境界少女と灰色のパースペクティブ

砂東 塩

境界少女と灰色のパースペクティブ

 SFは好きだけど嫌いだ。学校と同じくらい。夢を見させて、あとで現実を突きつける。あなたが見てたのは現実じゃなくて幻想だったのよと嘲るように、世界は突然裏返る。その裏側は表と地続きで、幻想が現実のあたしを苦しめる。夢なんて見なければ、無駄な期待なんてせずに生きてられたのに、夢を見たぶんだけ内側が抉られる。外側は何も変わらない。

 どこでもドアはフィクション。だってアニメだから。でも、サンタはいるはずだった。クラスの大半がいないって言っても。クリスマス・イヴに赤と緑のリボンで包装された箱を親から渡されて、翌朝目覚めて枕元に何もなくて泣いた。あたしはもうサンタのいた世界には戻れない。

 タイムマシンはまだない。いつか発明されるかもしれない。宇宙には行けている。でもロケット打ち上げは失敗することもあるし、積まれた希望と夢はときに地上で燃え尽きる。宇宙ステーションから帰還した宇宙飛行士のリハビリ風景が、介護施設に入居中の祖母と重なった。夢の対価と責任と犠牲と信念なんかを、スマホを眺めながらぼんやり想像した。ベッドに寝転がって。

 保健室のベッドを仕切るカーテンが、午後の陽を透かして梢の影をユラユラと揺らす。波状のスクリーンは現実の形を写し取らない。ところどころ染みのついた薄っぺらな布の向こうの世界は、あたしの世界と地続き。最悪なことに。

 窓側のカーテンを半分引き開けた。夢が見えた。そう、あれは夢。入学以来、あたしにだけ見えてるSF。枯れたはずの噴水から溢れ出る水が、空中高く舞い昇って無数の渦を描き、飛沫が陽光を屈折させて幾何学模様の虹をつくっては消えていく。水流を上り、下り、跳ね、音もなく乱舞する何匹もの魚は、鮮やかな朱色、艶めかしい鈍色、白地に赤と黒の斑点を飾った錦鯉。朽ち、崩れたはずの縁の煉瓦は、時に真新しい赤茶色で、あるときは年季の入った趣ある古色だった。その縁に、女生徒の姿。座っている時もあれば、立っていたり、寝そべっていたり、水に足を浸し、泣いて、笑って、唇を震わせてうつむき、髪を濡らし、制服を汚し、頬に打たれた赤い痕をつけて。

 ――キョウカイ少女。学校ではそう呼ばれている。入学前に耳にしてSF脳が「境界」と変換したけど「教会少女」だった。

 うちの学校は二十年ほど前までミッションスクール。壊れた噴水のそばには当時のまま礼拝堂が残されている。取り壊そうとした作業員が怪我をしたとか、当時の学長の夢に血だらけの女の幽霊が出てきて取り壊しを止めるように言ったとか。先生はみんな「そんなの嘘」と言う。当時の新聞を調べても事故の話なんて載ってない。ネットには、礼拝堂前の噴水でイジメにより溺死した女生徒の幽霊のことが書かれている。全国各地の怪異現象や幽霊スポットを集めたサイトに、学校名が伏せられた状態で。

 でも噂はただの噂。誰も信じていないし、すでに忘れ去られかけている。だって、みんなにはあれが見えない。溢れ出る水も、滝登りする鯉も、ミッションスクール時代の制服を着た少女も。見えているのは枯れた噴水、崩れた縁、煉瓦の隙間からヒョロヒョロ生える朱色のポピー、古びて蔦の絡んだ礼拝堂、割れた窓ガラスに貼られたガムテープ、薄暗い室内の、窓縁の蜘蛛の巣、死んだ蛾。

 境界――、教会少女は昼にだけ現れる。なにげなく校舎裏に立ち入った生徒がふと振り向くと、噴水から勢いよく水が溢れ出し、美しい女生徒が水と魚を操り津波のような水流が生徒を襲い、溺れたと思った瞬間すべてが忽然と消える。

 ちょっと話を盛り過ぎだ。あの子よりあたしのほうがよっぽど美人だし、少女は水にも鯉にも興味を持ってない。それに、津波に飲まれるどころか、あたしは飛沫一滴すら触れることができない。もちろん少女にも。教会少女の名札には「泉」と書かれていた。泉は虐められていたのだろうか。あたしみたいに。

