【短編】液状のスライムが弱い訳ないだろ

沢庵へーはち

液状のスライムが弱い訳ないだろ

「ねえ、知ってる? 二つの月と太陽が重なると、良いことが起きるらしいよ」




「ふあ~。……あ、やっべ。寝すぎたな」


雑居ビルのオフィスで机に突っ伏していた男が、口から垂れていたよだれをティッシュで拭いながら起き上がる。

ツーブロックに借り上げたごわついた髪を掻きむしりながら欠伸をする姿は、清潔感よりもだらしなさを引き立てている。

彼は少し汗ばむ気温に嫌気を感じて、白いワイシャツに締めたネクタイを乱暴に緩めた。

首にかけた社員証が揺れる。

そこには過覗 透(すぎうか・とおる)と書かれていた。


「お、AIちゃんは文句も言わずに、ちゃんと仕事してくれたようだね」


透はデスクに置かれたPC画面を眺めながら、独り言ちる。

ワンフロアをパーテーションで区切って作られた事務所には、透以外に誰も居ない。

彼はダンチューバと言われる〈探索者〉兼〈動画配信者〉の情報を専門に発信する、有料コンテンツ管理会社に勤めていた。


「なになに……うん、いつも通りの記事しかないのか」


―― 戦闘民族は存在した!? 海外に日本人の異常性がバレて早10年 ――

―― 新宿への予想来訪者数は25万人 万博越えか? ――

―― 新たな天体ショー 観賞の穴場を一挙公開 ――

―― 202X年度版 ダンチューバ人気ランキング発表!! 氷結の女王、首位奪還なるか!? ――


LLMで集めたネット記事を確認するのを習慣にしてはいるが、ピンとくるものがヒットすることは少ない。

AIの発展と共に消えた職業はいくつもあったが、ジャーナリストはそれには含まれなかった。

取材を基礎とし、生の声を集める存在は代えがたい存在なのだ。


とは言え、情報収集を怠るわけにもいかない。

時には探索者に同行してダンジョンの深層に潜る必要のある危険な仕事の割りには給料が少なく、万年人材不足。

AIはそれを補う、非常にありがたいツールなのだ。


「先輩! 起きたっすか!?」


突然、背後から声がかかる。

危うく絶叫を上げそうになるのを、何とか堪えた。

透はビビリだが、自尊心は一丁前だ。


「……希美か。あんまり騒ぐなよ。お前の声は高いんだよ」


振り向くと、そこには輿多磨 希美(こしたま のぞみ)が居た。

小顔で整った顔立ちに、ハイライトメッシュでショートボブの髪が良く似合っている。

スキルが戦闘系だったなら、人気のダンチューバになれていただろう。

三年後輩になるが、入社時から透には馴れ馴れしい。


「む~。どうせ先輩しか居ないんっすから、先輩が気にしなければ良いだけっすよ」


俺が気にするんだよと透は思うが、声には出さない。

面倒なことになるのは、経験済みである。


「そんなことより、起きたなら飯行きましょうよ!!」


希美が目の前に立ち、話しかけてくる。

その距離は、少し手を出せば触れることが可能なほどに近い。

恋人でもないのにパーソナルスペースに侵犯されるので、透は若干苦手だ。


「アタイ、この前の記事で、めっちゃ新規会員増やしたんっすよ! 祝って欲しいなぁ~寿司食べたいなぁ~」

「おいおい、そういうのは支部長に言えよ。まあ、良いけどな。飯行くか! 回る寿司屋に」

