老人とうみねこ
こはく
有意義なるひととき
「この世で最も忌むべきものは?」という問いに対してだけは、小さくてまな板みたいな胸を張って「外を出歩くことだ」といともたやすく答えることが可能であろう。
例えば、エスカレーターをのろのろと歩く、頭のネジの錆びてしまった老人がいたとする。そういったものが目に入ると、脳を流れる血が全部沸騰して蒸気になってしまいそうなんだ。
耳障りな跫音を避ける為、黒デニムのポケットから——先日、こういった事態に対処する為に百均で買った——耳栓を取り出そうとした時だった。
「おい爺! エスカレータで歩くなよ!」
ちゃらんぽらんで、いかにも自分たちは姦しき悪ですよと言わんばかりの、高校生グループのリーダーらしき——否リーダーであろう男が、ふてぶてしく粘っこい声を発した。周りの取り巻きらしき連中が「ちょ、お前、やばいって」と、本心なのか、彼らなりの社交辞令なのかは不明だが、必死こいた様子で拍車をかける。
「んんー、ちゃんと前見て歩かないと、上に上がれないからねぇ」と老人はひどくしわがれたこもった声で返し、のろのろと歩いて行った。
「え? 馬鹿じゃねえのあいつ。何言ってんだ? おい爺! んなとろい足でよちよち昇ってどうすんだよ!」とリーダーの男が言えば、「ちょ、やば、お前聞こえるって」と取り巻きの男がくぐもった声で笑う。哀れにも取り巻き連中は、偉大なるボスからは見向きもされていない様子であった。リーダーの男は、ギャルっぽい——他のカタブツ女とは違って私は犬以下の
「なあ、あの爺すげえ馬鹿だよな? ああいうのが日本駄目にしたんだろうな」と男が言えば、女の子は「ちょっとちょっと、何言ってんの? 可哀想じゃん。老い先短いんだから一秒でも無駄にできないのよきっと」と返す。そして、いつもの流れだと言わんばかりに爆笑の渦が起こる。特に取り巻きの連中は、命でも懸かってるかのように、懸命に笑った。
憐憫の情を催すとはこのことか。胸の奥から笑いすらこみ上げてくる。いくら笑い煽てた所で、結局何も得られやしない。尻軽女の一人すら抱くこともできない。ボスと姫君の忠実なるただのお膳立て要因。本当に惨めで可哀想だ。必死こいて
連中の笑いが静まり、視線がこちらへと向いたことで私はギョッとした。鼓動が早くなるのがひしひしと感じる。早急に耳栓を取り出し、しかるべき位置に装着した。耳栓を通り抜け、かすかに耳にこびりつく姦しい声から逃れる為、今しがた老人の通った軌跡を辿るはめになった。
百均の製品の性能など計り知れていた。声は聞こえたが、聞こえなかったことにした。
漸くデスティネーションたる本屋へと辿り着いた。お盆はまだというのに、平日から蛆虫のように人が湧いている。
このようなケースへの対処法は既に身に着けている。それは、ゴミ袋に湧いた蛆をプチプチと潰すのと同義だ。どこからともなく湧き出てきた二酸化炭素排出星人らをプチプチと、ひたむきに潰し続ける。無論空想上で。潰れたゲル状の物質を、ティッシュペーパーか何かで手際よく拭き取る。綺麗好きな人間にしかわからないであろうこの解放感がたまらなく好きだ。外出時の唯一の娯楽と言っても過言ではない。
本屋へ来た目的はたったひとつ。シンプルな理由だ。受験の為、大学の過去問集を買いに来た。
もう高三の十二月。過去問集を買う客なんて、少し意識の高い高二生くらいのものだろう。そう思うとばつが悪くなり顔が火照ってくる。会計を済ませると、他の本には目も暮れずにそそくさと帰路に着いた。