 クラスLINEの、あたしと瀬戸という男子を嘲笑う書き込みのスクショを送ってきたのは女子グループの中心にいる結衣。いつの間にハブられたのかわからない。

「しばらくしたらおさまると思うからゴメンね」

 ゴメンで済ませたいのは加害者。結衣とは二年になってから仲良くなって、一カ月くらい前に教会少女が見えると打ち明けた。数日して結衣の態度がよそよそしくなり、気づけばハブられていた。あたしは虚言癖のヤバい女。瀬戸は怪奇部を自称し教会少女を調べる変わり者で、本ばかり読んで人とつるまないからクラスの無視と疎外にも気づいてないっぽい。ひょろメガネ宇宙と交信中――スクショにあった瀬戸関連の書き込みに宇宙人グレイのスタンプが連打されていた。そのクラスLINEの存在を、あたしは瀬戸に教えない。そして、保健室のカーテンで境界線を引く。

 人間のつくった境界線は意味がない。境界を越えてもそこは繋がった同じ地平。なんちゃって境界で仕切って内側の世界で威張る井の中の蛙。結衣だけじゃない、あたしも、みんなそう。三日前、久しぶりに届いた結衣からの個人LINE。無視してたら未読件数が二十四になっていた。結衣が先に線を引いたのに、簡単に越えれるなんて思わないで。

 泉は噴水の縁に腰かけ、隣の誰かと楽しげに話してる。楽しそう。波に隠れて相手の顔は見えない。視線を外してもう一度見る。泉は水に足を浸して何か探していた。手を突っ込み、濡れた上履きを取り上げる。

 あたしが見てるのはミッションスクールに通う一人の女子高生の過去。たんなる過去じゃなくて、あり得たあらゆる過去。残酷な世界線と、未練がましく揺蕩う夢。そう思う理由は、あまりにもたくさん見てきた少女の幻影が、うまく繋がらないから。

 昔SF小説を読んで、境界を越えて並行世界パラレルワールドに行けたらと本気で考えていた。そこがここより素敵な世界だなんて、どうして信じられたんだろう。幻想。世界ガチャ。失敗したら、あたしは泉になるかもしれない。

 ぼんやり噴水を眺めていると、校庭のほうから教頭が業者を連れて歩いてきた。作業着の男たちは噴水と廃礼拝堂を囲うように金属製の杭を打ち、黄色いロープを張っていく。ついでのように雑草を抜いて放り、ポピーも無残に捨てられた。あたしはそれを下校のチャイムが鳴るまで眺めていた。担任と養護教諭の高野先生が一緒にやってきて、森居さん体調はどうと聞いてくる。まあぼちぼちというあたしの曖昧な言葉は曖昧なまま。灰色グレイのままにしておくのが大人のやり方。ぶつからないように煙に巻いて、視界の悪い霞んだ場所に佇めば、あたしはあっち側にいると錯覚できる。境界の向こうの二年三組に。


 あと二日で夏休みだった。早く過ぎればと願うほど時間はゆっくり。午前中で終わる授業を二時間目に貧血と言って抜け出し、保健室の扉を開けた。高野先生がキィと椅子を軋ませて振り返る。白衣の、同級生のお母さんみたいな雰囲気の、どこにでもいそうな中年のおばさん。

「撤去するんですか?」

 あたしは黄色い規制線に囲われた噴水と礼拝堂を指さした。高野先生は夏休みにねと答えて、寂しそうな目。ミッションスクール時代の卒業生らしい。

「泉って子、虐められてたんですか?」

 先生の座った椅子が、ギギッと嫌な音を立てる。立ち上がった先生はあたしよりもほんの少し背が低い。困惑、動揺、逡巡、唇が開きかけて閉じ、ぎゅっと引き結ばれ、先生の手があたしの腕に触れた。

「見えるの?」

「先生は見えるんですか?」

 問い返すと先生の肩がふっと下がる。

「その名前、誰から聞いたの?」

「ネットで」

「嘘ね。どこにも出てないはずよ」

「どうして断言できるんですか?」

「だって、森居さん見えてるでしょう?」

「見えるって言ったら、クラスでハブられたんです」 

 あたしの言葉に先生はハッとし、そらされた目は噴水へ。そして、あたしと先生は噴水に近づく人影に気づいた。体育倉庫のほうから歩いてくる瀬戸。いつもブツブツ独り言を言ってる姿は、クラスメイトに宇宙交信中と揶揄されている。今もそう。うつむきがちに、地面に向かって喋っている。瀬戸は体操服を着ていた。そういえば二時間目は体育。

