No/oNe

紫陽_凛

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 目覚める直前まで何かに苦しめられていたような気がする。

 私はまっしろな床の上であぐらをかき、だ手の指に残る非道ひどい痛みの名残をそっと握りしめる。

 ぎゃくに、私のもとに残されているのはその「痛み」のみだった。他の一切は抜け落ちていた。すなわち私が社会的に何者であるか、名は何か、さらにここはどこか、といった重要なことごとの一切が私の手元に無かった。私は何よりさきに途方に暮れた。そして辺りを見回した。

 純白の天蓋があり、同じくらい純白の四隅があった。中央からは、絶えず砂か光のように白い粒がこぼれて三角の山を作っている。私は四隅、ある隅へ目を向けた。そこには光の全てを吸い込んでいきそうな漆黒の立方体が鎮座しており、掌より少し大きいくらいの陰をつくっていた。

 私は立方体――これを仮に「闇」と呼ぶ――を覗き込んだ。艶のないマットな質感で、触れるとと冷たい。目覚める直前まで痛みを抱えていただろう私の指先に、闇はしっくりとなじんだ。持ち上げると見かけより重たい。

 それでも真っ白な世界を見ているよりこの闇を覗き込んでいるときの方が、心持ち楽で居られたので、私は隅から闇をとりあげて、膝の上に載せた。そうして、こわばっていた肩の力を抜いた。


 その時、闇に触れている指先からじんわりと思念がしみてきた。

被検体subject、ようやく目覚めましたか』

 私は驚き、しかし指だけは闇に触れたままにして、あちこちを見回し、砂が降ってくる天井や四隅を見渡したあと、再び闇を見下ろした。耳には、砂の滑り落ちる音がまだ鮮明に聞こえていた。

『被検体。あなたは実験のさなかに気を失っていたのです。体調に不調がないのであれば、このまま実験を続けます。いいですね』

 闇は艶やかな女の声をしていた。私はわけがわからないなりに頷いた。

 その実験とやらが、そんな直感が背筋を駆けていったからだ。しかし、この「闇」には訊いておかなければならないことがある。

「あの、ぅ」

 ……私の声は男のように低かった。

「実験とは、なにを、すれば、いいんでしょうか……?」

 私は慣れない声でたどたどしく説明をした。苦しかったことは覚えているが、自分の一切の記憶が無いこと、名前も社会的地位も、全てを失ってしまったこと。そして実験の内容が全く分からないこと、など。

 しかし、闇は淡々と答えた。

『それでよいのです。それでも全ての条件は揃っています。あなたはただ、あの積もるを排雪すればよいだけなので』

「排雪?」

 私は山になっている白砂の方をみた。

『ええ。あの雪はやがてあなたの居住空間を圧迫するでしょう。あなたは生存するためにそれを排雪します。あらゆる方法を使ってください。必要であれば仰ってください。再現できる限り再現します』

 闇はそれきり黙った。私がそれから何をたずねても、闇から声はしなかった。




 数時間経つと、闇の言っていたことが理解できるようになった。一点からこぼれていた白い砂、雪は、天井全体から舞い落ちるようになった。同時に非道く寒くなり、私はがたがたとふるえ、歯の根も合わなくなってしまった。私は闇に対して、コートと手袋をくれ、と願った。

 灰色のコートと赤い手袋が音もなく落ちてくる。私はそれを身に纏い、次に竹箒をくれ、と願った。出現した竹箒を使い、乱暴に雪を隅に押しつけていく。

 雪はいっそう激しくなり、天井からではなく、壁から斜めに降り注ぐようになった。おそろしくつめたい風が吹いた。私は風よけのテントが欲しいと願ったが、それは却下されたらしい。何も出てこなかった。代わりに、ニットの青い帽子が降ってきた。

 私はあらゆる方法を考え、つどそれを願ったが、どうやら衣服や道具以外のものは出現しない法則になっているらしい。また熱源になるような道具も出現しないようだ。そこで私はこの実験の目的を「雪を生存のために使って何時間生き残ることが出来るか」と仮定した。実験目的が分かれば、自ずと正解らしいものも導き出せる。

 ひたすら、凍えないように動き続けるほかなかった。吹雪と呼ぶしかない場面もあり、私は箒を握りしめ、雪に埋もれながらもうろうとした。雪は冷たかったが、自然界のそれとちがって溶けないのだった。溶けずに残る雪で四角形の部屋は足首までが埋まっている。

 あるのは雪だけだ。願っても出してもらえるものは限られているらしい。

 私は少し考えて、隅に掃き集めた雪をひといきに山にすると、山にしたそれを掘って、人一人入れる程度の小さな穴蔵をつくった。そして、その中に無理矢理身体をおしこめてみた。これが意外と温かかった。快適だ。もう少し雪があれば、もっと大きな穴蔵に出来るだろう。

 穴蔵の中、闇を再び膝の上に載せて暖をとった。闇はほの温かく、この極寒の環境においては、手を温めるのに最適だ。

 私は闇に一人話しかけた。


「まさか、この実験、命まではとらないでしょう?」


 闇は答えなかった。聞こえているのかどうかさえ怪しかった。


 眠ったら凍死する可能性も視野に、私は降り積もる雪を穴蔵の方へかき寄せ続けた。そしてさらに大きな穴蔵にするために、自分の居所を補強するかのように手をつかった。

 生きるためだけにこの身体は動き、そして同時に、動くために生きていた。最終的にどちらか決めろと言われても、今の私には決定的な決定を下すことが出来なかった。動くために生きるのか生きるために動くのか。それは非道く哲学的なようで根本的な問いのように思えた。

 雪は優しい暴力だった。白く清く美しく思えるが、私の身体を凍えさせ、疲弊させ、そして残酷までに吹き付けた。穴蔵がなかったら私の心は早い段階で悲鳴をあげ、闇の言うところの実験は終わってしまっただろう。

 一層大きくなった雪の穴蔵は、横たわって毛布をかぶれる程だった。私は雪が積もるのを待つために横になった。そうしてどっと疲れた身体から力を抜くと、私はふと大きな疑問にぶち当たった。


「……こんな思いをしてまで実験を続ける理由があるのだろうか?」


 口にはしなかったがその疑念は私の頭の中を埋め尽くしてと鳴った。無音の世界には煩いほどだった。

 しかし私はその声を静かに殺した。

 実験は続けなければならない。

 喩え自分が実験の被検体ラットだとしてもだ。


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