第一志望に特段拘泥する理由もない。そもそも志望した理由なんて学校から勧められたからといったごくありきたりなものしかない。親も許してくれるだろう。私の親は私なんかよりよっぽど秀でていて、希望に満ちた人生を歩むであろう妹の方に目をかけてる。例え私が「受験なんかやめて、高卒になる」と言っても何ら止めはしないだろう。そう思うと何だか心が軽いような重いような。超硬合金制のがらんどう気分だ。
帰り道、地図帳のコーナーで先程の老人を見かけた。本屋の中でも一番小さく、築も古びた場所。少し息苦しさすら感じる程度に埃っぽい本棚を前にして、老人は——皺だらけの痩せこけた小顔にはややオーバーサイズな——赤い老眼鏡をかけ、どこか有名な観光地というわけでもなさそうな、言い換えれば非常にマニアックな観光地のガイドブックを夢中になり眺めていた。
私は思いがけず「そんなもの読んだって意味ないのに。馬鹿らしい。老い先短いんだし、もっと有意義なことに時間を使えばいいのに」と声を漏らした。背筋がひんやりした。自分が今発した言葉を、冷静になって振り返る。体から感覚だけがからっきし遠のき、頭がくらっとした。
老人は、冬眠前の亀のようにゆっくりとした動きでこちらを振り返る。世界史の教科書に出てきそうなぐらいに蓄えられた白い髭とは不釣り合いな程に覇気のない顔。ゴマのように小さく細い、黄色の目はひどく窪んでいた。
「あっ、すみません。いや、その......思わず口が滑ってしまいました!」
見事なまでに一端な私の最敬礼を見て、老人は笑った。ここ数年で聞いた中で最も品を感じさせる笑い声だった。
「——お嬢さんは随分と正直者だね」
老人の言葉で私は再度ギョッとした。
「あっ、す、すみません.......!」
「いやいや、いいんだよ。うん、確かにそうだ。君のような若い子からしたら凄く馬鹿らしいことだろうねぇ」
ゆっくりとした、丸みを帯びた老人の声を聞くと不思議と心が安らぐ気がした。同時に、今になって後ろめたさを感じる自分もいた。うらぶれた老いぼれにしか見えなかった老人が、今では自然と敬意を払わずにはいられない、老紳士と化していた。
「.......これも何かの縁かもしれない。一つ聞いてもいいかなお嬢さん?」
私は特に言葉は発さず、ただ小さく頷いた。
「そうか、ありがとう。では聞かせて貰うけど、お嬢さんにとって有意義な本とは何かな?」
そう言われると返答に窮する。ひとしきり思案した後、私は小難しい文学小説だとか、大学受験用の参考書の名前を答えた。
「なるほど。お嬢さんはそういった本が好きなんだね」
好きと言われるとまた別である。ただ私がこういった有意義な本を読んでるのは——なんでだろう。埃っぽさもあり、何だか息が詰まりそうだ。
「.......お爺さんはね、地図を見るのが好きなんだ。地図には素敵な場所がいっぱい載っててね、見ていて凄く幸せな気持ちになれるんだ。お爺さんぐらいの年になるともうそんなに遠出は出来ないからね.......」
大きな窪みから覗く、小さな老人の瞳が微かに揺らぐのを見て罪悪感を覚えた。私はそっと自分の胸に手を当てた。
そんな私を見かねた老人は「おっと、これは失礼した。こんな話をするんじゃなかったね」と微笑みかける。
「お爺さんはね、こういった本を読むのが好きなんだ。どうかな? 大好きな本をじっくりと読む。これは有意義なことに入らないかな?」
「確かに、そうかもしれないですね」と私は返した。根暗で口下手な私にしても随分と抑揚のない返事だった。壊れたロボットみたいな。ロボットと言うのは無論、ゼンマイ仕掛けのブリキのおもちゃ。