「え~回らない寿司屋が良いっす!! ぶぅ、ぶぅ~」


しかし、距離感がバグっていること以外は後輩として気に入っている透は、希美の昼の誘いに乗ることにした。

昼を意識すると、自然と腹の減りを自覚する。

さっさと、AIのまとめたネット記事の確認を終わらせてしまおう。

透はそう思い、画面をスクロールする。


「まあまあ、10皿だけ奢ってや……ん?」


概要だけ表示された記事を確認していると、ふと目に留まる記事があった。


「なんだ? この記事、誰が書いたやつだ?」


透が情報元を確認しようとすると、希美が割り込む様に画面を覗き込む。


「どしたっすか、先輩? ……へ~、”スライムの研究論文が却下!?研究員が全員クビになった真実”っすか。やっぱ暴露系は面白そうっすね」


肩に置かれた手や、耳にかかる吐息に他意がない事が分かっている透は、この距離感に頭痛を覚えつつ冷静に答える。


「い、今時はその辺にある情報だけじゃ、AIに負けるからな。何処から出た情報か、ってのが重要だな」


しっかりどもってしまった透は、耳に熱が籠るのを感じながらオリジナルのページを閲覧する。

スクロールしながら流し読みを行うと、スライムの生態研究の論文が査読で棄却されたと言った内容だ。

しかも、その内容が禁書扱いとなり、閲覧できないときている。

この上なくキナ臭い内容だ。


「何っすか、服だけ溶かすスライムでも研究してたんですかね? ぷぷっ! 先輩好きそうっすね」


好きですが、何か? と思う透だが、当然声には出さない。

耳をつんつんされているので、遊ばれているのだろう。


「これ……なんか引っかかるんだよな」


後輩のちょっかいを気にしなくなるほど、透はスライムの記事から目が離せなくなっていた。


「え、マジっすか!? 深堀すんの?」

「ああ、ちょっと待ってろ」


透はスマホを取り出し、何処かに連絡する。


ぴろん!


僅かな電子音が、二人しかいないオフィスに響く。


「ッチ! 強欲な奴め……氷結の女王のネタでもくれてやるか」

「ちょっと待ってくださいよ! アレはアタイが貰おうと思ってたやつっすよ」

「しゃーねえだろ。Kunimatuの情報は高いんだ。だが、流石に仕事が早い! もう記事を書いた奴の住所が割れたぞ」


後輩はドン引きしている。

それが、”通信アプリでの少ないやり取りの間に、個人情報が特定されている”ことか、もしくは”次回のトップ記事になりえる情報を躊躇なく売り渡した透の行動”にかはわからない。

だが、透にとってはどちらでも良いことだ。

彼は、ただ気になった記事の詳細を知ることのほうが重要だった。


「よし、高い値段で情報屋から買ったんだ。ありがたいことに、近所だ。今から行くぞ~」

「え~、寿司は? 回らない寿司屋に行く約束でしょ!!」

「そんなのは約束してないぞ。百円寿司だ、バカ!」


ドタドタと慌ただしくオフィスを出ていく二人を、PCのモニターが見つめている。

そこには、先ほどまで見ていた記事が表示されたままだった。

最後に、こう書かれている。


『事実に基づいた研究結果が、理由もなく棄却されたのだ。それが何を意味するかは、賢明な閲覧者であれば分かるだろう。この記事を読んだあなたには、何卒理性的な対応をしていただきたいと、切に願う』







