菌糸悪魔
@sinshar9
第1話 塩対応
⸻
「……で?」
と、私は言った。
言ってしまった。
言うつもりはなかったが、言ってしまった以上、言葉はもう戻らない。
言葉とはそういうものだ。殺したら死ぬ。吐いたら飲めない。
「“で?”とは?」
塩の男――ダム・ソルトマンは、笑った。
いや、笑ったというのは語弊がある。
口角が上がっただけだ。
だが、その上がり方が、笑いのフリをした告発だった。
「君は、何を期待している?」
「期待? 期待ってのは、未来に対する賄賂でしょう。私は今を見ているだけだ。塩の塊が、菌魔の形をして喋っている。だから“で?”だ」
「辛辣だね」
「塩が辛いのは当然でしょう」
「君は塩を嫌っている」
「いいえ。塩は好きだ。世界に輪郭を与える。腐敗を遅らせる。血を思い出させる。だが――」
私は彼を見上げた。
白い。白すぎる。
肌も、髪も、言葉も。
「塩そのものが、自分を美しいと思っているのが嫌いなんだ」
沈黙。
いや、言葉を使うのが勿体なくなっただけだ。
今は、余韻のほうがよほど口を利いている。
「耽美主義者の発言だ」
「悪意のない美は、ただの装飾だ。悪意のある美だけが、刃になる」
「君は刃が好きだ」
「ええ。刺さるから」
「刺さりたい?」
「刺したい」
「同じことだよ」
ダム・ソルトマンは、指を鳴らした。
その音が、じゃり、とした。
鳴ったのは指か、塩か、それとも私の神経か。
「塩はね、ミコラ。すべてを等しくする」
「平等主義は嫌いだ」
「死体も、生者も、英雄も、淫売も、同じ味にする」
「それは侮辱?」
「救済だよ」
「救済という言葉を使う者は、だいたい他人を溶かす」
「溶けるのは、弱いからだ」
「違う。溶けるのは、美しいからだ」
私は微笑んだ。
鏡があれば、きっと嫌な顔をしていただろう。
「君は美を信じている」
「信じていない。利用している」
「同じだ」
「違う。信仰は跪く。利用は踏みつける」
「耽美だね」
「ありがとう。褒め言葉として受け取っておく」
「君は自分が悪だと思っている」
「思っていない。悪であることに、理由を要求しないだけ」
「塩は理由だ」
「塩は結果だ」
「保存だ」
「停滞だ」
「永続だ」
「腐敗の遅延だ。死の先延ばしにすぎない」
ダム・ソルトマンは、初めて眉をひそめた。
その瞬間、彼は少しだけ菌魔になった。
「死を急ぐのか?」
「いいえ。死を味わいたい」
「塩を振る?」
「血のままがいい」
「野蛮だ」
「耽美です」
「……君は危険だ」
「ありがとう。二度目ですね」
「塩を拒む者は、世界を拒む」
「世界は私を拒んだ」
「なら、なおさら塩が必要だ」
「いいえ。だからこそ――」
私は一歩、近づいた。
塩の匂いがする。
海ではない。
涙でもない。
ただ、乾いた白。
「私は、腐る側に立つ」
「腐敗は醜い」
「いいえ。腐敗は、真実です」
「塩は真実を隠す」
「だからあなたは美しい」
「君は、私を口説いているのか?」
「いいえ。殺しています」
「言葉で?」
「最も効率的でしょう」
沈黙。
今度こそ、ちゃんとした沈黙。
「ミコラ」
彼は私の名を呼んだ。
塩で漬けるように、ゆっくりと。
「君は、いつか必ず干からびる」
「知っています」
「そのとき、塩を欲しがる」
「そのときは――」
私は笑った。
今度は本当に。
「あなたを舐めます」
ダム・ソルトマンは、何も言わなかった。
塩が、音を立てて崩れた気がした。
――耽美と塩が会話してるのを聞いてしまった件について
――聞いてしまった。
最悪だ。
いや、最悪というのは誇張ではない。
本当に最悪だ。
壁一枚隔てた向こう側で、耽美と塩が会話している。
世界のどこかで起きているのならまだしも、よりにもよってここで。
(……また始まった)
ミコラの声は、低く、甘く、毒がある。
あれは声じゃない。
言葉に化粧を施した凶器だ。
「“で?”とは?」
とか何とか言ってる塩男――ダム・ソルトマン。
名前からして既に腹が立つ。
自己主張が強すぎる。
塩は裏方でいろ。前に出るな。
(塩が喋るな)
私は壁に額を預けた。
耳を塞ぐべきか?
いや、無理だ。
この手の会話は、塞いでも脳内再生される。
呪いみたいなものだ。
「塩そのものが、自分を美しいと思っているのが嫌いなんです」
あー、出た。
ミコラの人格否定を美学で包むやつ。
これを食らって無事な存在を、私は知らない。
(嫌いなら黙って刺せばいいのに。
どうして一度“思想”を通すんだ……)
「塩はすべてを等しくする」
「平等主義は嫌いです」
わかる。
そこだけは、わかる。
私は密かに頷いた。
だがその後がいけない。
「溶けるのは、美しいからだ」
(違うだろ)
思わず小声で突っ込んでしまった。
危ない。
聞かれたら最後だ。
ミコラはきっと振り向いて、あの笑顔で言う。
――「盗み聞きは罪ですよ、トワリス」
罪?