老人は無理に返事をしなくていいのだよと言わんばかりの微笑みをこちらに向けた。老人の笑みは私の心を見透かしてるように見えた。イエスがもしこんな人で、私の前に現れたなら、私もきっと熱狂的で人情溢れる歯車の一員として朽ちることができたんだろう。
わからなくなった。人生において、有意義ってなんなんだろう。
「お嬢さんの中では無意義なことかもしれないけどね、お爺さんにとっては有意義で、とってもいいひと時なんだ。お嬢さんにとって有意義な時間はお勉強かな?」
老人は私の手に持った袋を指さす。
「邪魔をしてすまなかったね。そろそろ受験の季節かな? お勉強頑張ってね! お爺さん、応援してるよ。」
蛍光灯に照らされた、真っ赤な過去問集が、ベルベット制ストロベリームーンの如く、やけにギラついて見えた——
勉強に息詰まった。
受験直前の冬休みというのもあり、身も心も疲弊し切っていた。
家に居ても仕方がないので外へ出た。
空は晴れていた。とてもいい天気だ。
不思議と、肌身離れず一心同体に密着していた嫌悪感は感じなかった。引き換えに何だか物寂しい気持ちになった。
今度は家に戻りたくなくなったので少し歩いてみることにした。広い空の下をただほっつき歩いていると、お爺さんの言っていたことが少しだけわかるような気がする。
近所の喫茶店で、この前のお爺さんを見かけた。良くも悪くもこじんまりとした小さな喫茶店だ。お客さんが居る所なんて見たことがない。淡褐色と栗色で塗られたモダンなレンガの壁は、質素だがそれが逆に心地よい気がする。
お爺さんは私に気づくと笑顔で会釈した。私は無性に、お爺さんと話してみたくなった。
「ご、ご一緒しても、大丈夫ですか?」
普段私から人に話しかけることのないせいか、ひどくうわずった声が出た。お爺さんはにっこりと笑顔で「どうぞ。私で良ければ喜んで」と返した。
「し、失礼します......」
弦が一本だけ切れたギターのような金切り音を出してしまったことに対する面映ゆさもあり、私は縮こまりながら席に着いた。
「さて、こんな老いぼれとわざわざ相席しに来るってことは.......何か食べたいものでもあるのかな?」
お爺さんは揶揄うように尋ねた。
「いや、めっ、滅相もないです。ただ私はお爺さんとお話が.......」
「ハッハッハッ。大丈夫だよ。君のことはちゃんとわかってるから。君は正直者だからね」
正直者と言う単語が耳につまる。見ず知らずのお爺さんに対し、いきなりひどい失言しちゃうぐらいに無神経な自分が嫌で仕方なかった。落ち着く為、服の袖をぎゅっと掴んだ。
「でもただ話すだけじゃ飽きちゃうでしょう。アレルギーとかは無いかな?」
私は後ろめたそうな雰囲気を出しつつこっくりと頷いた。正直に言えば空腹で、何か甘いものを食べたい気分だった。
「このお店のチーズケーキは格別なんだよ。お爺さんが奢ってあげるから、良かったら食べてみないかい?」
私はさっきと全く同じ動作を返した。お爺さんはまた微笑みながら呼び鈴を鳴らした。チーンと風鈴を少し強くしたような音が響く。
お爺さんはチーズケーキを一つ、そして紅茶を一つ注文した。本当は珈琲が飲みたかったけど、何だか言いづらかった。
「......お爺さんは、食べないんですか?」
「うん。お爺さんはちょうどさっき食べたばっかりだからね」
そう言うとお爺さんは飲みかけの珈琲を一杯口にした。
「聞き忘れていたのだけど、お嬢さんの名前は何て言うのかな?」
一瞬口ごもった。私は、私の名前が嫌いだから。偽名でも伝えようかとも思ったけど、私はどうやら根っからの正直者みたいだ。
「私は、その......
