものだった。しかし、今のゲオルグにとって重要なのは、学術的な達成ではない。この紙が、自分を「役に立てる場所」へ送り出すための、物理的な通行証として機能するかどうかだ。彼は書類を一度持ち上げ、光に透かして見た。紙の繊維の密度、透かしの入り方。すべては彼の計算通り、完璧な「嘘」としてそこに定着していた。
ゲオルグは書類を机の端に寄せると、傍らに置かれた五つの真鍮製ボタンへと手を伸ばした。彼はそれを、木製の机の上に一つずつ、等間隔に並べ始めた。一、二、三、四、五。 指の腹で金属の冷たさを確かめながら、ミリ単位の誤差も許さず、一直線に配置を固定していく。金属同士が机に当たる「カチリ」という微小な音が、静まり返った部屋の中に規則的なリズムを刻む。数を合わせ、位置を固定する。その単純な反復動作だけが、肺の奥で燻り続ける熱を、物理的な圧力によって冷却していく。五つの点が等間隔に並んだのを確認し、彼はようやく一度、肺に溜まっていた熱い空気を吐き出した。
彼は椅子から立ち上がり、壁際に立てかけてあった掃除用の木棒を手に取った。ゲオルグはそれを両手で固く握りしめ、前方を凝視した。 彼は左足を半歩前に出し、重心を低く落とした。木棒を水平に保ち、前方の一点に向かって鋭く突き出す。空気を切り裂く短い音が響くが、棒の先端は目的を失ったように上下へ揺れた。 「・・・っ。」 突き出した瞬間に、重心が踵の方へ逃げてしまい、身体の芯が物理的な脆さを露呈させた。姿勢が崩れ、体幹が僅かに後ろへ流れる。ゲオルグは顔をしかめ、もう一度構え直した。今度は最初から力を込め、腕を直線的に突き出す。しかし、結果は同じだった。棒の先は安定せず、突き出した後の「戻し」の動作が、目に見えて遅延する。なぜ上手くいかないのか。その原因を分析する余裕を、彼の脳は拒絶していた。ただ、この棒が自分の制御に従わないという不快な事実だけが、手のひらの微かな痺れと共に残った。
背後で、建付けの悪い扉が、重い音を立てて開いた。 部屋の空気が、不意に別の質量を伴って圧縮される。ゲオルグは動きを止め、木棒をゆっくりと下ろした。 父がそこに立っていた。工場の重油と、使い古された鉄錆の匂いが、父の体温と共に部屋へと流れ込む。父は何も言わず、ただ木棒を握る息子の、制服が僅かに余った背中を見つめていた。その沈黙は、冬の冷気よりも鋭く、ゲオルグの項を刺した。
ゲオルグは振り返らずに、机の上の書類へと視線を戻した。心臓の鼓動が耳の奥で、生存を急かす警鐘のように打ち鳴らされる。 父がゆっくりと歩み寄り、机の余白に、小さな革袋を置いた。使い古された牛革の匂いと、熱で溶けた蜜蝋の香りが、油灯の熱に煽られて立ち上る。 「持っていけ。最低限のレンチと、研ぎ石が入っている・・・。」 父の声は、長年の労働で磨り減った機械の唸りに似ていた。彼はゲオルグの顔を見ようとはせず、ただその視線を、整えられた五つのボタンへと落とした。その指が、革袋の紐から離れる。
ゲオルグは、渡された袋の上から中身の感触を確かめた。三つの硬い塊がある。レンチの冷たさと、研ぎ石のざらついた質感が、革越しに指先に伝わってきた。それは、生存のための最小限の道具であり、同時に、親子の対話の限界を示す境界線でもあった。 「期日は、再確認した。役所の受理も、問題はないはずだ。」 ゲオルグは、自らの声を平坦な事務的響きの中に閉じ込めた。父が置いた道具袋を、自分の「手順」の一部として受け入れ、机の端へと引き寄せる。
父は、息子が必死に構築した論理や、偽装された数字について、一切の問いを投げなかった。彼はただ、部屋の隅にある深い闇を見つめ、長く、重い吐息を一つだけ零した。その呼吸の余韻が、狭い部屋の空気を物理的な重圧へと変えていく。 「・・・行くのだな。」 「行かなければならない。僕は、役に立てる場所へ行く。」 ゲオルグの返答は、短く、そして拒絶に近い響きを持っていた。決意を語るための言葉は不要だった。ただ、この場所から離れるという物理的な移動だけが、彼の中に残された唯一の「正しさ」のように思えた。 父は踵を返し、その広い背中でランプの光を一時的に遮りながら、足音を立てずに部屋を去っていった。扉が閉まる乾いた音。あとに残されたのは、芯が燃える微かなパチパチという音と、未熟な手のひらに残った、親指の付け根を圧迫する革袋の重みだけだ。
ゲオルグはもう一度、偽造された書類を丁寧に折りたたみ、封筒の奥へと滑り込ませた。外では、夜明け前の凍てつくような青い闇が、世界の輪郭を静かに覆い尽くそうとしていた。
石造りの回廊は、冬の湿気を孕んだ冷気に満ちていた。 壁の隅々には、長年にわたって蓄積された古い紙の埃と、数多の志願兵たちが吐き出した酸えた汗の匂いが、目に見えない薄膜のように張り付いている。
ゲオルグは列に並びながら、自身の浅い呼吸が白い霧となって石床へ消えていくのを凝視していた。 そこには、宣伝ポスターが煽るような熱狂も、献身を叫ぶ若者たちの熱気も存在しない。 ただ、冷え切った石の感触と、事務的な停滞だけが、重く、静かに回廊を支配していた。
回廊の奥からは、誰かの咳き込む音や、軍靴の踵が石を打つ硬い残響が時折聞こえてくるが、それらはすぐに高い天井の闇へと吸い込まれてしまう。
ゲオルグの指先は、胸ポケットに収めた「十九歳」の証明書を絶えず確認していた。 指の腹に伝わる紙の微かなざらつきと、自身が昨夜書き込んだインクの僅かな段差。 それが彼の正しさを保証する唯一の物理的な錨(いかり)だった。
列が進むにつれ、前方から規則的な音が響いてくる。 ペンが紙を削る乾いた音、ページを捲る際の鈍い摩擦音。 それらは個人の人生を切り刻み、組織という巨大な機構へ適合する形に整形していく、冷徹な工場の音に似ていた。
窓口に近づくほど、空気はより乾燥し、インクと古い書類が混ざり合った独特の焦げたような匂いが強くなっていく。
ゲオルグの順番が来た。 鉄格子の向こう側には、顔の判別もつかないほど無機質な表情を浮かべた係官が座っている。 係官はゲオルグの瞳を見ることなく、ただ顎で提出を促した。 その目は、目の前に立つ人間を血の通った存在としてではなく、処理すべきデータの集合体として捉えていた。
ゲオルグは、自身の震える指先を隠すように、証明書を木製のカウンターへ滑り込ませた。 その瞬間、紙は彼の手を離れ、私的な証拠から公的な「処理対象」へと変質する。
カウンターに刻まれた無数の傷跡は、これまでこの場を通り過ぎていった名もなき部品たちの、静かな記録のように見えた。 係官は慣れた手つきで書類を捲り、ゲオルグが細心の注意を払って書き上げた「十九」という数字を、何の疑念も抱かずに無表情な視線で通り過ぎた。
「十九だ。」
ゲオルグは、自身の声が不自然に上擦るのを防ぐため、喉の奥に力を込めて短く答えた。 係官は返答を聞いているのかさえ怪しい動作で、傍らの重厚な金属製のスタンプを手に取った。 それは、個人の記録を抹消し、部品としての番号を刻印するための、処刑台の刃のような威圧感を伴ってゲオルグの視界を占拠した。
スタンプが朱肉を吸い、迷いのない垂直の動作で書類へと振り下ろされる。
ドォン、という鈍い衝撃がカウンターを伝わり、ゲオルグの腹の底を揺さぶった。
受理の印。 鮮血のような赤色で刻まれたその刻印は、ゲオルグという存在が公的に承認され、システムの歯車として組み込まれたことを宣告していた。 係官は、返却された書類をゲオルグの方へ無造作に押し戻すと、すぐに次の番号を呼び上げた。
「次。」
そこには一欠片の感情も、激励の色彩も存在しない。 ゲオルグは、温かみを失った紙の感触を指に覚えながら、自分が一つの処理を通過した事実に、物理的な安堵が胸の奥からせり上がってくるのを自覚した。 それは理念への確信ではなく、ただ手続きが完了したという事務的な解放感だった。
支給所へと続く通路はさらに冷え込み、むき出しの石壁が外気の厳しさをそのまま伝えていた。 突き当たりの広い倉庫には、灰色の外套や鉄製の装具が山脈のように積み上げられている。 そこにはもはや、個人の体温を受け入れる余地など存在しない。 ただ、大量生産された「兵士」という型が、中身を待っているだけだった。
倉庫の空気には、厚手のウールが放つ独特の脂臭さと、冷えた鉄、および防虫剤の刺激的な匂いが重く沈殿している。
「立て。名を言え。」
カウンターの奥から現れた支給係もまた、ゲオルグを血の通った人間としてではなく、衣類を纏わせるべき骨格として扱った。 ゲオルグが名を告げると、カウンターの上に次々と重厚な「現実」が投下され始めた。
