第2話 「朝焼けの兄貴」

目が覚めても、胸の重さはまったく消えていなかった。


ベッドの上で固まったまま、スマホの通知を開く。

一番上に、会社のグループチャット。


「明日の打ち合わせ、絶対出てね〜!😁」


絵文字付きの軽い文面なのに、文章が刺さったみたいに胃がきゅっと縮む。

“絶対”。

あの上司の顔が浮かんで、呼吸が浅くなる。


(行きたくない。もう無理だって、昨日あんなに思ったのに)


でも、行かなかったらもっと責められる。

謝って、頭を下げて、また怒られて。

その繰り返しに戻ることを考えただけで、胸の奥がじくじくと痛んだ。


とりあえず水でも飲もう、と重い体を起こす。

部屋の入口までふらふら歩き、いつものようにドアを押した、その瞬間。


目の前にあるはずのキッチンが、無かった。


代わりに、ひんやりした朝の空気と、

そこはなぜか、「COFFEE STARS」の裏口になっていた。


半分寝ぼけた頭で、一歩踏み出す。

そこは、店の裏庭だった。


ひんやりした朝の空気の中で、白い息がふわっと広がる。

空は淡いオレンジに染まっていて、地面には朝露が光っている。


その真ん中で、ひときわ大きな影が動いていた。

筋肉質な大男が、子どもたちを両肩に乗せて、ガハハと笑っている。


「もっと高く!」「落とすなよー!」

小さな声が飛び交うたびに、大男はわざとふらふらと揺れて見せる。

でも、手は絶対に離さない。


「あ、ロブだ」


少し離れた場所では、無口なロブスタが腕を組んで立っていた。

転びそうになった子どもを、さりげない一歩で支えている。

表情は相変わらず無愛想だけど、その動きがやたらと優しい。


大男が、こちらに気づいた。

日焼けした顔に、満面の笑みが広がる。


「おーい! おととい迷い込んできた嬢ちゃんじゃねぇか!」


そう言って、こっちに手を振る。

(おととい? …まあ、細かいことはいいか)

私は苦笑いしながら裏庭へ足を踏み入れた。


「昨日の…ひかる、です」


名乗るより早く、大男はずかずかと距離を詰めてくる。

近くで見ると、なおさら大きい。

屈強な体つきなのに、笑うと目尻にくしゃっとシワが寄る。


「マンデリンだ。朝っぱらから暗い顔すんな。ほら、来い!」


問答無用で腕をつかまれ、そのまま輪の中に引きずり込まれた。

子どもたちが、きゃあきゃあとはしゃぐ。


「お姉ちゃん、こっちこっち!」

「次、鬼やって!」


気づけば、私は鬼ごっこに参加していた。

スーツじゃないだけマシだけど、パジャマのまま全力疾走することになるとは思わなかった。


でも、不思議なことに、

走って、笑って、転びそうになって、息を切らして――

さっきまで胸の中にまとわりついていた重さが、少しずつ薄くなっていく。


ふと振り向くと、ロブスタが子どもに混じってボールを受け止めていた。


一通り遊んで、全員でその場に座り込んだ頃、マンデリンが立ち上がる。


「よし、休憩。嬢ちゃん、ちょっと散歩付き合えよ。」


マンデリンに連れられて、裏庭を抜けると、小さな川が流れていた。

朝焼けの光が水面に反射して、きらきらと揺れている。


「ここ、よく来るんですか?」


そう聞くと、マンデリンは「まぁな」と笑って、川岸の石にどさっと腰を下ろした。

隣に座るよう促され、私は少し距離を空けて腰かける。


しばらく、二人して無言で水の音を聞いていた。

川のせせらぎと、遠くから聞こえる子どもたちの笑い声。

胸の中のざわざわが、少しずつ静まっていく。


やがてマンデリンが、ぽつりと言った。


「働くってさ、誰のためかを決めると、ちょっと楽になるんだよ。」


「誰の、ため…?」


思わず聞き返すと、彼は頭をかきながら苦笑した。


「昔な、俺、よく分かんねぇ仕事してたんだよ。

 行けって言われりゃ荒れた土地に行って、

 護れって言われりゃ、よく分かんねぇ街や荷物を護ってさ。」


言葉はぼんやりしているけれど、

遠くを見つめる目の奥に、なんとなく“戦場”の影を感じる。


「若い頃はさ、ただ命令されたからってだけで動いてた。

 何守ってんのか、誰のためなのか、考えもしなかった。」


川の水が流れていくのを見つめながら、

マンデリンの声だけが、ゆっくりと続いていく。


「あるとき気づいたんだよ」


マンデリンは、石を一つ拾って、軽く川に投げた。

ぽちゃん、と静かな音がして、波紋が広がる。


「守れなかった顔って、いつまでも残るんだってな。」


それ以上、詳しくは語らない。

でもそれで十分だった。

私の頭には、見たこともない子どもたちの顔が浮かぶ。


「難しい言葉は分かんねぇけどよ。贖罪とかさ」

マンデリンは照れくさそうに笑う。


「今こうして、笑ってくれる奴らがいるだろ。

 あいつらが転ばねぇように見ててやるだけでも、

 俺の仕事としては、結構十分なんじゃねぇかなって。」


そう言って、さっきまで遊んでいた裏庭の方を見る。

小さな影が、まだ元気に走り回っている。


「守りたい顔が一つあるだけでさ、人間って、結構しぶとく立ってられるんだよ。」


その言葉が、胸のどこかにすとんと落ちた。

私は、自分には“守りたい相手”なんていないと思っていた。

でも、本当は気づかないふりをしていただけかもしれない。


まぶたを閉じて、ゆっくり開くと――

そこは、私のアパートの玄関だった。

同じ朝焼けが、窓の外に広がっている。


スマホには、さっきのメッセージ。

「明日の打ち合わせ、絶対出てね〜!😁」


胃の痛みはまだある。会社が好きになったわけでもない。

でも、足を一歩前に出したときの重さが、ほんの少しだけ軽くなっている気がした。


誰のために働くか。

そんなこと、今まで考えたこともなかった。

でも、考えてみてもいいのかもしれない――そう、初めて思った朝だった。

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