はじまり
朝田さやか
はじまり
今日、恋が始まります。それは人身事故での遅延のお知らせよりも欲しかったアナウンス。英語と中国語と韓国語で丁寧に流さなくてもいい、急遽流れる日本語のみのアナウンスでいいから、誰かに教えておいてもらいたかった。そうしたら、就活と同じように対策をして挑んだのに。
*
迷路のような構造の駅地下を早足で歩いていた。インターンの座談会が長引き、電車も人身事故の影響を受け、約束の十六時は既に数分過ぎていた。リクルートスーツとパンプスは慣れてきたようでいて動きづらい。
一分でも縮めるべく人混みをすり抜けて、長谷川くんが時間を潰している本屋さんへ向かう。大きな駅なのは元々だが、普段よりも人が多い。浴衣に身を包む男女の多さから、今日は近くで花火大会が行われることを思い出す。たった数時間でも、終始空気を読んで動かしていた表情筋が充電切れを訴える。無理に急いで歩いたから、ヒールで足を捻りかけた。
本屋さんの横にある大型モニターの音が、段々と大きくなる。青い看板をくぐり、店内の地図を確認する。新書のところにいると連絡が来ていた。さすが有名大。
平積みされた文芸書に吸い寄せられるのを我慢して、二つめの棚を右に曲がってまっすぐ、と心の中で唱えながら歩く。間違えなかったようで、すぐに見つけた。
外の部活で日に焼けた肌。オンライン越しには分かりにくい、筋肉のついた大きな図体。キャップを深めに被る癖。青と白のストライプのシャツが夏らしい。
再度人前用のスイッチを入れて、何と声をかけようかと思案する。オンライン会議では毎週顔を合わせているものの、実際に会うのは初めてだった。
お待たせ? 初めまして? やっほー? 目の前にしたら、普段の距離感すら分からなくなる。店内放送で流れる男性声優さんの声がどうにか間を持たせている。一歩ずつ近づくと、長谷川くんが私に気がついた。
「怖いよ」
目と目が合った瞬間、思考回路を外れた言葉が飛び出た。
「どこがっすか」
見下げられる視線がもう怖そうだ。会議後の雑談のときみたいに笑えばいいのに、対面で固くなっているのは私だけじゃないのだろうか。
「ごめんね遅くなって、お腹すいたから行こう」
「うぃっす」
他愛もない会話をしながら、目的のパフェ専門店へ向かう。外の壁一面がショーウィンドウになっていて、味の違うパフェが並んでいた。ほんの一瞬で目を惹くアピールをできるものが、選ばれるのだろうなと思う。
店内は満席だった。五組ほど上に名前があったものの回転率は良く、十分ほどで通された。先に入った長谷川くんが奥のソファ席を右手で促した。自分は早々に手前の木の椅子に荷物を置いている。スポーツをやっている人ならではの上下関係が染みついているところが私と同じだと、密かに微笑んだ。
「何にする?」
既にメニューを見たから、お互いに決まっていそうな顔をしていた。
「ロースカツ乗ってるやつにします」
「やばすぎ。私は普通にチョコバナナパフェ」
「おっけーです」
長谷川くんが手を挙げて店員さんを呼んでくれる。
「ロースカツパフェとチョコバナナパフェで」
冗談かと思ったのに、本当に注文した変な人。
「水取ってきます」
注文も水を取るのも当たり前の顔でしてくれるから、ロースカツパフェを頼む変人度合いがますます際立つ。戻ってきた長谷川くんにありがとうだけ言って、身を乗り出して聞いてみる。
「本当に食べるの?」
「はい」
「百種類くらいあるのに? 一回目なのに?」
「はい」
すごく賢くて、気が利くのに、変な人。あと、ちょっとだけ怖そう。頭の中に散らばっていた性格のピースが、実際に会って思い通りの場所に埋まっていく。
「スーツ似合ってますね」
「ありがとう」
フライドポテトパフェならぎりぎり美味しそうだけど、と訝しげな視線を送っていると、パフェの話はどこかに行った。
「就活どうですか?」
「うーん。業界絞れてないし、選考ありのインターンは一つも受けてすらないし、数こなしてるだけかも。ダメダメなんだよね」
焦りだけで日々を生きている。何もやりたいことが見つかっていない人生の中で、将来を決めなければならないときがやって来た。