最初に置かれたのは、冬の戦場を象徴するような、硬く重い灰色の外套だった。 ゲオルグはそれを両手で受け止めようとしたが、予想を超えたウールの質量に、細い腕が物理的な悲鳴を上げた。 外套の重みが上半身を前方へ引きずり込み、ゲオルグの膝が微かな音を立てて折れる。
英雄的な志願の意志など、この一着の布が持つ物理的な重量の前では、無力な羽毛のように霧散した。 生地の表面はざらつき、剥き出しの肌を冷たく刺す。
次に、革製の装具と予備の弾薬ポーチが金属音を立てて積み重ねられた。 ゲオルグは崩れそうになる荷物を必死に支えながら、昨夜のボタンのようにその数を確かめようと指を動かした。
「一、二、三・・・四?」
しかし、次々と投げ出される装備の波に、指先の制御が追いつかない。 ベルトの金具が重なり合い、ポーチの蓋が指に当たって鈍い痛みが走る。 昨夜、机の上で完璧な整列を実現させた彼の計数は、この混沌とした現実の重みの前で無残に崩壊していった。
彼は正確な把握を諦め、ただそれらを一纏めに抱え込むことしかできなかった。 手元の不確かさが、喉の乾きを加速させる。
「・・・次はこれだ。落とすなよ。」
係官が最後に置いたのは、冷徹な光を放つ鉄の塊――銃だった。
ゲオルグは、外套と装具で塞がった腕の隙間に、その冷たい銃身を無理やり差し込むようにして受け取った。 手のひらに伝わる鉄の温度は、零度に近い。 指先が金属の冷たさに吸い付くような感覚と共に、肩の筋肉が緊張で跳ね上がった。
数キログラムの死の道具が、彼の細い身体を、物理的な限界へと押し込んでいく。
事務所の外に出ると、白濁した空が彼を見下ろしていた。 ゲオルグは、重圧に歪む視界の中で、自らの身体が数キログラムの鉄とウールによって変質したことを悟る。 それは承認の喜びというよりも、逃れられない重力のような枷だった。
支給されたばかりのブーツが、石畳の上で硬く、馴染まない音を立てる。
「・・・通った。」
彼はその事実だけを頼りに、冷たい外気の中を一歩踏み出した。 手続きが完了したという安堵が、彼を「正しい側」へと繋ぎ止めていた。
訓練地の地面は、凍てついた泥が尖った礫のように硬化し、軍靴の底を無慈悲に突き上げていた。 灰色の空からは、湿り気を帯びた極寒の風が絶え間なく吹き下ろし、露出した頬の皮膚を剃刀の刃でなぞるように削っていく。
ゲオルグの手の中で、支給されたばかりの鉄塊――銃は、生命を拒絶するような絶対的な冷たさを維持していた。 可動部に差された潤滑油は寒気で粘り気を増し、ボルトハンドルを動かすたびに、砂を噛んだような不快な摩擦音が鼓膜を刺す。
ゲオルグの目的は、この冷徹な機械を完璧に制御し、模範的な兵士としての「立派な」動作を完遂することであった。 しかし、現実は彼の思考が描く理想的な放物線を、物理的な摩擦と重力の数式によって容易く塗りつぶしていく。
「構えろ。」
後方から、感情を削ぎ落とした乾燥した声が響いた。 この訓練地に配属されて初めて耳にする、先輩兵の声だった。
ゲオルグは指示に従い、重厚な木製銃床を右肩の窪みに押し当てた。 硬い樫の木が鎖骨の突起を圧迫し、微かな痛みが神経を走る。
彼は前方にある仮想の標的を見つめ、昨夜反芻した「正しい射撃」の姿勢を脳内で精密に再生しようと試みた。 背筋を伸ばし、標的を捉え、静かに引き金を引く。
その「正しさ」を証明するために、彼は無意識に大きく息を吸い込み、そのまま肺の活動を完全に停止させた。 肺の中に溜まった空気は、逃げ場を失って胸腔を内側から圧迫し始める。
心臓の鼓動が、静まり返った身体の中で暴力的なまでに大きく打ち鳴らされる。 息を止めた反動で、僧帽筋が耳の近くまで不自然にせり上がり、両肩が石のように硬く固定された。
ゲオルグは、自らの身体が強張っていることに気付かないまま、引き金にかけた人差し指に徐々に圧力を加えていく。 第一段の抵抗を越え、さらに数ミリのストロークを押し込んだ瞬間、撃鉄が薬莢の底を叩く乾いた打撃音が空気を震わせた。
火薬の炸裂エネルギーが、銃床を通じてゲオルグの右肩を容赦なく叩きつけた。 衝撃は骨格を伝導し、銃口を空に向かって大きく跳ね上げる。
視界から標的が消えた。 彼はすぐに姿勢を戻しようとしたが、固く怒らせた肩が、衝撃の余韻を逃がすことを物理的に拒否した。
肺に溜まった古い酸素が、逃げ場を失って胸を圧迫し、視界が白く明滅する。 跳ね上がった銃口を元の照準線へと引き戻すまでに、途方もない数秒が浪費された。 戻しの動作が、目に見えて遅延している。
「・・・っ。」
焦燥が指先に伝わる。 ゲオルグは次の弾薬を送り込むべく、ボルトハンドルを掴んだ。
右手の親指でハンドルを押し上げ、後方へと引き絞る。 空薬莢が排出され、金属が擦れ合う高音の摩擦音が耳元を掠めた。
しかし、次にハンドルを前方へ押し戻そうとした瞬間、金属同士が不正に噛み合う不快な感触と共に、動作が途中で停止した。 ボルトは中途半端な位置で固定され、微動だにしない。
「動かない・・・?」
薬室の入り口で、次弾の先端が僅かに斜めに食い込んでいる。 噛み合いの悪さ――ジャムの予兆。
ゲオルグはそれを力任せに押し込もうとした。 立派に、迅速に処理しなければならないという強迫観念が、機械操作を乱暴な暴力へと変質させる。
ボルトハンドルを手のひらで何度も叩き、無理やり前進させようとするたびに、真鍮製の薬莢が傷つき、噛み込みはさらに深刻な深みへと沈んでいった。
「あ、クソ・・・なんだ、この銃は。整備不良だ。油が、いや、寒さのせいで機構が狂っている。運が悪い・・・。」
ゲオルグは、自らの動作の粗雑さを棚に上げ、呪詛の対象を外部の変数へと求めた。 この不完全な鉄の塊が、自分の崇高な目的を邪魔している。
銃が悪い。気温が悪い。この時間が悪い。 彼は苛立ちに任せて、再びボルトを乱暴に引こうとした。
「止めろ。」
背後から、先輩兵の乾いた声が彼の思考を断ち切った。 ゲオルグの肩を、硬い指先が強く掴んで引き下ろす。
「息を吐け。止めるな。」
先輩兵は、ゲオルグの醜態を笑いもせず、その焦りを否定することもしなかった。 ただ、事実として、修正すべき手順だけを無機質に提示する。
「数えろ。ボルトを引く、一。戻す、二。それだけを考えろ。」
ゲオルグは言われるがまま、肺の中に溜まってた熱い空気を吐き出した。 強張っていた肩の筋肉が、重力に従って僅かに下がる。
先輩兵の手が彼の銃に添えられ、食い込んでいた薬莢を、最小限の力で取り除いた。
「次だ。数えろ。」
再び、冷たい沈黙が二人を包む。 ゲオルグはもう一度、銃床を肩に当てた。
今度は「立派さ」など考えなかった。 ただ、肺を空にし、心臓の鼓動を無視するように努める。
ボルトハンドルに指をかけ、一、と心の中で呟きながらそれを引く。 冷えた金属の動きが、指の腹を通して正確に伝わってくる。
「引いて、一。戻して、二・・・。」
彼はまだ、自分自身の変化を認めてはいなかった。 これはあくまで、一時的な技術の習得に過ぎない。
自分を動かしているのは、もっと気高い、論理的な正義であるはずなのだ。 しかし、再び引き金を引こうとした時、ゲオルグの視界は先ほどよりも僅かにクリアになり、跳ね上がる銃口の先にある「鉄の重み」だけが、鮮明な事実として迫っていた。
雪を孕んだ風が、彼の頬を容赦なく叩く。 ゲオルグは、手順の冷酷な反復の中に、自分の意志が少しずつ削り取られていく感覚を、激しい心拍と共に飲み込んだ。
上達した実感はない。 ただ、先輩兵から渡された「一」と「二」という数字の檻の中に、自分の身体を押し込めることだけに専念した。
粘りつくような死の抱擁が、ゲオルグの軍靴を絶え間なく地中へと引きずり込んでいた。 足首を優に越える深さまで堆積した泥は、兵士たちの吐息と硝煙の残滓、そして腐敗した土壌が混ざり合った、生理的な嫌悪を催すほどに重い膠質だった。
一歩歩を進めるたびに、粘土質の泥が外套の裾を捉え、物理的な重圧となって全身の関節を軋ませる。 この場所において、意志や目的といった精神的な営みは、重力と摩擦という物理法則の前に無残に霧散していた。
ゲオルグは、自身の身体が泥という名の巨大な内臓に飲み込まれ、消化されていくような感覚を覚える。 泥は音もなく、しかし確実に彼の体力を削り取り、思考の明瞭さを奪い去っていった。
不意に、外套の右袖が鋭い抵抗に遭遇し、ゲオルグの身体は前傾姿勢のまま固定された。 視線を向けると、錆びついた鉄条網の刺棘が、厚手のウールを深く、執拗に抉り込んでいた。
それは通過を許さない拒絶の意思表示であり、環境そのものが人間を排除しようとする暴力的な沈黙であった。 ゲオルグは泥に足を取られたまま、震える指先で棘を外そうと試みたが、冷え切った指先は思うように動かず、逆に鉄条網の網目の中へと深く絡みついていく。