「授業中にどうしたのかしら」

「瀬戸もハブられてるんです。本人気づいてないかもだけど」

 高野先生の顔が曇る。ちょっと行ってくるわと、あたしを残し保健室から出ていった。

 礼拝堂と噴水は校舎の陰。噴き上がる水飛沫はレフ板でもかざしてるみたいに眩しく燦めいている。瀬戸は日陰を歩いてる。顔はあげないで、たまに体育倉庫の方を振り返る。未練がましそうに。怪異調査に来たわけではなさそうだ。高野先生の姿はまだ見えない。

 噴水と廃礼拝堂を囲う規制線は、泉という展示品を守るロープ。手を触れないでください。中には入れません。鑑賞するだけ、干渉はだめです。瀬戸の足がロープの前で止まり、首を傾げる。わずかに身を乗り出した瀬戸の頭上から水が降り注ぐ。視線は黄色いロープに注がれている。朱色の鯉が鼻先を舐めるように泳ぐ。彼は気づかない。不可視不可触インスタレーション。瀬戸が顔を上げる。そして、泉が溢れ出した。ロープを越えて。

「えっ?」

 あたしは窓に駆け寄った。尋常でない量の水。津波のようにすべてを飲み込み、瀬戸は尻もちをつき、鯉は水流に乗って湖と化した校舎裏を悠々と泳ぎ、泉はうねりの中で何かを探し、笑い、誰かと話し、泣き、佇み、虹の先の空を仰いだ。何人もの泉が規制線を越え、青春よろしく足元に水飛沫をあげ、そのうち一人が保健室の窓へと駆けて来る。瀬戸は水の中で口を半開き。

 あたしは窓を開ける。水浸しの、無数の渦を巻いた校舎裏の地面。飛び込んだら、あの渦に吸い込まれて並行世界に吐き出されるだろうか。そこは素敵な世界だろうか。そんなはずない。噴水の縁に立って虚ろな眼差しで校舎を見上げる泉の、聞こえるはずのない慟哭が聞こえた。幻聴? 無言の叫びがあたしの内側を抉り取る。あたしの内側と泉の絶望が地続きになって、このまま死んでしまいたい。泉があたしを見、あたしは窓を飛び越えた。瀬戸は気づかない。あたしは駆け出し、水に足をとられて転んだ。膝から血が出た。かまわず立ち上がり、叫ぶ。

「死んじゃだめ!」

 瀬戸が振り返った瞬間、溢れ出した水が消えた。泉は一人だった。煉瓦の縁に立って、校舎を見上げていた。

「森居さん」

 長めの前髪に丸眼鏡、青白い顔。瀬戸だ。その肩越しに、サーフィンできそうな見事なチューブが生まれ、鯉がその中を滑り、泉の顔は瞬きのたび表情が変わる。歓喜、悲哀、憤怒、困惑、慈愛。土を蹴る足音がして、「怪我したの?」と高野先生の声。続いて「瀬戸!」と体育教師。瀬戸は後ろ髪引かれるように何度もこっちを振り返り、体育倉庫脇を抜けて校庭に戻っていった。あたしは混乱している。なぜ、あれほど触れようとして触れられなかった水に触れられたのか。境界に何が起きたのか。


 保健室で高野先生に手当てしてもらっていると、二時間目の終わりを告げるチャイムが鳴った。森居さん体調はどうと聞いた高野先生の声のトーンに違和感。教室に戻れと促すような。いつもはそんなことないのに。あたしが黙っていると困った笑みを浮かべる。休憩時間の廊下は騒がしくて、失礼しますの声と同時に扉が開けられても最初は気づかなかった。それが結衣だなんて。結衣だけじゃなく、クラスメイトの女子が他にも三人。

「森ち、怪我したって?」

「生理痛に怪我なんてツイてないじゃん」

「大丈夫?」

 何もなかったみたいに、結衣も他の子もベタベタあたしに触ってくる。なんで? 