「えびな ねね。そうか、お嬢さんは、えびな ねねさんって言うんだね」
「はい......変な名前ですよね?」
私は半ば自嘲しながら言った。言ってからまた後悔で、頭痛が痛くなる。比喩ではなく、本当に頭痛そのものが疼いた。眩暈に頭痛、倦怠感と耳鳴りにプラスして、ほんのちょっぴり隠し味に、必然なるカタストロフィへの諦観を加えれば頭痛の痛みの完成である。
きっとこんなこと言えばお説教が始まる。お爺さんが優しいからと油断していた。大人、特に老人の前で自分の名前を貶すことは自殺行為に等しい。「そんなことを言ったら駄目だよ。両親が一生懸命つけてくれた名前なんだから」と何度言われてきたことか。大人とは皆そういう奴らだ。
ところがお爺さんは、私の言葉を肯定も否定もせず、「確かに、珍しい名前だね」と返した。思いがけないお爺さんの言葉には、ある種の興奮すら感じたかもしれない。
「ですよねーっ。私の名前、海に思考の考に名前の名で海老名、音に猫で音猫って読むんですよ。そのせいで皆からうみねこって呼ばれてたんですよ。うみねこですよ。ひどくないですかー?」
思春期女子特有の——否全世界で女性のみに限定されるであろうコミュニケーションにお爺さんを巻き込んでしまったことを申し訳なく思った。しかしお爺さんは笑顔を崩さず「海に猫でうみねこか。うん、確かに珍しいけど、素敵なお名前だ。お世辞で言ってるんじゃないよ。私も嘘はつけないたちでね。」と返した。
お爺さんは窓の外を眺めた。私すら心地よさを感じざるを得ない青空をじっくりと眺めた。
「うみねこはこの辺じゃ見れないからねぇ。もう少し南の方に行けば見られるんだけどねぇ。音猫さんはうみねこを見たことがあるかな?」
私は首を横に振ろうとしたが、お爺さんが空から目を離さないので、一言「いいえ。ありません」とだけ答えた。
「そうか。じゃあ、うみねこというと悪いイメージが強いんじゃないかな?」
ごもっともだ。うみねこというと、姦しくて図太くて、ルックスも悪い害鳥というステレオタイプがあった。
「確かにね。お爺さんも最初は糞尿の被害もあって害鳥というイメージがあった——おっと失礼。お食事中だったね。」
お爺さんは、ばつが悪そうに咳ばらいをした。
「でもね、実際に初めてうみねこを目に焼き付けた時はね。本当に感動したんだよ。自分でもわからないのだけど。お爺さんは内陸出身だからね。海を見たのが初めてだったんだ。海はこんなに広いのかと。潮風というのはこんなに心地よいのかと。うみねこというと悪いイメージがあった。でも彼らはただの活気に満ちた若人さ。こんなにも美しい景色を、自由に飛び回ることができるとはね。あの時は本当に妬けたよ」
お爺さんは空を見上げ続けた。小さな小さな、黄色い目でじっくりと。嬉しそうでもあり、悲しそうにも見えた。
社会が嫌いだった。何の疑念も抱かせず、学校へ行かされて、社会に出させられて、歯車として生きるという社会構造が。それに一切の疑念を抱かず、能天気に生きる人々が。あの日見た取り巻き連中だってそうだ。どんなに無我夢中で足掻いたって何も手に入らない。だって私たちは社会という大きな渦にのまれてしまってるんだから——
暫くして真っ赤な紅茶と——淡い黄金色をキャラメル色で包んだ——小さなチーズケーキが一切れ出された。バラのように甘いダージリンの香り。そして何より、甘酸っぱく芳醇で濃厚なチーズの香り。極度の空腹状態にあった私は、お爺さんへの礼も忘れて、目の前の、甘い果実にかぶりついた。
頬っぺたが落ちるとは正にこのことだった。口いっぱいに広がるチーズの風味は、とろけた分だけ増していく。
なんて優しいお爺さんなんだろう。
「......そういえばなんですけど。お爺さんは何でエスカレーターを歩いていたんですか?」
不意に気になったので尋ねてみた。こんなに優しいお爺さんが、エスカレーターを平気な顔して歩く非常識な人物と同一人物だとは思えなかった。
「エスカレーターかい? はて、何のことだ?」
お爺さんは首を傾げた。
「はい。私と初めて会った日のことですよ。何か、変なうるさい連中が色々言ってたじゃないですか」
嫌なことを思い出させたかもしれないと。言葉に出してから気づいた。いつもそうだ。何回も怒られてきた。でもお爺さんは声を荒げたりはしなかった。
「あぁ、そんなこともあったねぇ。そうか、お爺さんはエスカレーターを歩いていたのか。それはいけないねえ。怒られて当然だったよ」