焦燥が募る。しかし、この場所では焦りさえも泥に沈み、速度を持つことが許されない。 鉄条網の刺棘が皮膚を掠め、僅かな痛みが走った時、彼は自分が「向こう側」ではなく、今この足元の「環境」と戦っているのだという事実を、骨の髄まで理解させられた。
空間が突如として、物理的な質量を伴って爆ぜた。 耳朶を打つ音響よりも早く、地面を伝う衝撃波がゲオルグの足首から脊髄、そして頭蓋の奥へと直接突き抜けていく。
砲撃だった。 それはもはや音ではなく、空間の座標を強引に書き換えるような、不可避の変位だった。
振動のたびに壁面の泥が剥がれ落ち、ゲオルグの視界は白濁した土煙によって覆い尽くされる。 衝撃波が肺を圧迫し、内臓が不自然に揺さぶられるたびに、彼の思考の連続性は物理的に断ち切られた。
彼には、敵がどこにいるのか、なぜ撃ってくるのかを考える余裕など微塵もなかった。 ただ、地表を揺らす巨大な振動に耐え、泥の中に身を沈めることだけが、唯一の生存の手順となっていた。
「・・・向こうだ。一発だけ、方向を抑えろ。」
傍らに潜んでいた先輩兵の声が、乾燥した事実としてゲオルグの鼓動を刺した。 向こう、と呼ばれるその方角には、白く濁った濃霧の向こう側に、鉄と死が沈殿しているはずだ。
そこに敵の顔は見えない。ただ、こちら側の存在を消し去ろうとする、圧倒的な「方向」があるだけだった。 ゲオルグは泥に塗れた銃身を引き寄せ、塹壕の縁に据えた。
昨夜の部屋での模倣とは比較にならない、数キログラムの鉄の重量が、彼の両腕に現実の重みを課してくる。 彼は照準器の奥に、自らの「正しさ」を投影しようと試みた。
これは、役に立つための、正しい選択なのだ。 その理屈が、震える指先に論理的な強度を与えると信じた。
ゲオルグは大きく息を吸い込み、そのまま肺の活動を完全に停止させた。 心拍が鼓動を増し、僧帽筋が耳の近くまで硬くせり上がる。
肩の筋肉が岩のように固まり、銃床との接地面が不自然な反発を始めた。 ゲオルグは引き金を引いた。
乾いた打撃音と共に、薬室内の火薬が炸裂し、激しい反動がゲオルグの右肩を容赦なく叩きつけた。 火薬の燃えカスが放つ鋭い臭気が鼻腔を突き、銃口は空に向かって大きく跳ね上がる。
照準線は物理的な法則に従って一瞬で崩壊した。 彼はすぐに銃口を元の位置へ戻そうとした。
しかし、止めたままの呼吸が肺を圧迫し、強張った肩の筋肉が衝撃の余韻を逃がすことを拒絶する。 身体的なエラーが、明確な遅延となって現れた。
視界から「向こう」の景色が消え、跳ね上がったままの銃身を制御下に置くまでに、致命的な数秒という空白が生まれた。 リカバリーの遅延。それは、理屈が手順に敗北した瞬間だった。
「・・・吐け。二、で戻せ。」
先輩兵の短い声が、ゲオルグの硬直を切り裂いた。 ゲオルグは肺の中に溜まっていた熱い空気を吐き出し、重力に従って肩を落とした。
肺が酸素を吸い込み、筋肉の束が僅かに弛緩する。 彼は先輩兵から教えられた「二」という数字を心の中で唱え、跳ね上がった銃身を再び水平へと戻した。
そこに英雄的な感傷が入り込む余地はなかった。 ただ、繰り返されるべき手順だけが、この泥濘の中で唯一、彼を現実へと繋ぎ止めていた。
発砲の衝撃による耳鳴りが、周囲の喧騒を遠ざけていく。 ゲオルグは、自らの手の中に残る鉄の熱を感じながら、残弾を確認するためにボルトを僅かに引いた。
金属が噛み合う正確な感触。薬室内の真鍮色の輝き。 五、四、三、二、一。
彼は心の中で数を唱えた。 その物理的な計数だけが、彼の中に残された唯一の確かな秩序であった。
理屈は泥に沈み、喘鳴は砲声にかき消されたが、指先に伝わる弾薬の数だけは嘘をつかなかった。 彼は、次の動作のためにボルトを完全に閉鎖し、泥にまみれた自身の指を見つめた。
「これは違う。」
彼は自らの喉の奥で、その言葉を短い楔のように打ち込んだ。 それは正しさを誇るための宣言ではなく、自分自身をこの過酷な手順のレールへと繋ぎ止めるための、孤独な呪文だった。喉すら開けるのを躊躇う。
彼を動かしているのはもはや崇高な理念ではなく、次に何をすべきかという、矮小で確実な手順の集積だった。 視界の端で、再び砲弾が地表を抉り、泥の雨が降り注いだ。
ゲオルグは、重くなったまぶたを瞬き、次にすべき物理的な動作だけを脳内の目録から引き出した。
白濁した雲が、鉄条網の棘を飲み込み、世界の境界線を曖昧に塗りつぶしていった。
無線機の真空管が放つ橙色の微かな熱と、石壁の亀裂から染み出す冬の湿った冷気が、狭い室内で不協和音のような澱(よど)みを作っていた。ヘッドセットの奥からは、絶え間なく砂嵐のようなノイズが鼓膜を削り、時折、意味を成さない短い符号の断片が火花のように弾けては消える。一九一五年、年初。前線の凍土を揺らす砲声は、ここでは厚い防壁を隔てた遠い耳鳴りにまで減衰されていた。しかし、その代わりにゲオルグの耳を支配しているのは、不可視の糸のように張り巡らされた「音と数字」の連鎖であった。この場所において、静寂は安らぎではなく、情報の欠落という名の空白に他ならない。
ゲオルグは、木製の椅子に浅く腰を下ろしたまま、右足の付け根を僅かに庇うように重心を左へ移した。厚手の包帯が軍ズボンの下で擦れ、粗い繊維が傷口の端を引き攣らせるたびに、鋭い痛みが脊髄を駆け上がる。その痛みは、彼が「歯車」としての回転速度を落としているという冷酷な通知であった。彼は小さく、浅い呼吸を繰り返す。肺に冷気が入り込むたびに、胸の奥で正体不明の焦燥が、鉛のような重圧となって膨れ上がった。前線という、ただ目の前の手順だけに没頭すれば済む場所から引き剥がされた事実は、彼に「考える」という余計な隙間を与えてしまっている。
「……届いた。時刻、書け」
背後の机でログを確認していた無線担当が、感情を削ぎ落とした事務的な声で指示を出した。ゲオルグは返答せず、震える指先で短くなった鉛筆を握り直した。彼は届いたばかりの電文の紙片を、まず指先で丁寧に整えた。四隅を合わせ、机の刻まれた傷跡と平行になるように配置する。内容を精読する前に、まずその紙という「物質」を秩序の中に置くことが、今の彼に残された唯一の防衛手段であった。
インクが滲んだ命令書の余白に、彼は震える字で受理時刻を記入する。鉛筆の芯が紙を削る「カリ、カリ」という微小な音が、心臓の鼓動と同期するように速まった。書き終えたら、次は受領印だ。彼は手順を言い聞かせるように、金属製の重い印を手に取った。朱肉を吸った印が紙を叩く鈍い衝撃が、静まり返った室内で不自然に大きく響く。
ゲオルグは、その紙を防水加工された鞄の所定の仕切りへと、指先の感触だけで滑り込ませた。その一連の動作において、彼が負傷している事実は、歩幅の乱れや、痛みを逃がそうとする不自然な肩の上下運動として、隠しようもなく露呈していた。彼は一度、腰に下げた工具袋の表面を、確認するように掌で強く撫でた。中には父から渡されたレンチと研ぎ石が、以前と変わらぬ硬質な重みを持って収まっている。続いて、指先が弾薬ポーチのフラップに触れた。五発の弾薬が収まっているはずの膨らみ。それは、前線から持ち帰った「身体の記憶」であり、配置を確かめることでしか自らの存在を定義できない少年の、無意識の儀式であった。
「歩幅、変えるな。痛い方に合わせろ」
不意に、部屋の隅で備品を整理していた先輩兵が、視線を上げずに言葉を置いた。その声には、憐憫も、あるいは軟弱な後方勤務を詰る響きも含まれていない。ただ、機械の摩耗を最小限に抑えるための手順を淡々と伝えるような、乾燥した響きだけがあった。
「受領しました。次はどこですか」
ゲオルグは、先輩兵の言葉を機械的な命令として受け流し、次の業務を急かした。痛い方に歩幅を合わせろ、という言葉は、彼にとって「進みが遅くなる」という事実に他ならなかった。自分がこの後方拠点に留まり、紙を整え、時刻を書き込んでいる間にも、前線の座標は絶えず書き換えられ、自分がいないままに「数」が蓄積されていく。戻りたいという焦燥と、思うように動かぬ身体の不自由さ、そして自分が不在のまま回り続ける機構への恐怖が、混濁して喉を灼いた。
「焦るな。次も、その次も紙は来る。お前がここで止まっても、向こうは止まらない」
先輩兵は、重い革製の伝令鞄をゲオルグの前に放り出した。
「だが、お前がその足で転べば、紙は届かない。手順だ。一で立ち、二で踏み出せ」
ゲオルグは、机に手をついてゆっくりと立ち上がった。右足に体重がかかった瞬間、包帯の縫い目が傷口を容赦なく締め付け、激しい拍動が視界を一瞬だけ白く明滅させる。前線にいた頃よりも、ここでは自分の呼吸の音がうるさく、そして不規則に感じられた。安全な場所、誰もがそう呼ぶこの拠点は、ゲオルグにとっては、自分の「遅れ」を秒単位で、そして紙切れ一枚の重さで突きつけられる場所であった。