「みんな、なんで?」

「なんでって? 心配して来たんじゃん。ガッコ終わったらみんなでカラオケなのに、森ちゃん来ないとさみしいし~」

「カラオケ? 今日?」

 結衣たちが怪訝そうに顔を見合わせる。あたしの内側はざわざわと怪しく波立った。何か変だ。

「森ち、体調悪くてぼんやりしてる? 森ちも行くって言ったじゃん、ほら」

 結衣がLINE画面をこっちに向けた。あたしのアイコンの横に、書き込んだ記憶のない「もち行くに決まってる」。

 あたしは自分のスマホで確認する。ピン留めされたグループ「2年3組」のすぐ下に、見たことのないグループ「☆ニノさん☆」。トーク履歴に「宇宙と交信中」という文字と、宇宙人グレイのスタンプ。結衣からのメッセージはすべて既読。いくら遡っても、あたしがハブられた証拠のスクショは見当たらなかった。

「ごめん、なんか熱っぽいし、インフルかもしんないからカラオケはやめとく」

「えっ、マジ?」

 そう言いながら一歩下がり、さりげなく口元を手で覆う。高野先生は授業が始まるわよと彼女らを追い出し、体温計をあたしに渡した。もちろん平熱だったけど、教室に戻れとは言われなかった。

「泉って子、虐められてたんですか?」

 机に向かって何か書いていた先生の手が止まり、椅子がギギッと嫌な音を立てる。困惑、動揺、逡巡、唇がかすかに震え、先生の手があたしの腕に触れた。

「見えるの?」変だ。さっき言ったじゃん。

「見えます。でも見えるって言ったら、クラスでハブられるんです。瀬戸は幽霊のこと調べてハブられてる」

「森居さんは仲間外れにされてるわけじゃないでしょう?」

 結衣たちのことを言っているようだった。目の前にいる高野先生は、あたしが保健室に入り浸ってたことを忘れてる。忘れてるんじゃなくて、たぶん知らない。

「先生。泉って子、自殺したんですか? 屋上を見上げてるんです。噴水の縁に立って、無表情で、疲れて、諦めたみたいな顔で。でも、隣に誰かいて、楽しそうに笑ってるときもある」

 先生が噴水を見た。見えるんですかと聞くと、先生は事故だったのよと答えた。そのあと、「たぶん」と。

「泉さんは虐められてた。私は彼女と同じ中学で、高校ではクラスが違ったけど、時々相談に乗ってたの。ある日、泉さんが噴水の中で死んでしまった。水は膝ほどの深さもなかったし、遺書もなかった。自殺のはずはないわ。他殺の痕跡もなかったみたい。煉瓦に血がついてて、足を滑らせて頭を打って、意識を失ったまま水に落ちたんじゃないかって」

「じゃあ、あたしが見た泉さんの話相手は先生ですか?」 

 高野先生は、どこか申し訳なさそうに首を振る。そうだったら良かったんだけど私が彼女と会ってたのは図書室、私の願望が幽霊を生み出したのかしら。そうかもしれない。そうじゃないかもしれない。先生が、頬を赤く腫らした泉を見たいはずがない。

 保健室のベッドに寝転がっていると結衣からLINEがあった。いつもの癖でスルーしようとしたけど、メッセージを送ってきた結衣は、あたしをハブった結衣じゃない。たぶん。でも、教会少女が見えると言ったら? あたしはまたハブ?

「森ち熱あった? やっぱカラオケむりそ?」

「熱ないけどめまいするからやめとく

 瀬戸なんか言ってた?」

 すぐに既読。数分後に、?付きで首をかしげるウサギのスタンプ。その数分のタイムラグは、境界を曖昧にするグレーの靄。今あたしは境界を跨いでる。

 保健室に持ってきたはずのカバンがなくて、四時間目が終わってしばらくしてから教室に向かった。「☆ニノさん☆」のチャットはカラオケの話で盛り上がってる。チャリ通組が先に着いて、早く来いよ、先に入ってる、ハラヘッター。参加者はクラスの半分、残りは部活とか大人しくてノリの悪い男の子女の子。そのどこにも属さない瀬戸が、渡り廊下を向こうから歩いて来た。あたしが立ち止まって踵を返すと、足音。駆け足の。あたしは逃げた。よくわからないまま、衝動のまま、渡り廊下の途中で外に出て、体育倉庫の横を通って校舎裏に行った。確かめたかったんだ。どうして――。

