逃亡勇者、魔王になる

ねさかなこ

プロローグ

 赤く湿った地面の上に転がる肉片。腹を抑えてうずくまった勇者の視界の端に落ちているのは、つい先程まで生きていた魔物の手。その鋭いつめ先は勇者の血で赤く濡れ光っている。


 勇者が負傷するのは、ずいぶんと久しぶりのことだった。勇者は戦闘に手慣れているし、戦いの経験も長い。それに、先代の従者が死んでからは今まで以上に負傷に気をつけて戦っていた。

 ――それなのに、油断した。久しぶりに感じる強い痛み。傷ついた腹に手を触れると、熱い血液でぬるりとした。


暗夜あんや様……!」


 背後から、長身の従者が駆け寄ってくる足音が聞こえる。それに重なって聞こえるのは、心の奥底に染み付いて離れない、いつかの声。


『なぁ、暗夜』


 幻聴が聞こえる。それがまぼろしであることは、勇者――暗夜だって理解している。それでも、どうしても、そのまぼろしに心を支配されてしまう。負傷すると、いつもこの声が聞こえる。


「キーナ……」


 暗夜の喉からこぼれるのは、かすれきった小さな声。

 ぬるい風が吹いて、暗夜の引きつって震える頬を撫でた。暗夜のぼやけた視界の中に滑り込んでくる、従者の茶色い頭。


「暗夜様、大丈夫ですか? 傷、見せてください」


 小柄な暗夜よりも二回りほど大きな手で、肩を叩かれた。脳裏をよぎるあのとき・・・・の光景。思わずその手を振り払って、暗夜は跳ねるような勢いで立ち上がった。


「やめろ! 大丈夫だから、見なくていい! 手当は自分でできるから」


 怒鳴るような勢いでそう言ってから従者テトラを見ると、テトラは茶色い目を丸く開いて驚いた顔をしていた。はぁ、と息を吐いて、頭を掻きながら一歩、こちらに歩み寄ってくる。


「変な意地張らないでください。あとになったら大変でしょうが」


 暗夜の顔に、テトラの長身が作った影が落ちる。――心臓が鳴る。遠くに聞こえるテトラの声に重なって、幻聴が聞こえる。


「ほら、早く見せてください。血が出てんだからかすり傷じゃないですよね? ちゃんと手当てしないと」

『あぁ、暗夜、おまえ馬鹿だなぁ』


 ――腹にできた傷口が熱い。痛みを通り越した熱が、暗夜を苛む。顔に落ちた影が、暗夜に幻覚を見せる。


 歪んだ笑顔を浮かべる、金髪の男。溶けた欲望を孕んで曲がった金色の瞳。暗夜の脳内から消えてくれないキーナが、暗夜の傷口に触れる。


「暗夜様、大丈夫ですか?」

『なぁ、もういいよな』


 傷口が痛い。熱い。胸が苦しい。死にたくない。裏切られた。どうして? ずっと信じていたのに。思い出したくないさまざまな感情が、暗夜の胸中を蝕んで駆ける。


「暗夜様?」

『暗夜、おまえの腹の中、もっと見せてくれよ』


 声が聞こえる。胸を抑えてうずくまった暗夜は、地面に落ちていた剣を拾った。傷口に近づいてきた誰か・・の手を叩き払って、現実と幻覚が混ざって見える目で眼前の男を見つめる。


「触るな!」


 抜き身の剣が空を走る。手に伝わる柔らかい感触。流れ落ちた赤い血は、足元の枯れた草を赤黒く彩った。


 切られた腕を押さえて、きょとんとした顔でテトラがこちらを見つめてくる。


「暗夜様……?」


「ぁ……っ」


 自分がしたことの重大さに気がついた暗夜は、剣を投げ捨てて駆け出した。


 向かう先は、あの廃墟。暗夜の秘密の友達――魔王が待っている、あの廃墟。


 そうして逃げ出した勇者は魔王になって、人間の国の破壊を目指すのだった。

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