紙の折り目、符号の切れ端、無機質な受領印。それらすべてが、彼を「前線」という、考えなくて済む場所から遠ざけていく。彼は伝令鞄を肩にかけ、重心を不安定に揺らしながら、出口の扉へと向かった。廊下の冷気が肺を灼き、浅い呼吸が白い呼気となって、古い石壁の隙間に吸い込まれて消える。
「一、で立ち。二、で踏み出す……」
彼は口の中で、先輩兵から渡された数字を呪文のように繰り返した。その手順に縋っている間だけは、自分が壊れた部品ではなく、まだ機能している歯車の一部であることを、辛うじて信じることができた。
背後で、再び無線のノイズが激しさを増した。それは、どこか遠くで誰かの命が「数字」へと整形される音のように聞こえたが、ゲオルグはそれを思考の枠外へ押し出し、ただ次の一歩の歩幅を、痛みに合わせて調整することだけに全神経を集中させた。歩くたびに、鞄の中の紙がカサカサと乾いた音を立てて、彼の耳を刺し続けた。
一九一五年。春から初夏へと移ろう季節。 湿り気を帯びた重い風が、物資補給路の急峻な坂道を這い上がっていた。ゲオルグは、背負い袋の過剰な質量に肺を圧迫されながら、泥濘と化した斜面に軍靴を突き立てる。支給されたばかりの新しい革靴は、まだ彼の足に馴染まず、右足の負傷箇所を執拗に締め付けていた。一歩踏み出すたびに泥が靴底を吸い付け、離す瞬間の「じゅ、」という粘り気のある負圧の音が、周囲の静寂を不快に塗りつぶす。軍服の繊維が吸い込んだ湿気は皮膚にまとわりつき、体温を奪いながらも逃げ場のない熱をこもらせるという、矛盾した感覚を強いていた。
坂は段差の激しい岩場へと差し掛かり、ゲオルグの歩幅は強制的に制限された。痛む右脚を庇うように、不自然に膝を外側へ逃がして着地する。その僅かな重心のズレが、彼の中にあった歩行の手順を静かに狂わせていった。足場を確かめるたびに、泥にまみれた指先が冷たく強張っていく。斜面の勾配が増すにつれ、視界の先には低く垂れ込めた灰白色の塊が、山肌を削り取るようにして現れた。それは空にある気体というよりも、水気を含んだ羊毛の山のような、圧倒的な実体を伴って彼らの行く手を塞いでいた。視界が白く濁るより先に、肌を刺す冷たい湿度の塊が、逃れようのない重圧となってゲオルグの肺を圧迫し始める。
ゲオルグは一度だけ、顔を上げた。 視線の先には、山嶺を完全に覆い隠す巨大な雲の層があった。その上には、もしかしたらこの泥濘も、背中の重みも存在しない、ただ明るい光だけが満ちているのではないか。彼はその「上」という空間に、自分を縛り付ける法則から解放された何処かを一瞬だけ幻視した。しかし、それは何ら救済を約束するものではなく、ただ、この先に続く広大な絶望を覆い隠すための、巨大で事務的な蓋のようにそこに置かれていた。彼はその白く重い膜を見つめ、思考をそこへ逃がそうとしたが、首筋を伝う冷たい汗の感触が、瞬時に彼をこの泥の斜面へと引き戻した。
背負い袋の革紐が、軍服の肩口で絶えず「ギ、ギ、」という乾いた摩擦音を立てていた。その音は、父から渡された工具袋が歩行の振動で腰を叩くリズムと重なり、ゲオルグに生存のための最小限の手順がまだ自分と共にあることを通知し続けていた。彼は空いている左手で、自身の装備の数を確かめようとした。慣れ親しんだ五つのボタンやポーチの感触を、精神の安定を保つための座標として指先で探る。
(一、二、三……四……)
しかし、指先が五つ目の突起に触れる前に、濡れた泥で滑った足元を支えるため、慌てて傍らの岩を掴まなければならなかった。両手は重い銃と泥塗れの岩に塞がれ、整列を完結させる余裕など、この険しい地形の前には存在しなかった。五つ目の数字に到達できないという微かな欠落感が、心拍数を不必要に跳ね上げる。
携行している小銃の冷たい鉄の感触が、二の腕を通じて彼の肋骨を圧迫する。かつて自らを正しい場所へ送り出すための鍵であったはずのその鉄塊は、今やただ、歩行を阻害し、体力を削り、姿勢を歪ませるためだけの無機質な重錘(おもり)へと成り下がっていた。鉄の冷たさが布越しに浸透し、彼の思考を剥き出しの「重さ」だけで塗りつぶしていく。
「息、止めるな。止めると遅れるぞ」
背後から、規則的な足音を乱さぬ先輩兵の短い声が飛んだ。ゲオルグは自覚のないまま、また呼吸を停止させていた。肺の中に溜まった古い空気が逃げ場を失い、その内圧に抗うように僧帽筋が耳元までせり上がっている。肩が限界まで上がった状態で固着し、次に足を出すという神経の命令が、身体の末端に届くまでに明確な遅延が生じ始める。
「……分かってます」
ゲオルグは短く吐き捨てるように答え、溜まっていた空気を無理やり吐き出した。肺が萎縮し、肩が重力に従って落ちる。しかし、一度乱れた歩幅はすぐには戻らない。右足の接地角度が数ミリ狂い、再び泥を蹴る瞬間に無駄な力が必要となる。
その時、遠方の山々のさらに向こう側から、空気を物理的に引き裂くような地鳴りが響いた。砲声だった。その音は入り組んだ山の斜面で反復し、増幅され、まるで山そのものが唸り声を上げているかのような不気味な残響となってゲオルグの骨格を震わせた。音の正体は目に見えず、ただ座標だけが「上」の雲に遮られた向こう側で動いている。
ゲオルグの視線は、再び足元の泥へと落とされた。上を見たいという衝動は、軍靴の底にまとわりつく泥の重みによって、無残に打ち消される。視界の端で揺れる雲の白さは、今の彼にとっては到達不可能な距離にあるのではなく、ただ自分の背中に積み上げられた荷物をさらに重くするための、もう一つの層に過ぎなかった。
「五……」
彼は独り言を漏らしたが、その先を継ぐことはできなかった。足元の岩が崩れ、膝が再び泥の中に沈み込む。彼は励ましの言葉も、意味のある会話も求めなかった。ただ、先輩兵から渡される「一、二」という、身体を動かすための最小単位の命令だけを待ち、泥を噛むようにして坂を這い上がっていった。雲は依然として低く、彼の頭上を冷たく、そして重々しく覆い続けていた。
一九一五年、夏。 ゲオルグが山越えの過酷な伝令任務から戻った直後の無線室は、地表の猛暑を遮断した地下特有の、粘りつくような湿気に満ちていた。石壁の表面には結露した水滴が鈍い光を反射し、古い紙の埃と重油、そして拭いきれない人間の汗が混ざり合った重苦しい匂いが、低い天井の下で澱みのように沈殿している。真空管が発する橙色の微かな熱が、その湿った空気を不規則に攪拌(かくはん)し、室内をさらに息苦しいものへと変えていた。
ゲオルグはヘッドセットを耳に強く押し当て、断続的に響く無機質な符号の断片を、湿り気を帯びた記録用紙へと書き写していた。鉛筆の芯が湿った紙の上で滑り、その不確かな感触が彼の神経を逆撫でする。無線の受信作業が中盤に差し掛かり、符号の列が一時的な空白を迎えた時、傍らの伝令が音もなく歩み寄り、机の端に一枚の紙の切れ端を置いた。それは、どこかで見繕われた新聞の断片か、あるいは上位局から流れてきた通達の写しであった。
ゲオルグは次の符号を待つ間に、視線だけをその紙へと落とした。見出しには、ただ一つの固有名詞が、暴力的なまでの黒さで印刷されていた。
「ルシタニア」
ゲオルグはその文字を一度だけ視界に入れ、すぐにその下に並ぶ数字の列へと目を移した。そこには千を超える数が、剥き出しの事実としての重みを持って羅列されている。彼は無意識に、右手の指先をその数字の上に置いた。昨夜、あるいは訓練地で、五つのボタンや弾薬を並べた時のように、彼はその「数」を作業としての手順に落とし込もうと試みた。指先が紙のざらつきをなぞる。一、二、三……。
しかし、彼の指は四を数える前に、凍りついたように止まった。その数は、一人の人間が手順として数え切るにはあまりに膨大であり、かつ、彼の理解という枠組みを易々と踏み越えていた。海の向こう側にあるはずの巨大な「味方」が、自分たちを安心の中に繋ぎ止めているという漠然とした自己暗示が、そのインクの染みによって実体を持って揺さぶられる。
「海の、向こうの味方が……」
言葉は、湿った空気の中に溶けて消えた。アメリカという巨大な存在がこちら側を支えているという確信は、今、その紙切れの上で形を失いかけている。しかし、ゲオルグはその揺らぎを認めようとはしなかった。揺らぎを打ち消すように、彼の敵意は、より単純で、より直接的な方向へと寄っていく。海の向こうで起きた悲劇よりも、目の前の紙が突きつけてくる不確実さの方が、彼にとっては耐え難い暴力であった。彼は震える手でその新聞の断片を掴み、乱暴に三つに折り畳んだ。「グシャリ、」と紙が潰れる音が、無線機のノイズに重なる。