「あれ? これ電源入ってる? ならなくね?」


透は首を傾げた。

支柱に腐食が目立ち、今にも崩れそうな階段を上って直ぐの扉にあるインターホンを押したが、何も反応がない。

情報屋が告げた住所は、新宿の有名大学側にある2階建てのボロアパートだった。

本来都心の一等地だが、このアパートを含め街は閑散とした雰囲気に包まれている。


新宿が栄えていたのは、今は昔。

壁によって隔離され、都市としての価値は暴落している。

ダンジョンの多重発生で、今では別の意味で栄えている。


「お! 先輩、鍵空いてるっすよ」


少し空けて中の音に聞き耳を立てる後輩――希美には、躊躇というモノを感じなかった。


「おま!? ……なんか手慣れてるな」


何処から出したのか、いつの間にか手袋をしている希美にゲンナリする。

だが、透は嗜める様な無粋な事はしない。

彼もまた、ジャーナリストの端くれ。ネタの前には、不法侵入など考慮に値しない。


「うわ、なんすかコレ。キッたな」


希美の非難の声に、何事かと透も部屋を覗き込む。

そこは、1DKの独り暮らしでは困らない程度の狭い空間だった。

玄関横にはキッチンがあり、ダイニングテーブルが置かれている。

シンクには鍋や皿が乱雑に入れられており、テーブル上には空の瓶や缶が転がっている。

仕切りの先にはベッドと戸棚、そしてPCの置かれた机が見える。

そこまでは、一般的な掃除ができない社会人の部屋といった印象だ。

汚い、と言う感想も頷ける。


しかし、圧倒的な差異が、そこにはあった。

部屋を跨ぐように置かれた、巨大なオブジェクト。

センサーの様な機械が取り付けられた、大きな空の水槽だった。

あっけに取られながら、透は部屋に足を踏み入れる。

ジャリ。

ふと、足元に違和感を覚えて下を向く。

フローリングが広がっていると思っていた床は、コンクリートが剥き出しになっていた。

銀色の固い何かを踏んだ様だ。


「ダンジョン……じゃないですよね?」


希美も部屋全体の異常に気が付いたのか、怖気づいて小声になっている。


「いや、ハンターGOでは違うな。モンスターの発生履歴がない」


慣れた手つきで起動したアプリを確認して、透が告げる。

感知したモンスターが発生する時の時空の歪みをリアルタイムで通知するアプリは、今や探索者以外にも必需品だ。


「200ヵ所以上も集中してあるんすよ!こんな怪しい場所、絶対そうですって」


希美は怯えたように、透の背後に隠れる。


「人が住んでるんだから、ダンジョンの訳ないだろ。……まあ、なんか違和感あるし、そう思うのも分からんではない」

「先輩! 敵が出たら盾になってくださいね」

「はあ!? 盾なら希美の”ネットSHOP”で買えばいいだろ」

「いやいや、ちゃんとした奴はバカ高なんすよ。手にする過程がファンタジーでも、支払いは現実なんですぅ! だから、肉壁になってください」