お爺さんは残りの珈琲を全て飲み干し、空になった、白い簡素なティーカップを机に置いた。コトンという音が何故だか脳にこだました。
「お爺さんはもうボケがひどくってねえ。
「ドライブ......そういえば、遠出がどうとか話してましたね」
お爺さんは黒の——これまたオーバーサイズな老眼鏡を手に取り、ティーカップの横に置いた。
「お婆さんとは、色々なところを旅した。私はそんなに外に出るのが好きじゃなかったんだけどねぇ。お婆さんが『行きたい行きたい』と言うものだから。私がいつも、車を出して、お婆さんの行きたいところを走り回った。お婆さんは本当に、うみねこみたいな人だった......」
お爺さんの目元の、皺々の大きな窪みが少しばかり潤っているのが見えた。
「だけどねぇ。私も年をとった。これ以上運転するのも危ないものだからと免許を返納したんだ。暫くは電車なり徒歩なりで遠出もしたのだけれど。お婆さんの足腰が悪くなっていってねぇ、あんまり外に出られなくなったんだよ。ちょうどその頃だったかな? 偶然本屋さんで見かけた旅先用のガイドブックを、お婆さんと二人で読み始めたんだ。本当に楽しかったねぇ。自分の足ではもう歩けないけど、私たちは自由だった」
言葉が詰まった。体中から感覚が抜けていく。自分のしでかしたこと、言ってしまったこと、罪の重さが形を成して押し寄せてくるようだった。鼓動が早まり、振動が全身へ伝わる。いつもそうだった。言ってしまってから気づくのだ。
「.......ごっ、ごめんなさい」
涙が溢れ出た。泣きたいのはお爺さんの方だろうに。
「ああ、ごめんね。責めたつもりでいったわけじゃないんだよ」
若干うろたえながらも、いつもと変わらず、優しく微笑みかけるお爺さんの笑みを見て、もっと大粒の涙が零れた。
私は何てことをしてしまったのか——
お爺さんが貸してくれたハンカチで鼻をかみ、私は漸く、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
「本当にすまなかったね。決して音猫さんを責めた訳じゃないんだよ」
「いえ......こちらこそ、すみません」
ふと時計と目が合った。気づいたらもうこんな時間だ。焦った様子の私を見たお爺さんは「おや、そろそろお時間かな? じゃあケーキだけ早く食べちゃいなさい。いらないならお爺さんが貰っちゃおうかな?」とまた揶揄うように言った。
「いえ、余すことなく頂きます!」
私は口いっぱいにチーズケーキを頬張った。傍から見たら、マナーのマの字もなかったのは明白だ。
「最後に、少し有意義の話をまたしようかね。ああ、決して音猫さんを責めてる訳じゃないからね。ただどうしてもこれだけは伝えておきたいんだ」
お爺さんはティーカップの隣に、きちんと、つるを下にして置かれていた老眼鏡を手に取り、しかるべき位置に戻した。
「音猫さんはきっと、人生に迷ってここに来たんだよね?」
思わず息を呑んだ。私でさえ忘れていたことを、何故お爺さんは知っているのか。
「わからない。違ったらごめんね。お爺さんの穿ちすぎかもしれない。けど、君は少し、昔のお爺さんに似てる気がしてね。お爺さんにはどうしても、若い頃のお爺さんに伝えたい一言があって、それを音猫さんに伝えてもいいかな?」
「勿論です」と私は答えた。
「音猫さんぐらいの年頃になると、今まで見えてこなかったものがいっぱい見えてきて、目が回っちゃうと思うんだ。これは誰だってそうなんだ。お爺さんも、音猫さんも。皆が平等に、露頭に迷うんだ。でも大丈夫。いつか必ず、自然と答えがわかる時が来るから」
「答えって.......?」
私は首を傾げた。
「人はね、有意義なひとときの為に生きるんだよ。いつか必ず来る、その時の為にね。でも有意義な時間っていうのは中々来ないものでね。誰だって待ちぼうけをくらうものなんだよ。人生っていうのは、大半が待ちぼうけなんだ。待ち続けて待ち続けて、ここぞという時にやっと来るんだ。ただし、これだけは伝えておきたい。君には今しかできないことがたくさんある。さっきお爺さんは『私たちは自由だった』と言ったね。あれは嘘だよ。本当はもっと、もっと、色々な所を自分たちの目で見たかった。君には自由がある。迷ってもいい。ただお爺さんは、君が自由に飛び回ってるところが見たい。うみねこのように自由に」
うみねこ、自由、有意義なひととき、人生、社会、受験。
私は何がしたいのか? 何がしたかったのか?