その直後、ヘッドセットから再び鋭い符号が弾けた。業務が、感情の整理を許さずに割り込んでくる。伝令、押印、記録。次々と押し寄せる手順の波が、彼に「考えること」を禁じていた。ゲオルグは拠点の入り口から入り込む、白く濁った外気を盗み見て、短く吐息を漏らした。拠点の湿気と混ざり合い、視界を白く塗りつぶすその気象は、不気味なほど静止しているように見えた。
最近、兵士たちの間で囁かれている**「塩素」**(あるいは「緑色の雲」)という新しい兵器の噂が、彼の脳裏を掠めた。吸い込めば肺が灼け、皮膚が爛れるという、理解不能な科学の産物。しかし、彼はその恐怖に直結する語をすぐに排斥し、以後はただそれを「雲」と呼ぶことに決めた。語を短縮し、意味を削ぎ落とすことで、恐怖を無機質な天候へとすり替えたのだ。
ゲオルグは喉の奥に引っ掛かるような不快感を覚え、短い咳を漏らした。湿気が、あるいは紙の埃が、彼の呼吸を浅くさせている。肺の奥に何かが溜まっていくような圧迫感があるが、彼はそれを「ただの風邪だ」という仮説の下に封じ込めた。
「読んだなら畳め。今は紙だ」
背後で、先輩兵が冷淡な言葉を投げた。彼はゲオルグから紙を取り上げることも、内容を問い直すこともしなかった。ただ、彼を作業という名のレールへと強引に戻させる。その声は、ゲオルグが内側に抱えかけた疑問を、機械的な命令によって押し潰した。
「受領印、押します……」
指示に従い、重い金属印を手に取る。向こう側がやったのだ、という、根拠のない、しかし便利な責任転嫁の芽が、彼の中で静かに膨らみ始めていた。それは正義ではなく、自分をこの場に繋ぎ止めるための最小限の納得であった。彼は印を紙に叩きつけ、その衝撃によって、「ルシタニア」という文字とそこに付随する揺らぎを、深く、ログの下へと埋め殺した。
最後の一文を書き終える前に、彼は再びヘッドセットを耳に当てた。符号が鳴り響く。彼は鉛筆を走らせ、今この瞬間に届く「次の数字」を記録することだけに、すべての意識を注ぎ込んだ。石壁の湿気はさらに増し、彼の背中を冷たく、そして重く圧迫し続けていた。
一九一五年、晩夏から秋へ。 訓練射座の空域には、乾いた土埃が微細な粒となって停滞し、西日に照らされて白く濁った層を作っていた。ゲオルグは、詰め所の窓口に置かれた復帰申請の書類を、指先の汗で僅かに湿らせながら見つめていた。彼の視線の先には、昨夜から何度も確認した「原隊復帰」の四文字が、事務的なインクの色で記されている。
「復帰を早めたい」
ゲオルグは、喉の奥に張り付くような乾きを覚えながら、その一言を短く絞り出した。なぜ、という問いが係官の沈黙の中に漂ったが、彼はそれを言葉で埋めることはしなかった。代わりに、彼は無意識に右脚の付け根を強く圧迫し、包帯越しに伝わる痛みを強引に封じ込めた。その沈黙の時間は、彼にとっての「遅れ」を証明する空白に他ならなかった。
「条件がある。脚と手順だ」
背後から、いつの間にか歩み寄っていた先輩兵が、冷淡な、しかし明確な境界線を引くように告げた。拒絶ではないが、そこには不完全な部品を前線へ送ることを許さない、冷徹な規定の響きがあった。
「……やります」
ゲオルグは射座へ向かい、傍らに工具袋を置いた。父から渡された革袋の重みは、過酷な後方勤務を経ても変わらず、そこにある。袋から取り出した小さなレンチで、小銃のボルトの微かな緩みを締め直す。金属と金属が噛み合う硬質な手応えが、指先を通じて脳へ伝わる。油を染み込ませた布で銃身を拭い、照準器の溝に溜まった砂粒を丁寧に取り除いた。
続いて、彼は五発の弾薬を手に取った。それはもはや不安を払う儀式ではなく、装填機構が確実に機能するかを確かめるための、剥き出しの確認作業だった。一、二、三、四、……五。指先で真鍮の滑らかな曲線をなぞり、次々と弾倉へと滑り込ませる。
その際、ボルトハンドルが薬室の手前で僅かな抵抗を示した。かつての彼なら、苛立ちに任せてハンドルを力任せに叩き込んでいただろう。しかし今の彼は、その抵抗の正体を、金属同士の微細な不整合として即座に受け入れた。最小限の力でハンドルを引き戻し、角度を微調整して、再び滑らかに前進させる。カチリ、という噛み合わせの音。それは成長への称賛を必要としない、ただの正確な手順の遂行であった。
銃を構える。ゲオルグは呼吸を止めない。肺から空気を細く、一定の圧力で吐き出し続けながら、照準を標的へと固定する。引き金を引く。ドォン、という衝撃が肩を叩く。かつては反動に負けて跳ね上がったままだった銃口が、今は、衝撃の余韻を肩の弛緩で逃がすことで、速やかに元の照準線へと戻っていく。戻しの速度。それが、彼が手に入れた唯一の「正しさ」の証明だった。
喉の奥が熱を帯び、手のひらには粘りつくような汗が滲む。感情が入り込む隙間を、彼は機械的な動作の集積によって塗りつぶしていた。
「東の戦線が動いている。もうすぐ、終わるだろう」
誰に聞かせるでもなく、自分自身を納得させるための早計な仮説を口にする。その言葉が正しいかどうかを検証する回路を、彼は既に遮断している。ただ、世界が「終わる」前に、自分が本来あるべき位置――考えなくて済む手順の中へ戻らなければならないという焦燥だけが、心拍を不規則に突き上げていた。
先輩兵は肯定も否定もせず、移動の準備を始めたゲオルグの背中に短い言葉だけを置いた。
「止まるな。一、二、だ」
ゲオルグは支給品の鞄を引き寄せ、革紐を指が白くなるほど強く締め直した。軍靴の紐を編み上げ、立ち上がろうとした瞬間、右脚が重力に耐えかねて一瞬だけ外側へ崩れかけた。鋭い痛みが脳を灼く。肉体という抗いようのない事実が、彼が自分に課した「順調」という嘘を否定しようとしていた。
ゲオルグは崩れかけた膝を無理やり垂直に立て直し、痛みを手順の一部として無視した。鞄を肩にかけ、出口へと向かって踏み出す。頭上には、土煙と夕闇が混ざり合った白く濁った雲が、低い天井のように空を覆っていた。その層は、世界の出口を塞ぐ蓋のように重く、停滞している。
ゲオルグは一度も後ろを振り返らなかった。 軍靴が石床を叩く規則的な音に耳を澄ませ、次の動作、その次の歩幅を確定させることだけに意識を集中させた。開かれた扉の向こう側から、冷え始めた秋の空気が肺へと流れ込み、彼の白い吐息が、濁った雲の中へと吸い込まれて消えた。
一九一六年、春。 後方拠点の事務室に漂う空気は、安価なインクの鼻を突く刺激臭と、壁の向こうで絶えず回転し続ける換気扇が発する、乾いた金属的な唸り音によって支配されていた。窓の隙間から差し込む陽光は、室内に舞う微細な埃の粒を白く照らし出し、閉ざされた空間の澱みを視覚的に強調している。
ゲオルグの目の前にある、長年の使用で角が丸くなった木製机の上には、一枚の再配置通知書が置かれていた。その紙の端は機械的に正確な直線で断裁され、中央には軍の公印が、一点の滲みもなく鮮明な赤色で刻印されている。通知書の中ほどに記された「適性」および「功績」という四文字は、事務的な活字の列の中で、周囲の文章から切り離されたかのように冷たく、そして鋭く浮き上がっていた。
ゲオルグは、その紙の感触を指先で慎重に確かめるようにして受け取った。厚手の紙は、彼の指先から伝わる僅かな湿気を吸い込み、受け取った瞬間に肘まで伝わってきた実体を持った重量は、彼に「役割」が更新されたことを無機質に、しかし決定的に告げていた。
ゲオルグは無意識に、腰に下げた工具袋のフラップに左手を這わせた。自らの「役に立つ」という唯一の生存軸が、この紙一枚によって、より深部、より過酷な座標へと不可避に接続されたのだ。その事実に、胃の奥が凍りつくような冷えを感じながらも、胸の端では、選ばれたのだという微かな自負が、重い泥のような拒絶感と混ざり合って停滞していた。評価されたという誇らしさが、そのまま死地への通行証となる矛盾。
彼は紙を三つに折り、その折り目に右手の爪を立てて正確になぞり、平らに整形してから、防水鞄の所定の仕切りへと静かに収めた。受領の一連の動作は淀みなく、既に彼の身体の一部となった手順に従って、機械的に遂行された。
移動のトラックの荷台は、絶え間ないエンジンの震動と路面の衝撃によって、ゲオルグの骨格を絶えず揺さぶり続けていた。前線に近づくにつれ、砲撃の「音」は、かつてのように回数として数えられる個別の現象から、地面そのものが絶えず震え続け、空間を埋め尽くす「環境」へと変質していった。沈黙という概念が、大気から強引に剥ぎ取られていく。耳を塞いでも、内臓を直接揺さぶるような重低音の震動は止むことがなかった。
ゲオルグは荷台の淵を、指の節が白く浮き出るほど固く握りしめ、自身の呼吸が外界の震動の周期に飲み込まれて霧散しないよう、細く浅い吐息を繰り返した。荷台に同乗する兵士たちの顔は、跳ね上がる泥と埃に覆われ、個々の表情や人格を判別することは既に困難であった。彼らはただ、揺れに耐えるだけの肉塊としてそこに積み上げられていた。
