味覚を失った料理人が、不器用な夫と『普通』を食べるまで ~神様のいたずらなんて捨てて、再生のカレーをもう一度~
白石とな
第1話 不確かな音と、確かな矜持――書き入れ時の年末、料理人は耳の手術を迫られた
急に、左耳が詰まった。
―――またか。
長年付き合ってきた耳の不調。普段なら、水に潜ったようなその籠もった音は、数分もすれば治るはずだった。
医師は小さく、けれど重いため息を吐いた。
「一応、検査しときましょうか」
言葉に隠された「またか」という嘲笑。背筋を伝う悪意。
町医者で突発性難聴の診断を受け、夫、
だがそのせいで、私は迷惑な患者だと、思われている。
ところが検査を終えて戻ると、医師の態度は一変していた。
どうにも気まずそうに、難解な言葉で説明されるも、くぐもった音は、言葉をいつも通りに理解させてはくれない。
聞いたこともない病名。
だが、要するに「耳垢が異常に増える中耳炎」だという。
なんだ。ただの耳垢か。
そうすると次は一気に現実に引き戻される。もう午後の一時を過ぎているのだ。
このままでは仕込みに間に合わない。
すぐにCTをと言われ、たかだか中耳炎に大袈裟だなと苛立ちのまま診察室に戻る。
「手術です。最短で二週間後、今日日程を決めてください」
「無理ですよ。繁忙期なんです」
拒絶する私の言葉を遮るように、医師の指がモニターを指さした。
「見てください。脳を隔てる骨が溶けて、顔面神経が剥き出しなんです。放置すれば顔の半分が動かなくなります。とにかく看護師と日程相談してください」
診察室を出て待合に戻ると、私は
「年末やで?今入院とかありえへん。借金返すには、今しかないんよ。」
今休む訳にはいかない。
「仕事は大事やけど病気やからしゃあないやん」
陽直は宥めようとするが私は引く気は無い。
「一月中旬入ったら暇になる。たった二か月遅らすだけやろ」
だけど
「お前が予約断るん嫌やったら僕お母さんとやるて。僕の事信用できんか?」
できるわけないだろ!
「嫌。私がおらんと絶対回らん。」
「僕お前の分の仕込みもするて。出汁も僕がひく。」
私の味が出せる訳ない。
けど私より味覚の鈍い彼にそれを解いても無駄だ。
「無理や。手ぇ足らん。時間的に無理。」
この人は時間配分が苦手だ。その場の気分で軽々しく約束をして、そんな計画性の無さでこの人に店なんか回せる訳ない。
「体が悪い時は妥協せなあかん」
私は反論しかけて一旦深呼吸する。
この人は帰ってから言いくるめるとして、とにかく今は支払いだけ済ませて来年診察に来よう。
看護師が来て私の説得を始める。
「今日は仕事忙しいんで、家で決めてから明日電話入れますよ。」
看護師は二人に増えた。
「いやだから。仕事の調整してから連絡しますって。」
現れた三人目の看護師に私は言った。
「お願いやからいい加減帰らせて下さい!この後仕事あるんですって!」
暇か!君らしつこすぎるぞ!
今更二か月放置して顔面神経逝くとかそんな訳あるか!
「旦那さんも何とか言って下さい。」
「
このままじゃ仕込みに間に合わない。自分も携帯を出してカレンダーで予約の日程を確認する。
「入院は最短で一週間か。仕事復帰はどのぐらいかかります?」
「それはまだ分かりません。」
私は舌打ちしそうになる。彼女らは絶対に不確かな事を言わない。クレームが怖いのだ。だが正確な日程が分からないと予定が立てられないじゃないか。
「ここにしよ。最短。」
支払いを終えて私は
「迷惑かけん様に早めにキャンセルせな。その枠で助かる人が居る。」
「お前、アホやろ。」
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