高校に入ってからは受験のことばかり気にしてて、受験が終わった後のことなんて考えられなかった。ただ大学に行って、社会に出て、道具のように使われて終わる——死ぬだけだと思っていた。
「......私、受験終わったら免許取る。そしたらお爺さんの行きたいとこ連れて行ってあげる!」
お爺さんは目を丸くしたが、すぐにまた微笑み「ありがとう。でもお爺さんは君が自由に飛び回る姿が見たいんだよ。大事な愛車に乗せるんであればこんな老人ではなく、誰かいいパートナーを見つけて連れて行ってあげなさい。ドライブじゃなくてもいいんだよ。何か君とパートナーの子にとって有意義な時間を作れたら」
「確かに、そうかもしれないですね!」
私にしては元気よく答えた。それから続けて「じゃあ、お爺さんがパートナーになってくれますか?」と私にしては攻めたジョークをかました。お爺さん高らかに笑い声を上げた。
赤いケヤキの扉を開けて、店を後にした。空は変わらず雲一つない晴天だった。
「ありがとう。今日の音猫さんとのお茶会は、とても有意義な時間だったよ」
また溢れ出しそうになる涙を堪えて、私はお爺さんに大手を振った。大手を振るなんて経験は初めてだったかもしれない。お爺さんは小さくも、笑顔で、手を振り返した。
とても有意義な時間だった。口元に微かに残る、甘い甘いケーキの残り香が物語る。
これはちゃんと言っておくべきだったな。いつかまた会えるって思ってたのに——
お爺さんはもう先が長くなかった。私の受験が終わった頃には既に他界していた。
大学は結局、元々の第一志望には行かず、中堅くらいの、それなりの所に進学した。髪は肩くらいの長さに揃えた。毎晩欠かさずヘアオイルを浸透させた。ヘアアイロンで前髪を作り、服を揃えて、メイクもするようになった。天性の芋っぽさは消えはしないが、大学では顔がいいせいかそれなりにモテた。でもいい人は見つからなかった。お陰で恋人よりも先に免許と対面することになった。
サークルの飲み会などにも参加してみたけど。結局ひとりでドライブすることにした。今日は湘南の方まで行こうと思う。初めての海、初めてのうみねこ。そう考えると、受験の時の緊張が蘇ってくるようだ。
「ハンカチ......返し忘れちゃったな.......。でも、鼻かんだハンカチなんか返しても、迷惑だよね」
お爺さんから貸して貰ったハンカチをシートフックにかけた。
——ハンカチは潮風に吹かれて、静かに波打った。
今は一人だけど、まだまだ若いから焦らなくていいんだ。だって人生は待ちぼうけ。いつかきっと、あの日みたいな有意義な時間を見つけるんだから。
老人とうみねこ こはく @kohaku17
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます