十二歳で吸血鬼として目覚め、この世界はもう同じではない
ペンギン
第1話 「侵食する記憶」
それは、予期せぬ出来事だった。
最初は何も分からなかった。だが次第に、溢れ出すように記憶が蘇ってきた。
忘れたはずの、かつての人生。
今となっては、それさえどうでもよかった。
木の根元に腰を下ろし、地平線を眺めながら、僕は自分が人々の言う「転生」を経験したのだと理解した。
あるいは、ただの幻覚だったのかもしれない。
それとも、明晰夢を見ていただけなのだろうか。
ヴィクトル・ヴォルトラート。
それが俺の名前だ。
それが、俺だ。
息をつくたびに、現実感が薄れていく。
今の俺が本当の俺なのか、
それとも、もう一人の俺は子どもの頃に作り出した記憶なんじゃないのか。
風が頬に当たる。
冷たくて、土とか木の匂いがする……。
今、十二歳の俺は、
ちょうど一か月前に記憶を取り戻してから、
何もかも疑うようになった。
俺は、誰なんだ?
俺はヴィクトル。
ヴォルトラート家の三男だ。
名の知れた貴族の家系。
この名字には、ちゃんと重みがある……はずなのに、
なんで俺は、こんなにも全部を疑ってるんだ?
頭の中を、何度もよぎる言葉がある。
――ヴァンパイア。
あの記憶の中では、
ただの作り話で、都市伝説みたいなものだった。
でも今の俺は……。
俺は、ヴァンパイアだ。
しかし、この場所では……僕たちはそう呼ばれていない。
ここには、別の呼び名がある。
「……あいつら、こっちでは何て呼ばれてたっけ? 喉元まで出かかっているのに、思い出せない」
とにかく。
実存的な危機について思考を巡らせようとした、その時――
「ヴィクトル」
声のした方へ振り向いた瞬間、思わず息をのんだ。
長い髪の、美しい少女が、興味深そうにこちらを見ていた。
「……え? アレクサンドラ……」
知ってる。
そうだ、知ってる……彼女のことは。
僕の、あからさまにうんざりした視線に気づいたのか、
彼女は不機嫌そうに眉をひそめた。
「ちょっと、何よその目。
なんでそんなふうに見るの?」
「え……なんで、ここにいるんだ?」
「家まで行ったんだけど、誰もいなかったの。
使用人に聞いたら、ここにいるって言われて」
「え……ああ、そうなんだ。
それで、何か用でもあったのか?」
「ううん。特にないわ。
ただ、会いに来ただけ」
アレクサンドラ。
一年前に知り合って、婚約している相手だ。
貴族同士の、よくある話。
それでも――
彼女が時々、こんなふうに突拍子もない行動を取る理由は、
正直、よく分からない。
何も言わずに、彼女は僕の隣に腰を下ろした。
その肩が、そっと僕の肩に触れる。
アレクサンドラ・ガルドリット。
名門貴族の家に生まれた少女で、
両親の判断で、政略的に婚約が決められた。
僕は必死に拒んだんだけど……。
彼女は、まったく気にしていない様子だった。
「ねえ、ヴィクトル……」
「……何?」
「この前さ。
あなたの隣にいた、あの女の子……誰?」
この前……。
記憶を辿ろうとしながら、僕は彼女の横顔を見る。
綺麗だ。
彼女みたいな人と婚約できるなら、
きっと、どんな男だって喜ぶだろう。
長いまつげ。
溶けた溶岩みたいな、深紅の髪が、絹のように流れている。
ヴァンパイアと、人間……
こういう婚約は、別に珍しい話じゃない。
今までにも、何度もあった。
人間って、たまに亜人の女の子に惹かれる傾向があるらしい。
まあ、個人的には――
猫は大嫌いなんだけど。
「ねえ、ヴィクトル。ちゃんと聞いてる? 」
「ん。妹だよ。知ってるだろ。喧嘩のきっかけを探すのはやめろ」
「ち、違うわよ! 喧嘩を売ってるわけじゃない! ただ聞いただけ!」
「はいはい」
人間の行動は、よく分からない。
だが、思い出してはいけないはずの記憶を取り戻してから、
俺は、ある感情を抱き始めていた……。
「変わったわね、ヴィクトル」
「何も変わってない」
「ううん。今は――」
彼女の頬が赤く染まった。
そして、からかうような笑みを浮かべて言った。
「――前より、もっとバカに見える」
「おい」
「前はもっと……なんて言えばいいのかしら。
でも、今は前より話しやすくなった気がする」
「ただ諦めただけだよ。
お前は俺の婚約者なんだし、うまくやらなきゃいけないだろ」
「……本当に、それだけ?」
いつの間にか、肩と肩の距離がなくなっていた。
布越しに、彼女の体温が伝わってくる。
人間は、悪魔よりも怖い。
俺は立ち上がり、街の方へ視線を向けてから、彼女を見た。
彼女はまだそこに座っていて、頬をわずかに赤らめている。
「アレクサンドラ」
「ん? なに?」
「……この婚約、本当にいいのか?」
「どうして、そんなこと聞くの?」
彼女の表情が変わった。
他人の気持ちを確かめるのは、時には大事だと聞いたことがある。
「えっと……出会ってから、まだ一年だし。お前は――」
「……私のこと、好きじゃないの?」
「ち、違う! そういう意味じゃない!