肩越しに会話していた希美がいつの間にか正面に周り、若干前かがみで両手を合わせ『お願いポーズ』をとった。


「俺のスキルじゃ秒で死ぬわ」

「先輩のなんちゃって”サイコメトリー”なら行けますよ」


にしし、と笑いながら透の胸に軽く拳をあてて、希美は部屋の奥にあるPCへと向かう。


「折角住人が居ないなら、データだけ頂いてとんずらしましょ」


限りなくアウトな発言だが、咎める者はこの場にはいない。

周りを見渡しても、本一冊すらないのだから得られる情報は少ない。

透の見立てでは、記事はライター経由の間接的なものではなく、研究者の直接的な暴露と踏んでいた。

ダンジョン研究に人生を捧げた人間の、生の声が聴けると期待していたのだ。


しかも、最弱のスライムだ。子供でも倒せるお手軽魔石製造機だ。

そんなモノに時間をかけている変人が居るかと思えば、ただ水槽が置いてあるだけ。


自分の勘には自信があった透だが、今回はハズレの様だ。

観察用の拠点程度では、大衆の興味を引くようなネタは期待できそうにない。

透は住人の帰宅時に強引に取材することも考えたが、頑張るだけ無駄だと判断した。


「まあ、スキルくらいは使っとくか……ダンジョン様様だな。少しは、損失の補填になってくれよ!」


決して褒めている様な表情ではない――むしろ恨んでいる様な表情で、力を施行する。


世界が変わった。


***


眼鏡をかけた、初老の男性が見える。

いや、老けて見えるのは、疎らにある白髪がある量の少なくなった後頭部の所為かもしれない。

大きな隈が出来、肌は荒れ、髪の毛が削ぎ落ちるのを気にせずヒステリックに頭を掻く姿は、狂気に満ちていた。

苛立ちを表す様に右足で床の畳を踏みつけながら、手に持つボードに何かを一心不乱に書き連ねている。

いつも同じ場所に立ち、いつも同じように踏みつけていたのであろう。

積み上げてある資料や本が崩れて部屋中に散乱しているにも関わらず、その部分には一切なく畳が凹んでいるのが伺える。

彼の表情は、恐怖に塗りつぶされていたが、何故か歓喜に満ちているように感じた。


***


目の前には、何かが入っていた空の水槽がある。


「え? 俺はサイコメトリーで昨日の記憶を見たハズだよな?」


戻った世界で、透は混乱していた。

透のスキルは、触った物体の大体一日前の記憶が見える能力だ。

見えたのは、この部屋で間違いない。

だが、異常な違和感がある。

いや、理由は分かっているが、それを脳が理解することを拒んでいる。


「パスワード突破したっすよ、先輩」


希美がチェーンの付いたUSBメモリを指でクルクルしながら、能天気な声を上げる。


「ここの住人頭おかしいっすね。何でこの椅子骨組みしかないんでしょ? カッコいいとか思ってたり? きも!?」


声の方を見れば、鉄板剥き出しのパイプ椅子を指さす彼女が見える。

その先には同じように骨組みのベッドがあり、その上にはスプリングが落ちている。


(この部屋に入った時は、普通のベッドじゃなかったか?)