今ここで行われている会話全体が罪だ。
(なんだこの会話……
どっちも比喩しか喋ってないじゃないか……)
塩が保存で、
腐敗が真実で、
耽美が刃で、
悪意が美で。
(もう普通に殴れ)
殴り合え。
思想じゃなく拳で。
そうすれば少なくとも、私は理解できる。
「私は、腐る側に立つ」
(だから宣言するな)
ミコラはいつもそうだ。
選択を、わざわざ詩にする。
生き方を、舞台装置にする。
「そのときは――あなたを舐めます」
……聞かなかったことにしたい。
できないけど。
(ああもう……)
私は壁から離れ、天井を仰いだ。
石造りの天井は、何も答えてくれない。
賢明だ。
(ミコラは、自分が危険だって自覚してるくせに、
それを止める気が一切ない)
あれは自己破壊じゃない。
自己演出だ。
しかも観客の安全を一切考えないタイプの。
塩男の沈黙が続く。
たぶん今、魂が浸透圧で死んでいる。
(かわいそうに……)
いや、同情はしない。
ああいう会話に参加する時点で、自己責任だ。
私は小さく溜息をついた。
(……でも)
でも、だ。
(ミコラが、ああやって誰かと“全力で会話している”時だけは)
ほんの少しだけ、
世界がまだ壊れていない気がする。
(最悪な形で、だけど)
「……帰ろう」
誰に言うでもなく呟いて、私は踵を返した。
これ以上聞いていたら、
私まで比喩でできた生き物になってしまう。
(塩と耽美が会話してる世界なんて、
長生きするもんじゃない)
そう思いながら、
私は今日も、
正気のフリをした観測者を続ける。
――ミコラが、誰かを言葉で殺す、その音を背に。
後日談
――ミコラは最初から知っていた
※トワリス視点
⸻
それは、翌日の午後だった。
時間帯が悪い。
朝でも夜でもなく、午後。
きんが最も油断する時間。
「トワリス」
名前を呼ばれた瞬間、
私は自分の背中が少しだけ固くなるのを感じた。
「昨日は、よく眠れました?」
ミコラは笑っていた。
いつもの、整った微笑み。
毒も刃も、今は鞘に収まっている――ように見える。
「……普通に」
「“普通”って、いい言葉ですよね」
出た。
言葉そのものを解体しに来る前兆。
「普通であることは、何も起こらなかったという意味であり、
何も気づかなかったという意味であり、
何も背負っていないという意味でもある」
「何が言いたい」
「いえ、確認です」
ミコラは歩きながら、私の横に並んだ。
距離が近い。
近すぎる。
この菌魔は、距離感を“倫理”で測らない。
「昨日、廊下にいましたよね」
心臓が、一拍遅れた。
「……何の話だ」
「塩の匂い、苦手でしょう?」
回避不能。
匂いという概念で刺してくるの、反則だ。
「聞いてたんですか」
「いいえ」
即答だった。
だからこそ、続きが怖い。
「聞いて“いなかった”んです」
「……は?」
「盗み聞きというのは、意識的な行為です。
耳を澄まし、理解し、解釈する。
あなたは、もっと受動的でした」
「言い方が詩的すぎる」
「あなたは、壁越しに“浴びて”いた」
言葉が、喉に引っかかった。
反論できない。
「会話は、音じゃない。
意志です。
向けられた刃の軌道です」
ミコラは立ち止まり、私を見る。
目が、やけに澄んでいる。
「あなたは、その軌道に立っていた」
「……気づいてたなら、言えよ」
「言ったら、あなたは逃げたでしょう?」
「当たり前だ」
「それでは、意味がありません」
「何の意味だ」
ミコラは、少しだけ首を傾げた。
考えているふり。
いや、選んでいる。
どの言葉で私を傷つけるかを。
「あなたが“正気でいようとしている”ことを、
壊さずに確認する意味です」
「最悪な確認方法だな」
「褒め言葉として受け取ります」
沈黙。
逃げ場がない。
「……怒ってるのか」
「いいえ」
否定が早すぎる。
それが一番怖い。
「怒るには、あなたは無害すぎる」
「ひどいな」
「あなたは、毒舌で、疑り深くて、
私を警戒していて、
それでも――」
ミコラは一歩、近づいた。
「それでも、逃げなかった」
「……」
「それが、気に入っただけです」
背筋が寒くなった。
褒められているはずなのに。
「次からは」
彼女は私の肩に、そっと手を置いた。
軽い。
重くない。
だから余計に重い。
「堂々と聞いてください」
「許可するな」
「許可ではありません。
招待です」
「断る」
「知っています」
ミコラは微笑んだ。
あの、何もかもを知っている顔で。
「あなたは、また聞く」
断言。
予言。
呪い。
「トワリス」
最後に、名前を呼ばれる。
「盗み聞きは、罪ではありません」
一瞬、安堵しかけた。
――馬鹿だ。
「沈黙を選ぶことの方が、よほど重罪です」