大学は偏差値の合う文学部を目的もなく選んだ。理系や法学部と違って専門的知識がない自分は、どこの企業も受けられてしまう。とりあえずやるしかないと思って手当たり次第にエントリーをして、訳も分からず予定を詰め込んでいるだけ。
「ダウト」
そう言って、長谷川くんは真っ直ぐ人差し指を指してくる。私が置いたカードが発言した数字と異なっていることを確信した、自信たっぷりの目をしている。
「あんな詰め詰めのカレンダーで何言ってんすか。インターン行きながら考えてるの知ってますよ。先輩のことだからそうでしょ」
笑った。肩に入っていた力が一人でに逃げて行く。小さい頃に、テレビの奥に人が実際にいると思っていたときと同じ感覚がした。私の前には今見えないモニターがあって、長谷川くんがにょきっと飛び出しているみたいな。
「考えても答えが出てないから意味ないよ。同級生で業界も絞って何社も選考進んでる子もいるのに」
彼氏がそうだった。
電波を受信して映像が映し出されてるだけだよ、人が入ってるわけないじゃん、とイマジナリー颯が私のアホな妄想を否定する。
「先輩は頑張ってます、なのに後輩にも会う時間作ってくれてサイコー」
肯定してくれる言葉に心が揺れる。頑張ってるだけじゃ、結果を出せなきゃ意味がない。スピードが命だと、どこかの人事の人が言っていた音声が蘇る。それでも、長谷川くんが笑ってそう言うから、今のままでもいいのだと思いそうになる。
「そんなこと」
「自己分析できてないですよー」
何それ。沁み入って迫り上がって来た涙が目元まで届きそうだ。「自己分析不足」という言葉自体はもう何度も聞いたのに、長谷川くんの口から飛び出るのは他人視点の勇気をくれる意味だった。
「お待たせいたしました」
店員さんが二つのパフェをトレーに乗せてやって来た。その隙にスマホを見ても、そろそろ面接が終わる時間なのに颯からの連絡はない。自ずと、昨日のデートでの会話が思い出される。
「明日は自己分析のインターン? 自分でできるんだからもうちょい実務ベースのインターンにしたら?」
颯は就活サイトを開いて、私にいくつか例を示してきた。
「先輩におすすめされたんだよ。めっちゃいいんだって」
私は、自分の就活サイトを急いで開きながら言い返す。ログインパスワードを打ち間違えて、はぁ、とため息を吐かれた。
「その人そこの内定者でしょ、参加者増やしたいだけかもじゃん。やるなら俺とやろうよ。あと、スマホにパスワードは記憶させなってば」
上から降って来る声は重くて、張っていた肩すら猫背になる。食事をするのも久しぶりだった。お互いに夜会議があったり、サークル活動やバイト、インターンが詰め込まれたりした夏。どちらかが空いている日にはどちらかの予定が入っていて、共有しているカレンダーは互い違いの色でいっぱいだった。
「でももう予約しちゃってるから」
「そっか、じゃあ今日は泊まるのやめとく」
腕時計に視線を移してから、俺も明日午後から面接だし、と続く。同じ地方にはいても、都道府県が違うと会いたいときにすぐに会うこともできない。
「分かった、お互い頑張ろう」
言葉尻に寂しさが滲む。少しの間でも長くいようとはしてくれない。けれど、明日をインターンの代わりに一緒に自己分析をする日にしようと言えない私だって悪い。会いたい気持ちよりも、現実を突きつけられたくない恐怖の方が勝ってしまった。
誰よりも前を歩く、行動的なのが好きなところだ。いつも手を握って付いていけば間違いないという信頼感がある。けれど、大きく遅れをとっている今の私には颯の引っ張る力は強すぎて、腕がもげてしまう。
「深月さん」
名前を呼ばれて、意識が正面に戻る。下から添えて差し出すような声で呼ばれると、平凡な自分の名前が引き立つみたいで不思議だ。
「就活の話題やめましょか、顔暗いし」
クーラーの冷風が一つ結びで剥き出しになった頬を撫でる。耳にしがみつきそうな長谷川くんの声を、甘い香りの中で不似合いなソースの香りを吸うことで、あえて掻き消す。
「パフェでカトラリーに箸置いてるのなんて見たことないよ」
心の端を引っかけられて、気を抜けば引っ張られそうになる。端々に溢れる私への思いやりに持っていかれないように、長谷川くんの変さを際立たせようとする。