そんな考えが過ると、嫌な汗が止まらない。

少し後ずさると、透は足に何かが当たったことに気が付く。

恐る恐る下を向くと、そこには罅の入った眼鏡が落ちていた。


咄嗟に後輩の手を引き、部屋を飛び出る。

彼は落ちていた眼鏡にスキルを使う、と言う選択肢を選ぶことは出来なかった。







―― スライムは分子レベルでの超ミクロモンスターであり、コアは擬態でしかない。


「液状の体を維持しているのはコアの力で、破壊すれば魔石やドロップ品を落とすのは常識だ」


あの日、希美が抜き出したPCデータの中から、禁書扱いになった論文データが発見された。

その内容はにわかには信じがたい内容が書かれており、もし本当なら話題作りにもってこいだ。

今時ネットで少し調べれば、いくらでも情報がある。透は自ら検索エンジンを操作する。


―― スライムは群性体であり、コアが破壊されても消化機能が残っている。


「動画配信でスライム風呂に入っているんだ。実際入って溶かされてないなら、間違いだろ」


バズる事無く消えた配信者が、最後に起死回生の企画として上げている動画を確認する。

配信者が溶かされる事なく、ピンピンしている。

透もリアルな内容に、納得する。


―― 無機物は溶かせないが有機物は溶かせる。


ドロップ品の『スライム液』は、ペットボトルに入れても大丈夫だ。

生物以外は溶かせない。服を溶かすスライムはエロゲの中だけだ。

夢が無いと、透は落胆する。


―― スライムは取り込む体積と同等の複製体を生成する。


「捕食グロ動画見ても、サイズなんて変わってないじゃないか。常識的に考えろよ」


括りつけた動物を餌にするとは、なんと残酷な行為だと非難したいが、映像は真実を映し出す。

不快な気分が、逆に透を満足させる。


―― 群性体はニューロン構造を模擬して、サイズによっては学習や推論すら行う。


「バクテリアより頭が悪いスライムに何を言っているんだ?」


掲示板の最良回答に、スライムは迷路を解けないと書かれている。

やはり、自ら調べるのが一番だ。

何故なら、こんなにも納得できる情報が簡単に集まった。


「”東ダン研連の練研”は糞だって有名だって話だし……考えるだけ無駄だ」


AIにも調べさせるかと一瞬思うが、透は頭を振る。


「納得の情報が集まったんだ。もう、いいだろ。手痛い出費だったし希美も巻き込んじまったが、おしまいだな」


気持ちを切り替えて、動画配信サービスを立ち上げる。

イケると思ったネタが外れなことは、今までも沢山あった。

失敗程度で、くよくよしている場合ではないのだと、透は気持ちを改める。


「さて、リリーちゃんの配信でも見て、嫌なことは忘れるか!」

「…………!! ………………!」

「……ん? なんか、外が五月蠅いな」


建付けの悪い雑居ビルとは言え、外の喧騒が聞こえるのは珍しい。

何事かと、透は窓際に移動して街を見下ろす。


そこには、街中に広がる数多の人、人、人。

普段はダンジョンから発生するモンスターを恐れて、一般人は立ち寄らない閑散とした街だ。

昔からこの街に住んでいる透ですら、仕事場が違えば出て行ったと確信するくらい危険な場所。

そんな街が、夏の海水浴場の方がマシなくらいに人で埋まっている。


「……ああ! 今日はグランドクロスか」


グランドクロス。

ダンジョン発生と共に、その傍でしか観測できない謎の第二の月が現れた。

その月が日蝕に重なる時、それを見たものはスキルを授かると言う。

誰が言いだしたか分からないが、その現象はグランドクロスと呼ばれた。


化け物扱いしたスキルを得たい、手のひらを返した大衆が押し寄せているのだ。


「まあ、関係ないし、ライブ配信の方が重要だ」


透はもう一度観ているので、スキルは手に入らない。

情報として何度も見ていたが、自分に無関係だと意識に上がりにくい。

しかも、昨日から泊まり込みで検証していた所為で、前日入りの集団すら見ていない。

世界的に注目されている天体ショーを忘れるのも、無理はなかった。

もしくは、彼の中でそれどころではない警鐘が鳴っていたからかもしれない。


「なんだ、リリーちゃんも新宿に……来ているのか……生で見れるか……ああ、限界」


警鐘を無視して、安心できる情報が手に入ったことで気が緩んだのか、透は夢の中に沈んでいった。



「ふあ~。……あ、やっべ。寝すぎたな」


静寂に包まれたオフィスで、透は目覚めた。

お気に入りのダンチューバ配信を見ていたはずだが、もう終わってしまったのか音声は出ていない。

時間を確認する透は、ちょっとした違和感を覚えた。


「あれ? グランドクロス始まってなくね?」


寝る前に聞こえていた外の喧騒が嘘のように静まり、普段の何でもない日常と変わらない。

通信アプリを見れば、いつも通りの希美からの連絡。


『人混みサイアクっす でも、もう直ぐ着きますよ』


そんな書き込みの後に、”奢って”と言うスタンプが付いている。

『気を付けろよ』と書き込むが、既読が付く様子はない。


ガシャン!