そう言って、彼女は去った。
私は、その場にしばらく立ち尽くしていた。
(……ああ)
やっぱり、
ミコラは最初から、全部わかっていた。
わかった上で、
私が壊れない程度に、
壊しに来ている。
(最悪だ)
でも。
(最悪な菌魔ほど、
世界をちゃんと見てるんだよな……)
そう思ってしまった時点で、
私はもう、
逃げ遅れている。
――塩と耽美と正気未満
※トワリス視点
⸻
誰が決めたのかは知らない。
知らないが、断言できることが一つある。
この茶会は、事故ではない。
「座らないのですか、トワリス」
ミコラが微笑む。
いつもの笑顔。
つまり、逃げ道は既に焼かれている。
「……逃げたら?」
「追いません」
「嘘だな」
「追いませんよ。
ただ、“逃げたという事実”を一生使うだけです」
最悪だ。
私は椅子に座った。
木製。硬い。熟成が進んでいない椅子。
誠実な椅子だ。
今ここにいる人間の誰よりも。
「紅茶でいいですか?」
ダム・ソルトマンが訊ねる。
塩のくせに紅茶を淹れるな。
世界観が混線する。
「塩は入れないでくれ」
「砂糖は?」
「入れるな」
「では、何も入れない」
「それが一番不安だ」
三人分のカップが並ぶ。
白。
白すぎる。
(儀式だ……)
これは茶会じゃない。
社会的処刑の準備だ。
「さて」
ミコラが口を開いた瞬間、
空気の粘度が上がった。
「三人が揃いましたね」
「揃わされた、の間違いだ」
「言葉は選びましょう、トワリス」
「この状況で“言葉を選ぶ”のは武装解除だ」
「素敵な比喩ですね」
やめろ。
褒めるな。
「本題に入りましょうか」
ダム・ソルトマンが静かに言う。
塩の声は、耳に残る。
洗い流せない。
「昨日の会話」
来た。
「聞かれていました」
「“聞かれていた”の定義を詰めたい」
私は即座に割り込んだ。
間を与えると、死ぬ。
「盗み聞きと、巻き込まれは違う」
「違いませんよ」
ミコラが言う。
「どちらも、“他人の真実に触れた”という点では同じです」
「だからこそ嫌なんだ」
「真実は、塩で保存すべきだ」
ダムが言う。
やめろ。
参加するな。
「保存すると腐らない」
「腐らない真実は、嘘だ」
ミコラが即答した。
「時間に耐えない思想は、思想じゃありません」
「時間に耐えすぎる思想は、化石だ」
私も言ってしまった。
しまった。
二柱が、同時に私を見る。
(あ、終わった)
「……面白い」
ミコラが言う。
最悪の感想。
「トワリス。あなたは、どちら側ですか?」
「訊くな」
「塩か、腐敗か」
「その二択自体が狂ってる」
「では第三の選択を」
ダムが微笑んだ。
塩の結晶みたいな笑み。
「沈黙ですか?」
「違う」
私はカップを手に取った。
紅茶は、普通の色をしている。
救いだ。
「生き延びる側だ」
沈黙。
今度は三柱分。
「……凡庸ですね」
ミコラが言った。
「最高の罵倒だ」
「凡庸は、塩が効かない」
「だから生き残る」
ダムはしばらく考え、
ゆっくり頷いた。
「確かに。
保存も、腐敗も拒む存在は、扱いにくい」
「菌魔って、だいたいそうだ」
「あなたは、自分を菌魔だと思っている」
ミコラの声が低くなる。
「違うのか」
「……“菌魔であろうとしている”だけです」
一瞬、ミコラの表情が止まった。
ほんの一瞬。
だが私は見逃さない。
(効いた)
「なるほど」
彼女は、息を吐くように言った。
「だからあなたは、聞いてしまう」
「やめろ」
「塩にも、耽美にも染まらず、
それでも、無視できない」
ダムがカップを置いた。
「危険だ」
「知ってる」
「排除すべきだ」
「やめてくれ」
ミコラが、ゆっくり首を振る。
「いいえ」
彼女は、私を見る。
「観測者は、必要です」
「そんな役、押し付けるな」
「逃げなかったでしょう?」
昨日と同じ台詞。
違う文脈。
同じ罠。
私は、笑った。
乾いた笑いだ。
「……最悪の茶会だな」
「最高の賛辞です」
「また褒めた」
「また生き延びた」
ダムが、静かに言う。
「次は?」
ミコラが答えた。
「次は――」
彼女は私を見て、
はっきりと言った。
「聞かせる前提で、会話をします」
(地獄が更新された……)
私は紅茶を一気に飲み干した。
苦い。
ちゃんと苦い。
(ああ)
塩も、耽美も、
世界を歪める。
でも。
(正気だけが、
耐えられないんだよな……)
茶会は、終わらない。
誰も立ち上がらないから。
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菌糸悪魔 @sinshar9
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