「食べましょ」
「うん」
さくらんぼのへたを摘まんで口に持っていく。昨日のリップと同じ色。別れ際に重ねた唇はお互いに乾いていた。
「恋バナ聞きに来たので教えてください」
噛んださくらんぼは、思った以上に味がしなかった。話の差し込まれ方に驚いて、種まで飲み込んでしまいそうになる。
「なんで」
『インターン終わった?』
タイミングが良いんだか悪いんだか、スマホが震えた。颯の文字が目に飛び込んでくる。
『うん。ねえ、花火大会行きたい』
『あー、今日は無理だけど十月とかなら』
かねてから行きたかった人生初の花火大会。何度も誘っては人混みが嫌だからと断られていたのに、今日はあっさり許諾してくれて、口元が緩んでしまう。
「好きな人からですか?」
長いスプーンを掴み損ねる。カシャン、と机に当たり、音がした。私の口元が長谷川くんの目に捕らえられている。
「そうだよ」
「聞かせてください」
彼の箸が小さなカツをつまんで口に運ぶ。パフェの中心に存在するそれを一息に口に入れて、あっという間に噛み砕く。
「高校卒業と同時に私から告白して、成功して、三年目になる人でね」
腹を括って紡ぎ出す。話すために記憶の箱から取り出すと、その当時の気持ちまで引っ張り出されて熱くなる。淡い想い出の色が景色に色を付けていく。
「大好きなんだよね。一番前を走る人。私が優柔不断だから、最後にこれって決めてくれる人。何に対しても全力で取り組むストイックな人かな」
一つずつ颯の要素を並べて、彼の輪郭を形作る。切られたバナナに縁どられ、中心に乗っかったソフトクリームが溶けていく。
「めっちゃ良いじゃないですか。他には?」
初デートで私が行きたかったカフェに行けた話。半年記念に贈った香水のプレゼントを喜んでもらえた話。喧嘩して理詰めされた笑い話。続けて唇で紐解いていく二人の時間。
「声が好きなんだよね。二人で話す時だけ、溶けるみたいな甘い声に弱くて。声フェチなんだと思う。あと私を雑に扱う感じもなんか、彼女感あっていいんだよね」
「いいなぁ。俺も彼女欲しいです」
「好きな人いないの」
「いないです。忙しいのを言い訳にしてるだけなんですけど」
「うちのサークルに部活にバイトにゼミ所属だっけ、忙しそうなのにこっちまで来て時間作ってくれてるのは長谷川くんの方じゃん」
私たちが所属するネット上サークルの飲み会で、長谷川くんは関東からやって来た。その飲み会の前の時間でこうして二人で会っている。
「まあ、深月さんと話したかったんで」
口に入れたチョコレートアイスが思いの外甘くて、慌てて水を流し入れた。もう一口食べるとやみつきになって、手を動かすスピードが速くなる。
「好きなタイプは?」
「何かに向かって一生懸命な人です」
同じだ。私も颯の、高い志を持って一直線に進むところが好きだった。がむしゃらに日々を走る人ほど、頑張る人を好きになってしまうのかもしれない。
「あと、メンケアしてもらえる人ですね」
「意外。仕事できるし、強いのかと思ってた」
「仕事抱え込んでキャパってしょげてばっかですよ」
顔が、声が弱さを帯びる。心の内をさらけ出した雰囲気が、ビブラートのように広がる。頼りがいがある長谷川くんの年下らしい一面に、思わず笑みがこぼれていた。虚勢を張っていても案外弱いところは、私と同じなんだ。
「深月さんは?」
「価値観が同じ人が好き。でも追いかけてくれる人だったら好きになっちゃうかもねーちょろいから」
冗談めかしてぶつけてみる。心の中では、そんな人いないけど、と呟いている。彼が私のことを好きだということは分かっているのに、それでも私の方が好きだという事実は三年経っても変わらない。それが時々どうしても、虚無感に結びつくことがある。
「さっきの彼氏さんとのエピソード聞いてる限り押せ押せでしたもんね」
だから、私みたいな愛されたいという欲求が肥大化した化け物が生まれてしまった。
「自分が好きでいなきゃいけないから仕方ないよね。好きになった方が負け。リーダー気質の、尊敬できる大好きな人に変わりないから」
「最近は会ったんですか?」
「昨日会ったけどインターン忙しくてなかなか会えなくて。私がやりたいことリスト作って共有してるんだよね、一方的にだけど」