到着した地点の傍らには、泥に半ば埋もれ、砲弾の破片で角が激しく削り取られた木の標識が力なく立っていた。そこに刻まれていたのは、「ヴェルダン」という、ただ四文字の固有名詞だった。
ゲオルグが泥濘(でいねい)へと降り立った瞬間、彼の肺は、そこに充満する空気の「重さ」によって容赦なく動きを制限された。酸素を求める反射が、湿気と硝煙を含んだ石壁のような空気の密度に拒絶される。彼は無意識に呼吸を止め、肩を石のように固着させた。かつての負傷箇所である右脚が、粘りつくような泥の抵抗を前にして、明らかな遅延を見せた。踏み出そうとする脳の命令と、実際に泥を蹴り上げる肉体の動作の間に、数ミリ秒の致命的な空白が生じる。
自分の身体が自分のものでなくなるような感覚。彼は反射的に右手を伸ばし、弾薬ポーチの表面を撫でた。中にある「五発」の硬質な感触を確認することで、自身の内側の秩序を、そして境界線を辛うじて繋ぎ止めようとした。
「荷を降ろせ。配置を確認しろ。現況の差異を埋めろ。休んでいる暇はないぞ」
出迎えた先輩兵の声には、激励も、歓迎の響きも一切含まれていなかった。ただ、次の工程を促すための無機質な命令だけが、ゲオルグの耳を通り抜け、彼の思考を手順の中へと強引に押し戻した。
「……了解しました。直ちに作業に入ります」
ゲオルグは短く応じ、痛む脚の重心を無理やり垂直に立て直して、重い泥の中から足を力任せに抜き放った。標識の文字を二度と振り返ることなく、背負い袋の紐を、皮膚に食い込むまで強く締め直した。彼の指は、思考が「ここがどこか」という問いを完結させる前に、既に次の作業を反射的に開始していた。
泥にまみれた土嚢の端を掴み、その湿った重みを一つずつ確かめ、銃身に付着した僅かな埃を油布で拭い去る。手のひらに伝わる鉄の冷たさと、指先に残る泥の粘り気。それら剥き出しの事実だけが、今の彼をこの場所に繋ぎ止めるための、唯一の鎖であった。思考が追いつく前に、彼の肉体は既にヴェルダンという名の巨大な機構の一部として、音を立てて回り始めていた。
一九一六年、夏。 ヴェルダンの大地はもはや土ではなく、数百万の砲弾が耕し、降り続く雨が捏ね上げた、粘りつく巨大な肉塊へと変貌していた。ゲオルグが足を踏み出すたび、泥濘(でいねい)はその軍靴を底なしの貪欲さで飲み込み、引き抜く瞬間に「ゴ、ブ、」という肺腑を抉るような湿った音を立てる。ここでは走るという動作は、構造的な不可能に属していた。膝まで埋まる粘土質の泥は、ゲオルグの肉体から機動力を奪い、ただ一歩を前に進めるためだけに、全身の筋肉を震わせる全霊の労働を強いてくる。
不意に、至近距離で重い震動が大地を叩いた。ゲオルグは反射的に伏せようとしたが、泥が彼の脚を離さなかった。膝を折る動作が数秒遅れ、泥の重圧に抗いながら無様に倒れ込む。顔面が泥の飛沫に覆われ、腐敗した有機物と鼻を突く硝煙の入り混じった悪臭が口腔を侵した。伏せるという防御動作すら、この環境は容易に許さない。泥が勝っていた。人間が築いた戦術も勇気も、この粘りつく沈黙の前では、無力な足掻きに過ぎなかった。
ゲオルグは、泥を啜りながら小銃を前方に突き出した。前方、数百メートル。そこには「敵」がいるはずだったが、彼の視界にあるのは、霧と土煙が混ざり合った灰色の層と、その中を無機質に飛び交う破片の軌跡だけだった。誰と戦っているのか、その顔は一度も見えない。ただ、特定の方向から飛来する死の質量に対し、彼は反射的な手順を繰り返す。
右肩に銃床を押し当てる。泥で滑るストックを、衣服の摩擦を利用して無理やり固定する。 一発。 引き金を引くと、反動がゲオルグの肩を突き抜けた。しかし、照準を復帰させるための「戻し」が、かつてのように滑らかに決まらない。眼球に飛び込んだ土の粒が激しい瞬きを強要し、視界が涙と泥で白く明濁する。さらに、連日鳴り響く砲声によって狂わされた心拍が、照準器の先端を激しく上下へ揺らし続けた。肩は岩のように固着し、自分の意志で銃口を制御しているという感覚が、指先から零れ落ちていく。
彼は一度息を吐き、ボルトハンドルを引いた。 「……一」 次弾を装填する。指先が真鍮の冷たさを確かめ、排莢の手順を遂行する。 二発。 ボルトを戻し、再び標的の見えない空間へと鉛を送り込む。この一発に理念はない。ただ、「役に立つ」という軸を維持するために、自分に課した手順を遅滞なくこなすことだけが、彼の自我を繋ぎ止めていた。身体は泥と疲労で悲鳴を上げ、命令系統は寸断されかけている。それでも、彼は指先の感触を頼りに、壊れた機械のように動作を反復した。
(一、二、三、四、五。装填済み。異常なし……)
彼は一瞬だけ、自身の内側の秩序が保たれていることに安堵した。五発という数は、依然として彼の世界における唯一の正解だった。しかし、その安堵は次の瞬間に訪れた抗いようのない拒絶によって、無残に砕かれた。
三発目を撃とうとした瞬間、ボルトが粘りつくような泥を噛み、前進を拒んだ。無理に力を込めても、ハンドルは中途半端な位置で固定され、沈黙した。手順が途切れた。五という秩序が、ヴェルダンの泥という環境によって完膚なきまでに破綻した瞬間だった。
その時、前方から何かが迫る気配があった。人影か、あるいは泥が動いたのか。ゲオルグは銃を武器として使うことを諦め、傍らに突き刺さっていたシャベルを引っこ抜いた。 彼はそれを武器としてではなく、進路を塞ぐ障害物を排除するための「道具」として振り下ろした。手応えがあった。肉を断つ感触か、あるいは泥を叩いた衝撃か、彼には判別がつかない。ただ、目の前の事象を処理するために、最も効率的な動作を選択したに過ぎない。そこには憎悪も、戦うことの誇りすら存在しなかった。彼はただ、周囲に堆積する不純物を、手順に従って清掃し続けているだけだった。自分が今、何をしているのか。その本質を理解するための思考は、既に泥の下に埋没していた。
戦闘が一時的な停滞を見せても、ゲオルグの手は止まらなかった。 震える指先でジャムを起こした小銃のボルトをこじ開け、泥を掻き出した。爪の間に砂が食い込み、指先の感覚が麻痺していく。泥を拭い、再び「五」を装填する。何度繰り返しても泥は完全には落ちず、布は既に茶色い粘土の塊と化していた。
軍服の繊維の奥深くまで入り込んだ泥は、もはや洗って落ちる類のものではなかった。それはゲオルグの皮膚と一体化し、彼の毛穴を塞ぎ、人格そのものを汚染し始めているようだった。どれだけ強く掌を擦り合わせても、腐敗した土の臭いは消えない。むしろ、擦れば擦るほど、その臭いは体温によって活性化され、彼の肺を内側から腐らせていく。
「一、二……一、二……」
ゲオルグは、震える手で装備を確認し、再び泥の中に指を沈めた。手の震えは止まらず、指先の汚れは増していく。彼の感覚は、もはや「敵」を捉えることはなかった。ただ、絶え間なく降り注ぐ泥と、皮膚に染み付いた取れない臭い、そして湿り気を帯びた白く濁った大気の感覚だけが、すべてを支配していた。
次の瞬間、風向きが変わった。 ゲオルグの鼻腔を、泥の臭いとは異なる、甘ったるく、そして鋭利な毒を含んだ異様な刺激が突き刺した。視界の端で、地面を這いずるようにして現れた白く重い何かが、ゆっくりと境界線を侵食し始めていた。
ヴェルダンの泥濘が放つ、腐敗した有機物と硝煙が混ざり合った重苦しい悪臭を、不意に、異質な風が強引に押し流した。風向きが変わったのだ。その「何か」は、視界が白く濁り始めるよりも遥か手前で、ゲオルグの粘膜を無機質に蹂鳴し始めた。
最初に来たのは、熟れすぎた果実が極限まで腐敗したような、あるいは強烈な漂白剤を喉の奥へ直接流し込まれたような、鋭利で不快な臭気だった。眼球の裏側を熱い針で何度も刺されたような激痛が走り、ゲオルグは無意識に顔を歪めた。鼻腔から肺へと至る空気の通り道が、目に見えない火によって刻一刻と焼き払われていく。それは知能が理解するよりも先に、肉体が未知の侵入者に対して発した、最も根源的な拒絶の信号であった。
「一、二、一、二……」
ゲオルグは、焼けるように熱い喉を震わせながら、身体の深部に刻み込まれた手順を口内で執拗に反復した。震える指先を防水鞄の奥へと突っ込み、ゴムと布の独特の臭いを放つ防護具を掴み出す。
手順一、肺の底にある汚れた空気をすべて吐き出す。手順二、マスクを顔面に密着させ、背後の紐を一気に引き絞る。泥と汗で滑る皮膚にゴムの縁が食い込み、密閉された空間の中で、自分の荒く、湿った呼吸音が不気味に反響し始めた。レンズは瞬く間に内側の熱と汗で白く曇り、視界は、湿り気を帯びた不確かな光の屈折へと限定される。マスク越しに吸い込む空気は、ゴムの味とフィルターの冷たい薬品臭が混ざり合い、肺の奥に石を詰め込まれたような重苦しい閉塞感を残した。