お前は……か、可愛――」
「声に出して言わないで!」
勢いよく、彼女は立ち上がった。
その瞳は、感情と羞恥が入り混じったように輝いている。
くそ、くそ……可愛すぎるだろ。
この感情は、いったい誰のものなんだ?
彼女は、どこか傷ついたような仕草で俺を見た。
「……私と、結婚したくないの?」
「ち、違う。ただの確認だよ。
もし、お前が望んでないなら――」
「ばかっ!
どうして、あなたと一緒になりたくないわけないでしょ!」
一瞬、言葉に詰まってから、彼女は勢いよく続けた。
「だって、私にとって一番大事なのは……!
ヴォルトラート家の財産なんだから!」
「……え?」
心配した俺が、どう考えても馬鹿だった。
彼女が、ヴォルトラート家の領地を治めるだの、
そのために俺が必要だのと大声で語る中、
俺は何も言わず、静かにその場を離れた。
帰り道。
どういうわけか、胸がどくどくと鳴っていた。
――本当に、意味が分からない。
◇
二時間ほど歩いて、ようやく家の近くまで戻ってきた。
今まであまり意識したことはなかったが、
この街はかなり大きい。
人型種族すべてを含めて、人口は一千二百万人にも及ぶ。
その間ずっと、俺はアレクサンドラが手をつなごうとするのを、
黙って、辛抱強くかわし続けていた。
もっとも、彼女自身も、
それほど本気でつなぐ気があるようには見えなかったが。
その間、俺はずっと足元に視線を落としていた。
周囲を眺めながら、つい比べてしまう。
この街は、悪くない。
生活水準も低くはない。
もっとも、郊外は別だが。
少なくとも、
道を我が物顔で走り回る、
車輪のついた機械は存在しない。
必要以上に騒音を立てることもなく。
……まあ、似たようなものは、いくつかあったけど。
馬に引かれて走るやつだ。
「なに考えてるの?」
興味深そうなアレクサンドラの声が、
俺を現実へと引き戻した。
「別に、何も。
少数派の暮らしぶりを眺めてただけだよ」
「そういえば、ヴィクトル。
どんな魔法、使えるの?」
魔法……。
内に宿る力を使って、現象を引き起こすものだ。
それを扱えるのは、ごく一部の者だけ。
都合よくも、それは上流階級と中流階級に限られている。
肩をすくめて、俺は答えた。
「……基礎だけだよ」
「じゃあ……あなたたちにしか使えない、特別な能力は?」
きっと、ヴァンパイアの能力のことを指しているんだろう。
長い寿命。
そして、人間をはるかに上回る、
力、速度、耐久力。
……正直なところ、
そこまで胸が躍るものでもない。
それでも……。
魔法が使えると知っただけで、
胸の鼓動が早くなる。
内側のどこかから、
確かな高揚感が湧き上がってきた。
きっと、あの記憶のせいだ。
今までなかった感情が、次々と現れる。
好奇心。
喜び。
そして……羞恥。
そんな安っぽい感情を、
俺みたいな存在が抱くはずがないのに。
「えーと……特別なものは特にないな。
お前たちより優れている、ってこと以外は」
「それ、すごく高慢じゃない?」
「事実だ。
俺たちの種族は、全員が完璧だからな」
「……本気で言ってるの?
じゃあ、何がどう完璧なの?」
「全部だ」
「それ、答えになってないわよ。ヴィクトル」
アレクサンドラは、俺の予想もしなかったことをした。
油断していた隙を突いて、彼女は俺の手を取った。
「変わったわね、ヴィクトル」
「だから違うって言ってるだろ!
俺は昔から何も変わってない!
離せ!」
何をするつもりだ?
まさか罠か?
どこからか剣を取り出して、俺を殺す気じゃないだろうな……。
「このヴィクトル、好きよ」
「……は?」
彼女は最後に一度だけ俺を見つめ、
それから、そっと手を離した。
俺はわざと視線を逸らし、
自分の表情を見られないようにする。
……熱かった。
一か月前からの変化は、あまりにも明白だった。
空を見上げて、気づく。
……家に着くのは遅くなりそうだ。
明日から、また学園が始まる。
一か月の休暇なんて、瞬きする間に過ぎ去ってしまった。
これを思い出してしまった瞬間を、俺は呪った。
イツキ……。
それが、俺の記憶の中にある名前だ。
この記憶の持ち主は、そう呼ばれていた。
十四歳の少年。
思い出すべきじゃなかった、もう一人の俺。
――俺に成り代わろうとしている存在。
十二歳で吸血鬼として目覚め、この世界はもう同じではない ペンギン @VikuNo
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