やりたいことリスト自体は付き合った当初から作っていて、その一番上に最初から君臨しているのが「花火大会に行く」だった。
「一番したいことの例、お裾分けしてくださいよ」
「花火大会に行きたいの。小さい頃から親が厳しくて夜に出歩かせてもらえなくて、行ったことなくて。でも、花火大会って夏のど定番だから憧れしかなくて。ずーっと行きたい。初めては好きな人って決めててさ。付き合ってから何回か誘ってもなかなか行けなくて、でも、さっき今年は行こうって言ってくれたの」
「可愛いっすね。だから笑ってたんすか」
漏れ出たような言い方が、防御外から私の心をつつく。息の吸い方を忘れかける一秒、その
「うわー、めっちゃいいな。俺もそんな愛してくれる彼女ほしー」
伸ばし棒が普段より一モーラずつ長くて、脳が溶けたみたいな声。外面のメッキが剥がれていく様子を見て、頬の筋肉も緩くなる。
「ならそのパフェのチョイスから改めたら?」
その変なところも長谷川くんのいいところだと、私は知っている。
「美味しくはありましたよ。でもパフェにカツが乗ってるって想像した通りの味でした」
喋ってばかりでアイスがどろどろに溶けた私のカップとは対照的に、ソースまで綺麗に絡めて食べられた綺麗なカップ。
「変人で怖い見た目のくせに、食べ方は綺麗なんだ」
「何すか、怖くないっす。べたべたなのとか許せないので」
「長谷川くんらしいね」
「何がすか」
「完璧主義? ストイックなところ」
「まあそうかもです」
どんな仕事を投げても百二十パーセントの仕上がりで返してくれるような、絶対的信用のおける後輩だ。それが食べ方にまで出ているなんて思わなかったけれど、変なところにこだわってしまうのは私も同じ。だから融通が効かないところがあって、たまに颯とぶつかってしまう。そのときは論破されて折れてしまうのだけれど。
「食べちゃうから待ってて」
「ゆっくりで大丈夫ですよ」
いちについて、よーい、どん、のよーいのところで待ったがかけられた気分。ペースを合わせるために走り出そうとした自分に、給水所が迎えに来てくれた。
「ありがとう」
颯に、研究して変えたメイクをアピールして褒められたときみたい。流行色を取り入れたファッションに、誘導ありで気づいてもらえたときみたい。でも、そのときとは本質的に違うことも自分自身で分かっている。
「あ、他の人飲み会前にカラオケ行くらしいです。合流しませんか」
「行きたい」
どろどろに融解したかたまりを口に運ぶ。それは、目の前のみっともなさを必死に消してしまおうとする作業だった。甘さにコーンフレークの食感が加わって、最後まで飽きなかった。
六人が集まったカラオケで、長谷川くんとは机を挟んで対面に座っていた。飲み物は烏龍茶とジンジャエール。長谷川くんがお土産に買ってきてくれた個包装のお菓子が手元にやってきてから四曲目。
「この歌めっちゃ好き」
「まじすか? 俺このバンド好き過ぎるんですよ」
「アニメ観てたから」
「いやーアニメも良かったですよね、サイコー」
曲を選択したときに盛り上がったのがさっきで、長谷川くんの順番が来てマイクを握った。歌い出した、出だし三秒で笑ってしまった。部屋を塗り替える音が私の胸に飛び込んで、変なところに入る。自分でもどうして吹き出してしまったのか分からずに、でも笑いが止まらない。
また変なところでツボったと、周りの人たちは当然のように受け入れている。だから、誤魔化せている。普段よりワントーン上がった声色。語りかけるように包み込む歌い方。胸の高揚が抑えられなくなるときも爆笑してしまう、私の悪い癖。
「深月先輩、なんか長谷川の歌い方えろくないっすか」
囁いてくる別の後輩に、何だそれと言いながら腑に落ちてしまった。私の耳を通り抜けるたび、耳たぶを赤く染める声を形容するのにはちょうどいい。もっと聞いていたいと思った。終わらないでほしいと思った。
マイクを置いた手がそのままデンモクを掴んだ。私は他の人のイントロが流れ出す瞬間まで余韻に浸っていた。タッチパネルを操作した後に画面に浮かんだ曲はまた私の好きな曲。
「その曲も好きなんだけど」
「え、じゃあこれも好きじゃないですか?」