ゲオルグは曇ったレンズを指で拭いながら、前方の空間を睨みつけた。地表を這うようにして、白く重い澱みが、ゆっくりと世界の境界線を塗りつぶしながら迫ってくる。
「マ、マスタードガス……」
彼はその恐怖の正体を、かつて聞き及んだ科学的な固有名詞で定義しようと試みた。しかし、その長く鋭利な響きを持つ言葉は、今のゲオルグの狭窄した喉を通り抜けるにはあまりに複雑で、重すぎた。生存のためのエネルギーを無駄に浪費する、分不相応な贅沢品のように感じられた。その名を呼ぶだけで、肺の組織が腐食していくような錯覚に陥る。
「ガスだ……」
語を短縮した。固有名詞の余分な装飾を削ぎ落とし、ただ現象のみを示す短い単語へと置換する。しかし、それでもなお、その言葉には「毒」や「人為的な死」という鋭利な刃の気配が残っていた。ガス。それは誰かが殺意を持って放ったものであり、吸い込めば即座に終わるという事実が、彼の思考を不自由に縛り、身体を硬直させる。恐怖が手順の速度を追い越し、銃を握る指先が不自然に震え始めた。
「いや、これは……霧だ……」
ゲオルグは、レンズの向こう側で白く停滞する質量を見つめ、そう言い換えた。天候の名を与えた。その瞬間、彼の内側に張り詰めていた筋繊維の張りが、明確に弛緩した。霧。それは朝焼けと共に現れ、時間が経てば自然に消え去る、ありふれた現象の呼称であった。
そう呼んだ途端、肺を圧迫していた死の予感が、ただの「視界の悪い気象条件」という無機質な枠組みの中に押し込められた。言葉が、ゴムの防護具以上に彼の身体を守る精神的な防壁となり、ゲオルグは無意識のうちに、止まっていた呼吸を再開した。霧であれば、耐えて待てば良い。それは狡猾な兵器ではなく、ただの不運な天候の問題なのだと、自らに強く言い聞かせた。そう定義することで、喉の痛みさえも、単なる湿気による不快感へと格下げすることができた。
視界を覆う白い停滞の向こう側に、ゲオルグは「向こう側」の存在を幻視した。これを用意し、この泥濘に流し込んだのは誰か。海の向こうに座る、高慢な島国の連中だ。彼らは自分たちのように直接泥に塗れることもなく、安全な場所で紅茶を啜りながら、この「霧」を撒き散らす術策を練っている。卑怯で、顔の見えない、冷酷な連中。
ゲオルグの中で、雑で強固な敵意が結実し始めた。具体的な個人の顔ではなく、ただ特定の方向から飛来する不条理の責任を、海の向こうの抽象的な輪郭へと強引に押し付けた。そうすることで、自分の足元を蝕む泥の重みと、マスク越しに吸い込む不快な空気の全責任を、一時的に忘れることができた。
「霧だ。ただの、深い霧が来ただけだ……」
口の中で、呪文を繰り返した。複雑な理解を放棄し、すべてを天候という不可抗力へと逃避させることの、麻薬のような心地よさに身体を委ねていた。霧という語は、今や彼の思考の核に深く定着し、眼前に迫る殺意を覆い隠す、最も便利な蓋として機能し始めていた。
彼は次の手順を開始した。霧の向こうから現れるであろう影を迎撃するために。ボルトを引き、真鍮の弾薬を指先で数え、姿勢を限界まで低く保つ。彼の指先からは不純な震えが消え、代わりに、何も考えない、何も疑わない機械のような、空虚な正確さが戻りつつあった。
霧は依然として濃く、彼の周囲のすべてを、そして彼自身の思考の境界線さえも、白く、重く、均一に塗りつぶし続けていた。この白濁の中に留まっている限り、自分は何も考えなくて済むのだという、倒錯した安堵が、ゲオルグの胸の内で確実に根を張っていた。
一九一六年、秋。 空を覆う白濁した「霧」は、地表の熱と砲煙を閉じ込めたまま、ヴェルダンの谷底に澱んだ灰色の海を作っていた。ゲオルグは泥濘(でいねい)の底に背を預け、震える指先で弾倉の中身を確認していた。一、二、三、四、五。指先に触れる真鍮の硬質な滑らかさと、薬莢の底部が刻む五つの冷たい円。その数だけは、混沌とした世界において依然として明快な、彼に残された最後の秩序であった。
しかし、秩序を維持するための計数癖は、今や彼を追い詰めるための鋭利な罠へと変質し始めていた。ゲオルグは、塹壕の縁から僅かに視線を上げ、眼前に広がる光景を数えようと試みた。視界を埋め尽くす砲弾のクレーター、千切れた鉄条網の棘、そして泥の一部と化した名もなき死体の山。それらは「五」という彼の理解の枠組みを無慈悲に踏み倒し、数万、数十万という膨大な質量となって彼を圧殺しようとしていた。
補充兵として送り込まれてくる兵士たちの顔も、もはや個別の人間として数えることはできなかった。彼らはただ、損耗した部品を補填するための無機質な単位として運び込まれ、そして音もなく消えていく。ゲオルグの耳に届くのは、着弾の回数でも叫び声でもなく、ただ世界が磨り潰されていく連続的な地鳴りだけだった。かつて自分の正しさを証明するためにあった「数」が、ヴェルダンの圧倒的な損耗の前では、ただの無力な石礫(いしつぶて)に過ぎないことを彼は知った。
(これは、ただの……)
不意に、その問いが泥の底から湧き上がる気泡のように、脳裏に浮かんだ。名前のつかない、しかし自身の存在の根幹を揺さぶる巨大な空白。役に立つためにここに立ち、手順を遂行し、正しい側にいようと足掻く。その積み重ねが、この巨大な磨砕機に自ら身を投じる行為とどう違うのか。その結論に触れようとした瞬間、知能が恐怖で凍りついた。
ゲオルグの指が、ボルトハンドルに触れたまま硬直した。一秒、あるいは数分。ヴェルダンの時間が、彼の内側でだけ停止したかのように感じられた。かつて彼を突き動かしていた「正義」といった実体のない言葉は、この焼けるような霧の向こう側へと既に霧散していた。意味を見出すための言葉を失い、ただ泥の中に沈み込んでいく自身の身体という事実だけが、そこに残されていた。
しかし、その空白が彼を完全に崩壊させることはなかった。ゲオルグの右手が、主人の意志を待たずに、吸い付くような正確さで動きを再開したからだ。カチリ、という金属音が泥の沈黙を破り、薬室に次弾が送り込まれる。
彼は生きるために銃を握っているのではなかった。ただ、手順が残っていた。次の装填、次の照準、次の排莢。ボルトを戻し、銃床を肩の窪みに叩き込み、空気を細く吐き出しながら引き金を絞る。その一連の動作に、もはや理念の入り込む余地はなかった。彼は自己暗示すら捨て、ただ回ることを止められない歯車のように、無機質な殺意を霧の向こう側へと送り出し続けた。
銃操作は、機械的なまでに洗練されていた。疑念は消えたわけではなく、ただ手順という名の冷たい地層の下に、解決されないまま埋没したに過ぎない。
戦闘の合間に訪れた束の間の停滞の中で、ゲオルグは自らの肉体が発する、別の切実な信号を捉えた。腹の底に、底なしの洞穴が開いたような、鈍く重い痛みが走る。それは恐怖でも後悔でもなく、内臓を直接絞るような、飢餓という名の切迫した要求だった。喉を焼く霧の味に混じって、鉄錆のような唾液が溢れる。体温は奪われ続け、泥に浸かった四肢は、もはや自分のものかどうかも判別がつかないほどに冷え切っていた。
「……腹が、減った」
ゲオルグは、汚れきった手で空の胃袋を強く押さえた。一九一六年の冬が、ヴェルダンの泥を凍らせ、彼らの人格をさらに奥深くへと追い詰めようとしていた。来たるべき一九一七年。それはもはや、理屈や手順だけで耐えられる年ではないことを、彼の身体の震えが予感していた。
彼は震える手で、防水鞄の奥に隠した最後の一片の乾パンをまさぐった。頭上では、白く濁った「霧」が、依然として冷酷に、世界のすべてを覆い隠し続けていた。
自殺でしかない戦争なぞ、もううんざりだ。
私は、殉ずる教えから目を背けたのだ。
寒さはまず、掌とライフルの接点から侵食を始めた。金属が皮膚を吸い、引き剥がそうとするたびに薄皮が裂けるような感覚が走る。割れた唇から漏れる呼吸は、白く固まる前に肺を鋭く削っていった。感覚の消えた指でボルトに触れるが、自分の身体ではないような頼りなさがつきまとう。一、二、三秒。指を動かそうと数えても、神経が鈍く、命令が届くまでに致命的な空白が生まれる。
空腹は、音としてではなく、視界の変調として現れた。正面の泥壁に焦点を合わせようとしても、縁が滲んで二重に重なる。三歩先の弾薬箱が遠のき、判断が一段階ずつ、泥に足を取られるように遅れていった。前線の硝煙よりも、背後から漂うわずかな代用コーヒーの焦げた匂いの方が、胃を鋭利なナイフで抉るように刺激する。口内に湧いた唾液を飲み込むと、空の臓器がひきつるように震えた。
