第8話 逆方向の使者

 公爵令嬢の部屋を出た王太子の使者は、足早に歩く。


 ――ミサラサ王太子の私室とは、逆方向。


 曲がり角をいくつか越え、控えの間を抜ける。

 ようやく、人目の少ない扉の前に辿り着いた。


 軽く周囲を確かめてから、控えめに叩く。


「……入りなさい」


 低く、落ち着いた声。


 使者は扉を開け、中へ入る。


 机の上には、書類が整然と積まれ、無駄な装飾はない。


 向こうに座るは、ライカイ侯爵。王妃の弟であり、王太子の叔父。

 書簡から目を離さぬまま、口を開いた。


「どうだった」


 短い問い。

 結果だけを求める声だった。


 使者は一礼し、簡潔に答える。


「ミサラサ様は、メイリーン嬢お一人での面会を求めましたが、拒否されました。

謝罪や釈明もない現状では、今後の話し合いにも応じないとのことです」


 侯爵は、ペンを止めない。


「ほう」


 それだけだった。


 使者は続ける。


「王太子殿下の使者としての立場も通じず、護衛役が前に出て、圧をかけてきました。

……手紙のみ、残してきております」


「そうか」


 侯爵は、ようやく顔を上げた。


 表情に深い感情はなく、状況を淡々と秤にかける目だった。


「……王太子は、最近どうだ」


「苛立っておられます」


 即答。


「だろうな」


 侯爵は、小さく息を吐く。


 机の上の書類を一枚、脇へ寄せた。

 そこには、公爵家に関する報告がまとめられている。


「侍女は、あの娘。……オデットだな。公爵令嬢の信頼を得ているか?」


「はい。常に側に置かれている様子です」


「……使ってやるか」


 侯爵はそう言って、指先で机を軽く叩いた。


「足元から、切り崩す」


 判断は、すでに終わった。


 手元のメモに、ペンを走らせる。


「……これを、公爵令嬢でなく、侍女へ渡るよう手配しろ。

あの娘は――逆らえない立場だ。

あとは、王太子の下に戻れ。表向きは、な」


「は」


 使者は踵を返し、部屋を出た。


◇◇◇


 一方、その頃。


 東宮の控室では、穏やかな時間が流れていた。


 テーブルの上には、読みかけの本と、紅茶。


 メイリーンはページをめくりながら、ふと視線を上げた。


 瞬間、ココアベージュの髪が、灯りを受けたように、わずかに揺れる。

 彼女の瞳の奥で、微かな魔力の残光が弾ける。


「……今、つながったわね」


 誰にともなく。


 オデットは、本棚の前で首を傾げ、

 一瞬だけ、メイリーンの手元――その指先に、視線を落とした。


「……何かありましたか?」


 そう言いながら、答えを半分ほどは、予想している顔だった。


「東宮に入れて、分かることが増えたわ。

 外からだと、探知も遠いから、ね」


 メイリーンは、再び本に視線を落とす。


 その指先は、落ち着いていた。


 ――まだ、誰も気づいていない。


 それでいい。

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