「森居さん!」

 追いかけてくる瀬戸は、あたしの知ってる瀬戸だろうか。それとも、あたしが弾かれなかった世界の瀬戸だろうか。答えはなんとなくわかってる。たぶん瀬戸も。

 規制線の前で足を止めて、境界の向こうに手を伸ばした。噴き上げ、波打つ水はそこにあるのに、磁石のN極とN極みたいに、あたしの指先が触れるのは水ではなく空気。密度の濃い圧縮空気に阻まれる。泉は本を読んでいた。校舎に背を向け西側の縁に座って、ボードレール『悪の華』を。

「森居さんは、教会の幽霊が見えてる?」

 いつの間にか瀬戸が隣に立っていた。ロープの向こう側に伸ばしたあたしの手の十五センチくらい下で、白く長い指をブラブラ。波の中で鯉の尾ビレのように泳ぐ彼の手は、水の流れを少しもかき乱すことはない。

「瀬戸にはポピーが見える?」

「ポピー?」

「雑草。ヒナゲシ。道端とかに生えてる。ヒョロっとした茎のオレンジ色の花」

 見えないけどと、瀬戸はあたしの視界の端で首を振った。彼はこっち側、波はあっち側。瀬戸に見えてるのは枯れた噴水。あたしにはあっち側が見えてるけど、あっち側には行けない。二時間目に溢れ出した大波は瀬戸も見てた。駆ける足にまとわりつく水の感触もあったのに、今とあのときで何が違うの?

「カラオケ、行かないの?」と瀬戸。

「瀬戸は行かないの?」

「誘われてないから。でも、森居さんが行かないのは残念って言ってた。女子が」

「変だよ。瀬戸も気づいてるでしょ。あたし、今朝までハブられてたのに」

 瀬戸の視線が、じりじりとあたしの頬を焼いている。謝られたりしてないの、と彼は聞いた。ああ、そっか。瀬戸の世界は変わっていない。瀬戸の入ってるクラスLINEは、今も、前の世界でも「2年3組」だけ。「☆ニノさん☆」はない、宇宙人グレイのスタンプ連打を彼は知らない。クラスメイトの様子がおかしくても、仲間はずれが自分ひとりになっただけ。瀬戸がちょっと遠くなった。瀬戸だけが同じ世界だと思ったのに。

 手を引っ込めて、LINEを開いて「☆ニノさん☆」から退会した。結衣に、あたし教会少女見えるんだって送る。あたし、バカじゃん。せっかく戻れたのに。――戻れた? どこに?

 瀬戸はあたしのまわりをウロウロしてた。

「瀬戸も見たでしょ? 水浸しになったの」

「えっ、あっ、うん」

「あのあとみんな忘れちゃったの。あたしをハブってたこと」

「えっ、忘れた?」

「トーク履歴に書いた覚えのないこと書いてるの、あたしが。あたし、この世界ではハブられてなかったみたい。瀬戸はどっちの世界でも同じみたいだけど」

 瀬戸は言葉を探して視線をふらふら彷徨わせたけど、捕まえられるのは「ああ」「うん」感嘆詞ばかり。独り言は流暢なコミュ障。瀬戸にはなんでこれが見えないのと聞くと「さあ」。じゃあなんで二時間目には見えたのと聞くと「さあ」。なんで教会少女のこと調べてるの。この質問がスイッチだった。

「怪奇現象って科学が進歩してもなくならないじゃん。昔より減ってるかもしれないけど、でも幽霊を見たって人はたくさんいる。夜中とか墓場とか寂れた神社や町外れのトンネルや三叉路じゃなくても、昼間の公園で久しぶりに顔見知りの夫婦に会って声をかけたらいつの間にか奥さんがいなくなってて、聞いたら去年亡くなってたとか。レストランで子ども用取り皿出したら怪訝な顔されて、店員には亡くなった子どもが見えてたとか。魂の重さは二十一グラムって言われてるよね。あれは汗とか水蒸気の重さも入ってるかもだけど、魂の重さもほんのちょっとくらいある気がするんだ。それは物質というよりエネルギーがギュッと詰まったもので、その密度が重さの変化に関係してるんじゃないかって。幽霊話が全部見間違いや法螺話って決めつけるほうが無理がある。教会少女はいるし、少女には噴水が関係してる。噴水もうじき撤去するらしいから――」

