知らない世界を見てみたくて

鈴公

知らない世界を見てみたくて

六月。

梅雨とはよく言ったもので、例に漏れず今日も雨が降っている。

この時季特有のじめじめした空気も好きではないが、何より、邪魔な傘を差さなければいけないことが嫌で仕方がない。と、取材に出かける前の玄関で深くため息をつく。

片平かたひらただし。45歳。「片桐かたぎり十蔵じゅうぞう」という名で作家をしている彼は、次回作に向けて情報収集をしているところであった。

今やインターネットでさまざまな情報を仕入れられる時代だが、何事も自分の足で赴いて五感で知る。それが、彼のポリシーである。


「さて、今日はどこに行こうか……。この天気じゃあなあ」


だが、ポリシーとはいえ、雨のことを思うと足は重くなるのだった。



十時には出発しようと計画していたはずだが、ようやく気が向いたのはもうすぐ正午という頃合いであった。


「そういえば数駅先に新しいパン屋ができたんだったな。昼はそれにしよう。」


普段は降りることのない駅だが、知らない景色の方が、雨でも少しは楽しめるだろうという算段だ。

そう思って外に出たところ、もうすでに雨は止んでいた。

手に取った長傘を折り畳み傘に変え、駅まで歩く。

改札をくぐり、ちょうど目の前に来た電車に乗って、目的のパン屋を目指す。

駅に到着し、あえてマップを見ずに、朧げな記憶だけを頼りに道を歩いていると、

どこからかいい匂いがしてきた。パン屋はきっとこの近くだ。


そんな時、とある家の庭に目が留まった。正確に言えば、二度見してしまった。

表札を見て、つい口からこぼれる。


「佐村さん……」

「はい?佐村ですが」


透き通るような綺麗な声が耳に届く。

まさか人がいるとは思わず、木の影から現れた人物に向かって焦って手を振る羽目になった。


「あ!いや、すみません。怪しい者ではございません。この近くのパン屋に向かうところで……」


怪しい者ではない、などと言う時点で怪しい者なのだが、何をどう言っても挽回はできまいと、

率直に目に留まったものについて伺ってみることにした。


「そのクリスマスツリーが気に留まりまして。どうして今の時季に出しているのですか?」

「ああ、これですか。これはクリスマスツリーではないですよ」

「え?いやあ、どう見ても……」

「ただ、モミの木に飾りをつけてあるだけです」


ふふ、と目を細めて笑う彼女に目を奪われる。

なんてチャーミングなのだろうか。

雨に濡れたオーナメントが、雨上がりの太陽の光を反射してキラリと輝く。


「人はそれをクリスマスツリーと呼ぶのでは……?」

「ええ、そうかもしれませんね」


にこやかな笑顔を向けられ、胸が締め付けられる。

こんな気持ちになったのは、初めてだった。


「失礼ですが、お名前は……?」

「私の名前ですか?ええと……みちこです。知らないことを意味する未知に、子供の子で」

「未知子さんですか……。いい名前ですね」


これ以上はいけない、と、何かが自分にブレーキをかけた。

それでは、とだけ声をかけて、その場を後にする。


一瞬でも自分の知らない世界を見せてくれた一人の女性に想いを馳せながら、

五感ではなく第六感とでもいうのだろうか、言葉にしようとすると逃げていくような

これまでに感じたことのない心の動きを、決して忘れないように留めておこうと、胸に誓うのであった。



十二月。

書店に並んだ新刊の中に、ミステリー作家片桐十蔵の著書があった。

タイトルは「未知なるクリスマス」。

ただし、ミステリーではなく、恋愛のジャンルに。

彼女への想いを本の中に秘め、片平は今日も執筆を続けている。

あのパン屋のパンはどれも美味しかったが、もう行くことはないだろう。

彼女がどこかで笑っているのだとしたら、それだけで十分だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

知らない世界を見てみたくて 鈴公 @suzuko-

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画