話せば話すほど、「同じ」を見つけていく。
「なんで分かったの」
「分かりやすいんで、深月さん」
「んもう」
先輩を立てるときは立てて、いいように貶して、距離感が上手い人。曲の選び方は真っ当すぎて、変人ささえ垣間見えない。
「深月さんが次歌う曲も俺好きっすよ」
「これは彼氏の十八番だから覚えただけだけどね」
「うわ惚気だ。対抗してアイドル曲原キーで入れちゃおーっと」
「なんで。てかそんな高い声出ないでしょ」
仕事ができる、礼儀正しくて、変な、ちょっと怖そうな後輩。私が形作っていた画の大枠はそのままに、僅かなピースが入れ替わっていく。
そうして、長谷川くんのぶりっ子な歌声に爆笑しながら合いの手を入れて、二人で好きな曲について語っているうちにカラオケを出る時間になった。飲み屋さんに向かうまでの十一分の距離をみんなで並んで歩く。
「深月さん歌上手でした。音域広いし」
「ありがとう」
颯がアカペラサークルに入っているせいで、歌を褒められるのにも慣れていない。掘れば掘るほど見つけてしまう、見つけてしまってはいけない部分。
「花火上がる時間や。見えるかな」
カラオケでも何度も夏祭りや花火関連の曲を歌っていた同期が走り出して、他の三人もそれに続いていく。生粋の陽キャたちに取り残された私たち。
「ついて行ったら見えちゃいますもんね。急いでお店向かいましょ、多分ビルで見えないから大丈夫だと思いますけど」
「長谷川くんは見たくないの」
「見たいですけど、深月さんが一人になっちゃう」
気を張らなくても、歩く歩幅が同じだった。隣に確かに感じるのに、足元しか見られない。カラオケでデンモクを覗き込んだ近さを思い出して、右側の肩がむずむずする。さっきも今も、長谷川くんはどんな顔をしていたのだろう。
歩くたびに体温が上がっていく。暑さのかたまりを纏いながら、裏路地を歩いて目的地へ向かう。ビル群を挟んだ向こう側には、夏の一大イベントに想いを寄せる人たちの群れがある。車の音と光が溢れていた。皆の声も遠く、もう聞こえない。騒がしさに
「花火大会、楽しみなんだよね」
三年前から誘っていた。口約束でも、やっと人混み嫌いな颯を引っ張り出すことに成功して、今日はそこが気分の最高潮のはずだった。
「はいはい、分かってます」
肩をこつんと突かれる。触れられた面が外気より熱くなる。手を繋がなくても隣にいてくれる。首を滴り落ちる汗が妙に生々しい。
「ブラウスのリボン解けてますよ」
時刻は花火大会が開始される午後七時を回ろうとしていた。
「車危ないんで、その角まで行きましょ」
腕を掴まれて引っ張られても、どこも痛くない。触れたのかすら分からないほどの触れ方で、それでも肌と肌の接地面に確実に意識が集まっていく。
「意外とそそっかしいんですね、威厳あり過ぎるって思ってたから、人間味があっていいと思います」
ビルとビルの狭間。大きく通った一本道。張り詰めるのが癖になっていた背中が、元々の癖通りに丸くなる。触れられた肌に集まった熱が、午後七時の時を刻むと同時に爆発して打ち上がった。
「うわ、花火」
今日、恋が始まります。それは、花火大会開始よりも欲しかったアナウンス。彼氏への気持ちが崩壊するくらいの気持ちに出会うなら、事前にカレンダーに書き込みたかった。通知を受け取っていたならば、彼氏の話なんてしなかった。
「長谷川くん」
惚気話をしたら好きになっちゃった、なんて、どうして言えるだろうか。
「はい」
手が離れていく。外の部活で日に焼けた肌。筋肉のついた大きな図体。キャップを深めに被る癖。青と白のストライプのシャツの羽織りが夏らしい。何にもストイックな姿勢。ときどき変だけどユーモアに溢れているチョイス。えろくて語りかけるような歌声。ありのままの私を受け入れてくれる他者志向性。
「花火、せっかくだからちょっと見よっか」
好きだなんて言えないから、長谷川くんの向こう側で打ち上がる花火を、私はただ見つめていたいと思った。二人で見たいという意味に、気づいて欲しいと願いながら。
はじまり 朝田さやか @asada-sayaka
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