未知幸也

石衣くもん

いまだしらずはしあわせなり

「お前は幸せそうだよな」


 つい、口から漏れた言葉は、呆れとか、妬みとか、そういう負の感情の匂いが強かったから、慌てて「そういうところが好きなんだけど」と誤魔化した。まさか、カフェでデート中の恋人に向かって、こんなことを言ってしまうほど、自分に余裕がないとは思っていなかった。


「うん、幸せ~」


 細めた目も、それによって寄った目尻の皺も、本当に幸せそうで安堵した。なんとか、こちらの意地の悪い思惑は伝わらなかったということだろう。


「幸也はどんな時が幸せ?」

「んー? ……今、幸せだよ」


 そっと、テーブルに置かれた彼女の手に自分の手を重ねて微笑めば、彼女、早智は「きゃっ」と言って、両手を頬に添えるぶりっこポーズをお見舞いしてきた。


「ねえ、幸也。私がさぁ、どうしてさっき幸せそうだったか、幸也はわかる?」

「なんでだろ」


 早智は「どうしよ、もう言っちゃおうかなぁ」と少し勿体振った様子で、スマホを取り出し、俺に画面を見せてきた。


「……え?」

「この幸也、幸せそうだよねぇ」


 まだ、この後どうなるか、知らないから。

 早智がそう言って見せてきたのは、マッチングアプリで知り合った女とホテルに入る俺の写真だった。


「すごいよね、幸也。私のコネでパパの会社に就職して、それなりの待遇を受けておきながら、それをこんなことで不意にしちゃうんだもん。残念だけど、これパパが集めた幸也の浮気の証拠だから、パパには言わないでって言われても聞けないからね」

「早智、ちょっと待って」

「私、初めてなんだ。誰かに裏切られたって知るの」


 早智は、いつも通りのお嬢様らしいフワフワした喋り方のまま、刺々しい内容を続けた。


「ほら、私のパパって過保護でしょ? だから、私が傷つけられたり、裏切られたりしたことを知ったら、可哀想だからって、小さい頃からずっと、私に気付かれないように処理してきてくれたみたいなの。私に意地悪しようとした子がいたら、私に意地悪する前に転校させてたみたいだし、付き合った人のことは徹底的に調べて、変なところがあったら別れるように仕向けてたみたいだし、あ、勿論私が傷つかず、気がつかずに終わるようにね。それなのに、なんで私がそれを知ってるかって? うーん、内緒! とにかく、パパは幸也が浮気してることは知ってるけど、まだ、私が幸也の浮気を知ってることは知らないの。私が知ってるってわかったら、パパが何するかわかんないから、幸也も内緒にしてね」

「あ、え? うん……」


 追い付かない頭のまま、とりあえず頷くと、早智は嬉しそうに「よかったあ」と笑った。彼女の本意が見えず、まるで未知の生き物と遭遇したかのように、俺の頭はパニクっていた。俺は彼女に許してもらえるのか? それとも、彼女が知らないまま、社長に別れさせられた方が良かったのか?

 早智はそんな俺を気にすることなく、何でもないことのように


「じゃあ、これでお別れだね、バイバイ幸也」


と言った。彼女に縋りつくことができるのは恐らくこれが最後だと、席を立とうとした早智の手を掴み


「待ってくれ!」


と、カフェの店内ということも忘れ、大声で叫んだ。


「ごめん、申し訳ございません! か、軽い気持ちだった、いや遊びだったんだ! 俺、早智を大切にしなきゃと思ってて、いや、早智には、その、あの」

「幸也、お店にご迷惑だから」


 困ったように眉を下げて、早智は手を離すように促したが、ここで引き下がるわけにはいかない。


「早智が羨ましかったんだ! 俺、いつも早智が幸せそうで、何の苦労もしてないんだろうなって、思って、いや、それは早智が悪いとかじゃないんだけど、でも」

「幸也」


 早智は困り顔のまま笑って


「私、自分が知らなかったことを知れて嬉しかったの。幸也に裏切られてたのは悲しかったけど、そのことを知らないままお別れするより、知ってお別れする方が良かったと思ってるの。だから幸也には感謝もしてる。だから、パパには内緒で、穏便にお別れしたいと思ったの。でもね」


 今も、パパのお友だちが、私たちのこと、見てると思う。


 早智の噛んで含めるような言葉が、冷や水を浴びせたかのように体温を奪っていく。


「ごめんね。あんなに大きい声で、あんなこと言っちゃったら、もう私もどうにもできないよ。ごめんね」


 力が抜けて、早智の手を離してしまった。彼女は気の毒そうな表情を一瞬見せて、そのまま行ってしまった。

 途端に、周りが敵だらけのように思えて恐ろしくなった。


 俺は、これからどうなってしまうのか。未だ、知らない方が幸せに違いなかった。

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未知幸也 石衣くもん @sekikumon

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