水ヰ嶌県に魅せられて。

曇り消しカリジクト

逃避(プロローグ)

 都会の夕日は風景との対比が美しい。その感情が湧き出たとき、しかし私の目は夕日が都市の煌めきを存分に反射することによる美しさというより、都市そのものが太陽の紅き色彩を吸収することによってきらきら輝く美しさの方に向いている。


 いわば、都会によって象られた風景画を眺める時に美的だと感じる対象の割合が、自然対都市で五分五分、もしくは三分七分ほどに分割されてしまっているのであり、それは自然の純粋な美しさというものをなかなかに感受できないことになる。それは本当に虚しい。


 散歩をするために外へ出かけると、そこかしこに点在する空漠とした灰色の風が私の身体をずうっと包み続けていることに気づく。自然無き虚しさと、事物や精神の全てを吸収していく都会に対しての嫌悪感が、いつの間にか私に閉塞をもたらしてしまったためであろうか。


 散歩の途中、前を歩いていた男が折り畳み傘を落とした。正直見て見ぬふりをしてもよかったのだが、私の良心というものは純粋なもので、見過ごしたままでいると容赦ない暴言を携えた叱責を私にぶつけてくるのだ。それが本当に嫌であったために、とりあえず拾って届けることにした。


 私の優しさを受け取った男。一見したところ大学生であろうか。驚いたことに、彼は、それを受け取るなり私を睨んだ。まるで「どうして俺の領域に踏み込む?俺がこんなに気持ちよく歩いているってのに。おれは、貴族なんだぞ。敬うべき、貴族なんだぞ。」と言っているかのように、嫌悪を隠せていない睨みを効かせてきたのだ。


 どうやら、閉塞というものは私だけに起こっているわけではないようだ。別の散歩道では、急な階段をベビーカーを持ち上げて下る女の横を素通りする無数の人間がいた。余裕という単語は、都会の持つ焦燥に全て刈り取られてしまったのだろうか。ぼんやりふらふらと漂う人間を眺めていたら、気づかぬ間にそんな意味を含めた溜息が漏れていた。


 いったいいつから、こんなにも美しくない都市に浮かぶ夕日と、それに照らされたビル群の塊を”美しい景色だ...”などと思うようになってしまったのだろう?それだけじゃない。たとえそれが美しいとしても...何が悲しくて、閉塞に追い立てられながら鑑賞をする必要がある?


 どうせ生きているなら、せめてもう少し混じり気のない美しさに浸って私の真後ろをじっとつける憂鬱から逃れてみたい。それが、私に旅の予約サイトを開かせ、人気スポットランキングに書いてあった「水ヰ嶌県みずいしまけん」という全く名前のみしか聞いたことのない県に直通する鉄道を予約させ、そして財布と手帳とペン以外は何も持たずにその足を最寄りの駅に向かわせた動機となる強烈な渇望であった。

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