「それで体育の授業抜け出したの?」質問で瀬戸の言葉を堰き止めた。瀬戸はうろっと目を泳がせ、違うよとつぶやく。

「体育でペア組む相手がいなくてコソッと抜けた。噴水が撤去されるってのは体育の授業の終わりに先生が言ったんだ。朝まではこのロープもなかったし」

 瀬戸が規制線の向こうに手を伸ばした。いつの間にか泉がすぐ目の前に立っていて、あたしは咄嗟に瀬戸の手首を掴む。ざぱんと水が跳ね、瀬戸と目が合った。

「そこ、泉がいるから」

「泉?」

「教会少女。高野先生の友だち。事故死だって」

 イジメのことは言わない。唇が切れてることも、制服に泥がついてることも。泉は神を恨んだだろうか。あたしは無神教だからよくわからないし、ボードレールの詩篇から詩人の苦悩をちゃんと汲み取ることができたとも思わない。瀬戸の「ああ」のほうがむしろ。

「ああ」

「ああって何?」

「事故死した女生徒の名前はわからなかったけど、高野先生と同級生だったってことは知ってた。僕、怪奇部だから。取材申し込んだら断られたけど、高野先生も見えてるかもしれない」

「見えないって。どうしてあたしには境界の向こう側が見えるのかな」

「教会の向こう? 手前じゃなくて」

「その教会じゃなくて。この世界と向こうの世界の境界。泉のあらゆる可能性が無数に存在してるあっち側。あたしが見てるのはあの世じゃなくて、隣の世、並行世界パラレルワールド。たぶん。瀬戸がここで尻もちついたときその世界が溢れ出して――」瀬戸がアッと声をあげた。

「境界。あのとき僕、境界線だって思った。この黄色いロープが見えて」

 ぐわんと目の前で水面が盛り上がった。うわっと瀬戸が声をあげてあたしの腕を掴む。津波。のまれたらまた別の世界に行くだろうか。そこはあたしがハブられてる世界? それともハブられてない? 瀬戸は、何も変わらない気がする。ふたりなら越えられるのかもしれない。可能性が重なるから。境界が揺らぐのかも。――でも。

 背よりもずっと高い波が落下しはじめる直前に、あたしは掴まれたのと反対の手で瀬戸の顔をこっちに向けた。眼鏡の奥で大きく見開かれた目。頬がカアッと赤くなる。朱色の錦鯉みたい。足元のポピーみたい。

 波は霧のように散って幾何学模様の虹が視界の隅で踊り、泉が何をしてるのか確かめないまま、瀬戸の手を引いて校舎裏を離れた。瀬戸は興奮気味にいろいろ聞いてきたけれど、あたしはうまく言葉にできずに「さあ」。

 体育倉庫の横で瀬戸が噴水を振り返る。見えるとつぶやく。結衣からLINEが来た。

「退会になってるのなんかあった?

 グレイとは関わらないほうがいいよ

 キモいから」

 世界は変わったのに何も変わらない。前の世界のあたしが無駄な期待は捨てろと囁く。また夢を見る。内側がざわめいている。瀬戸はあたしを裏切るだろうか。 

「森居さん、カラオケの誘いじゃないの? 行ったら?」

「あたしをハブったやつらと?」

 あたしはそんなに器用じゃない。行きたいなら瀬戸が行けばいいじゃんと言ったら、彼は口の中でモゴモゴ。歌うのは嫌いじゃないんだけど、みたいなことを。

 夏休み前の最後の日は学校を休んで一人カラオケに行った。学校が終わった頃に瀬戸を呼び出して、『残酷な天使のテーゼ』を歌った。クラスの雰囲気は昨日と変わらなかったらしい。校舎裏の規制線も、境界少女も。結衣のLINEはあれから来ていない。あたし、バカじゃん。

 夏休みが終わった後のことを考える。青春SFの舞台はたいてい夏で、もしかしたら宇宙人グレイが攻撃してきて世界は滅亡するかもしれない。瀬戸が宇宙人と交信してそれを食い止めるかもしれない。瀬戸は噴水が撤去されるとこ見に行かないかと言ったけど、あたしは行かないと言った。なんとなく。そうすれば噴水はまだあるから。泉は笑ってるかもしれない。

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境界少女と灰色のパースペクティブ 砂東 塩 @hakusekirei89

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