突然の音が静寂の世界を切り裂いた。

窓の様な大きなガラスが、割れる音。

透にとって忌まわしい、世界が変わった日を思い出す音だ。

異音と共に聞こえてくる悲鳴――それが始まりの合図だった。

だが……何かがおかしい。再度訪れた静寂に、透は疑問に思う。


急いで窓から顔を出し、街の様子を伺う。


「……誰も居ない」


そこには、見知らぬ街が広がっていた。

ビルから見える道路には、人っ子一人居ない。

寝る前に居た、数えるのも億劫になる程の群衆が誰一人として存在していない。

それだけなら、透にとって見慣れた街が広がるはずだった。


だが、そこには日常の風景は存在していない。


消えた街路樹が街の印象を大きく変え、無数の小さな浮遊物がノイズとなって異常性を伝えた。

よく見れば、水よりも透明度の高い何かに街が満たされているようだ。

表面が不思議な玉虫色で波打つように揺らがなければ、気が付くこともなかった程だ。


「何が浮いているんだ?」


透は少しでも情報を手に入れるために、目を凝らす。

そして、認識する。


浮いていたのは、”スマホ”だ。

無数のスマホが透明な何かの中を漂っている。

他にも眼鏡、硬貨、時計、指輪、数多の物が浮かんでいる。


「……!!」


理解を拒んでいた透の脳が動き出した。

絶叫しそうになり、慌てて両手で口を押えこむ。


配信を見ていたPC画面を確認すると、傾いたアングルの街の映像と凄い勢いで流れているコメント欄が目に入ってくる。

その内容は、配信者リリーの安否を心配するものと、「逃げろ」の文字。


一心不乱にエレベーターホールまで駆け抜け、下降ボタンを連打する。

だが、表示される階数は『F』から変わる気配がない。


「くそ、壊れたか? そうだ、非常階段!」


普段開けることの無い防火扉を潜り、階段を駆け下りる。

密閉された空間で、やたらと足音が響くのを不快に感じていた。


「何なんだ。何が起こっているんだ!」


何でもない日常が、今後も続くと思っていた。

下らない記事でお金を貰い、気の置けない後輩と一緒に年を取っていく。

劇的な変化なんて、人生で一度あれば十分。


「程よい刺激で良かったのに! 何でこんな事に!!」


透は叶わない自分の願いを嘆きながら階段を下っていたが、下の踊り場に人影を見つけ足を止める。


「良かった、人が居た! すみません!! いったい……なにが……起こって」


下層に居る人影にかけた言葉は次第に力を失い、途中で止まってしまった。

誰が居たのか、分かったからだ。

透は希美を見ていた。

下層に居たのは、後輩の『輿多磨 希美』だ。


彼女は、無表情で透を見ている。

彼女は、静かに浮いていた。

まるで、助けを求めるかのように此方に手を向けている。

デートに行くような気合の入った可愛らしい服装は、彼女に良く似合っている。

あの日、寿司に行けなかった埋め合わせに、今日行こうと約束していたのだ。

お互いに今日のイベントを忘れていたから、結局は行けなかっただろう。


彼女の服が泡のように消えていき、素肌が露になっていく。

下着すらも消えた頃には、奇麗なショートボブだった髪の毛も無くなり、肌は変色し始めた。


透は弾けるように踵を返し、階段を駆け上がる。

心臓が鼓動で破裂しそうでも、太ももが焼ける様な熱を帯びても、止まることはない。

屋上まで駆け上り、幸いにも鍵の掛かっていなかった扉から外に出る。


空にはオーロラがかかり、幻想的な皆既日食が行われていた。

透にあの日の記憶が蘇る。

街に溢れたモンスターから逃げ惑う人々が、鮮明に脳裏に浮かんだ。

透は屋上の端にある手すりまで移動して、街を見下ろす。


「はは、良かった、助かった! 何もない、居なくなったんだ」


街に広がっていた何かは、もう見つけられない。


「ここまで上がれば大丈夫だろ。この高さまで満たす液体なんて、何リットル必要だって話だ」


新宿は壁に覆われているので、満たすこと自体は可能だろう。

だが、いくら無限に湧いてくるモンスターとは言え、”人をダメにするクッション”程度のサイズしかない。


「ダンジョンで倒したモンスターは消えるって言うけど……まさかな」


透は恐ろしい考えを思い浮かべたが、そんな事は無いと否定する。

新宿が200を超えるダンジョンを内包して、万を超える探索者の生計を支えるくらいの特区である事実に目をつむる。

昔より減ったとは言え、透の様に住む場所を変えなかった人は多い。

そして、スキル習得の欲望に駆られて集まった数多の人。

有機物、それこそ『土』ですら取り込んで体積を増やす特性。

頭に過ったすべての思考に蓋をして、心の平穏に費やす。


ガシャン!

「うわあああぁぁぁぁぁ…………!!」


対面のビルの窓が割れて、何かが落下する。

そして、それを追うかのように液体が漏れ出てくる。

しかし、その液体は重力に逆らい、ゼリーの様に地面まで落ちることなく耐えている。


「そ、そんな。助かったんじゃ……」


***


夕日で空がほんのり赤く色付いている。

『先輩……いいえ、透さん。今度、ボーナスが入ったらこんな仕事辞めて、田舎に移住しましょ! もう、アタイ達がこんな場所で頑張る必要ないよ。透さんとなら、アタイ……』

彼女の顔が赤くなっていたのは、夕日のせいかそれとも――


***


恐れおののき、掴んでいた手すりを離し、後ろに一歩下がる。




ピシャリ。




液体を踏む音が響いた。




―― おしまい ――

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