配給の列は、葬列のように静かで、規則的だった。差し出された木製の椀に注がれたのは、灰色の泥水に似たカブラのスープだ。底には、繊維の硬そうな欠片が二つ。配る男の目は石のように動かず、ただ事務的に杓子を動かしている。受け取る動作は軍規通りの手順だったが、そこにはもう、明日を戦うための熱量は一滴も混じっていなかった。
胃が冷たい粥を受け入れるたびに、この器の底にある空虚こそが、国家の現在の姿なのだと身体が理解していく。兵站の数字や勝利の確信といった理屈が、この冷え切った内臓の震えに追い越されていく。
頭の中にはまだ、敵陣を落とすための五つの手順が残っている。弾を込め、狙いを定め、呼吸を止め、引き金を絞る。だが、その手順を遂行するための腕が、鉛のように重い。手順はまだ存在している。しかし、身体がその手順を拒んでいる。このまま前線に戻れば、自分に残されているのは「どう戦うか」ではなく、「どう死に場所を選ぶか」という最後の手順だけだという、鈍い確信が胸の底に居座った。
ゲオルグの視線は、手元にある黒ずんだ銃身を素通りした。その先の、隣の兵士が抱えている薄汚れた布袋に、視界が吸い寄せられる。中にあるはずのパンの屑、あるいは湿った乾パンの影。銃弾の数よりも、その袋の膨らみの方が、今の彼にとっては決定的な意味を持ってしまっていた。
深夜の静寂は、時折遠くで鳴る砲声によって断続的に切り裂かれる。ゲオルグは泥濘に腹をつけ、数分前に放棄されたばかりの敵軍の残壕へと、音もなく滑り込んだ。そこにあるのは勝利の余韻ではなく、死臭と、湿った土の冷気だけだ。彼の目的は陣地の確保ではない。敵の死体が抱え込んでいる、あるいは投げ出された背嚢の中にある「何か」だ。
見張りの兵が背を向けるまでの時間を数える。一、二、三・・・。二十秒。二十秒あれば、あの死体のポケットに手を入れて戻ってこられる。ゲオルグは無意識に、指の節を使って秒数を刻んでいた。呼吸を殺し、白い息が闇に目立たないよう、襟元に顔を埋める。
指先が冷え切った軍服の布地に触れた。内側のポケットを探ると、硬く、不自然に膨らんだ感触が手に伝わる。引き抜いたのは、薄汚れた油紙に包まれた塊だった。指に張り付く油の感触を無視して包みを開くと、そこには茶色く変色した脂の固まりと、湿ってカビの臭いが鼻をつく乾パンが数片入っている。それは決してご馳走ではない。歯を立てれば欠けてしまいそうなほど硬く、口に含めば腐敗した家畜の匂いが広がる、無残な代用品だ。
持ち帰る手順が始まる。袋が擦れる「カサリ」という微かな音や、缶が軍装に触れる金属音が、まるで爆音のように鼓膜を叩く。背後から漂う自分の白い息の匂いですら、見つかるリスクとして彼を追い詰めた。あと十秒、九、八。影まで戻る手順を、心の中で冷徹にカウントダウンする。
ゲオルグの脳裏で、数え癖が対象を変えて動き出す。乾パンの破片が五つ。故郷にいる子どもたちの人数が三人。一人に一つずつ渡して、残りの二つを妻と分ければ、彼自身の分は残らない。一、二、三。指が暗闇の中で、家族の顔を一人ずつ数え上げていく。
奪い終えた直後、激しい胃の痛みがゲオルグを襲った。喉の奥が砂を噛んだように渇き、震える指先が止まらない。法を破ったという倫理的な呵責ではなく、見つかれば殺されるという純粋な恐怖と、それを上回る「手に入れてしまった」という身体の震えが、彼を支配していた。
安全な影まで戻ったところで、ゲオルグは乾パンの破片を口元まで運んだ。だが、その寸前で動きを止める。鼻を突く酸っぱい臭いと、指先に残る死体の冷たさが、彼に咀嚼を許さない。彼はゆっくりと、祈るような手つきで袋の口を閉じた。これは、自分の胃を満たすためのものではない。
彼はその袋を、軍服の最も深い場所へ、誰にも見つからないように隠し持った。
扉を開けると、戦場の泥とは異なる、埃と古びた木の匂いが鼻を突いた。家の中は静まり返り、外気よりは幾分かましだが、それでも空気は痩せている。台所に立つ妻の背中は以前よりも小さく、肩の線が強張っていた。
「戻ったよ」
ゲオルグは声を殺して囁いた。妻が振り返り、目を見開く。その瞳に浮かぶのは歓喜というよりは、鋭い緊張と、次いで訪れる深い呼気だった。彼女は駆け寄ることなく、まず背後の窓の隙間を確かめ、それから音を立てないようにゆっくりと近づいてきた。
ゲオルグは妻の手を取った。指先に触れたのは、かつての滑らかな金ではない。硬く、黒ずんだ、冷淡な鉄の重みだった。指に食い込むような刻印の荒さが、彼の掌にざらりとした感触を残す。妻は何も言わず、ただその鉄の指輪がはめられた手で、ゲオルグの泥に汚れた袖を強く握りしめた。
「子供たちは?」 「寝ているわ」
二人は互いの声を、まるで盗み聞きを恐れる犯罪者のように低く抑えた。ゲオルグは軍服の内側に隠していた、あの重い袋を取り出した。カサリ、と油紙が鳴る。その微かな音が、静まり返った室内では警笛のように響いた。彼はすぐさま扉の鍵が掛かっていることを目で確認し、足音を消してテーブルへと歩み寄る。
帰ってきたというのに、呼吸は浅い。戦場とは違う種類の「休めなさ」が、ゲオルグの肺を圧迫している。だが、この絶え間ない警戒と、法を破るための手順の継続こそが、今自分がここに生きていることの確かな証拠だった。
テーブルの上に、薄汚れた袋が置かれた。中から漂う、微かな脂の匂い。妻はそれを一目見ると、それ以上は何も問わなかった。彼女は手早く、傍らにあった使い古しの布を袋の上に被せ、そのまま音もなく戸棚の奥へと押し込んだ。既にそこにある僅かな貯蔵品と並べて、見えないように位置を整える。
そこには、語られることのない共犯関係が、確かに、そして自然に完成していた。
薄暗い物置の隅、冷えた空気の中にゲオルグと妻、そして幼い息子の三人が集まった。入り口の隙間から差し込む月光が、床に落ちた埃を白く浮き上がらせている。妻は扉の合わせ目に耳を押し当て、戸外の気配を殺すことに全神経を注いでいた。彼女は感傷に浸る暇もなく、時折鋭い視線で周囲を掃き清めるように見回し、少しでも物音がすれば息子の口を掌で覆う準備を整えている。ゲオルグは軍服の奥から、あの油紙の包みを取り出した。
「食べなさい」
ゲオルグの声は、砂を噛むような掠れた響きだった。差し出されたのは、敵陣から奪った、鼻を突くような酸っぱい匂いのする脂の塊と、石のように硬い乾パンの破片だ。息子はそれを小さな手で受け取ったが、指先の泥汚れが食べ物の白さを無惨に汚していく。少年が乾パンを口に運び、無理やり奥歯で噛み砕くたびに、ゴリッ、という鈍い音が静寂を打った。
飲み込む際には喉が大きく波打ち、少年は顔をしかめてから、水のない喉を鳴らして強引に嚥下した。その生々しい生命の律動を、ゲオルグは凝視した。この瞬間に戦場の正義や国家の誇りなど、入り込む余地はない。法を破り、泥棒に成り果てて得たこの僅かな栄養こそが、今この場所で唯一の真実だった。彼の胃と掌には、奪った時の冷たい感触と、それを必要とする現実が重く固定されている。
ゲオルグの中で、何かが決定的に組み替えられた。犠牲になる手順は、もういらない。彼は無意識のうちに、次の戦場での行動を頭の中で再構築し始めていた。無謀な突撃は避ける。毒ガスの漂う窪地には、何があっても足を踏み入れない。弾薬の節約よりも、自らの体力を一目盛りでも温存することを優先する。それらすべては、再びこの暗い残壕へ手を突っ込み、この物置まで戻ってくるための「生存の手順」だった。
妻は息子が食べ終えるのを確認すると、残ったパンの屑を素早く布で拭い取り、自身の懐へと隠した。彼女は泣いてはいなかった。ただ、実務的な手つきで証拠を消し、再びゲオルグの目を真っ直ぐに見つめた。
その時、遠くの街の方から、あるいは補給線の兵士たちの囁きから、奇妙な噂が流れ込んできた。東方、ロシア。あの大帝国で「革命」が起き、制度そのものが内側から崩れ始めたという断片的な情報だ。それは希望というにはあまりに形がなく、ただ既存の秩序が溶解していく速度だけが、現実味を持って伝わってきた。
本来なら夜通し響くはずの、上官の交代を告げる怒声が今夜は聞こえない。上層部からの電文は途絶え、ただ噂だけが野火のように広がっていく。ゲオルグはその溶解する世界の兆しを、冷えた指輪をなぞりながら、ただ静かに聞き届けていた。
空想とは、どこまでも空っぽな想いである、銃弾を込めずにベーメンの地を歩く。
私は、アジアに逃げることにした。ロシア革命はリスクこそあるが、逃げるには最適だ。
どこもかしこも冬である、これは仕方のないことだ。
殉教 伊阪 証 @isakaakasimk14
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