正解の設計図
深山 紗夜
01 評価制度――数字は正しい。
「このホワイトボード、息苦しそうやね。」
営業部のフロアは、静かだった。
誰も返事をしなかった。
白いボードの中央には、黒と赤のマーカーで数字が並んでいる。
鴻野凪冴は、その数字を一つずつ書き換えていた。
たった今、部署全体のノルマが達成されたようだ。
月次、半期、通期。
横に設置されたモニターには、同じ顔ぶれが繰り返し表示されている。
そこに記された数字と、手元の資料を重ねて確認する。
うん、相違はない。
そこでふと、隣の気配が消えている事に気付く。
さっきまで存在したはずの人間が消えている。
営業部フロアを見渡すと、
彼女は何を思ったのか、また別の人の顔を覗き込んでいるところだった。
一瞬、目が合ったような気がしたが、あれは外部の人間だ。
あまり関与しない方向で、気付かない振りを決め込み、デスクに戻る。
今日は、終電に間に合いそうだ。
それだけで十分だった。
♢♢♢
営業部のフロアは、いつも通り静かだった。
静かであること自体が、うまく回っている証拠だと、この会社ではそう認識されている。
モニターには月次と通期のランキングが並んでいる。
上位の顔ぶれは、ほとんど変わらない。
白木は一度だけ目を走らせて、確認を終えた。
ホワイトボードの数字を書き換え、
すぐにデスクで商談用の書類に目を通している男がいる。
鴻野凪冴だった。
淡々と役割を熟している彼こそが、結果として問題の中心に置かれている。
「佐伯さん、少しお時間よろしいでしょうか。」
告発者の名前を呼ぶと、当人の横で何かをじっと見つめていた女も一緒に振り返った。
「……鴻野くん、どうでしょうか。」
商談ルームで、佐伯が躊躇いがちに口を開く。
「後ほど、会議で詳しくお伝えしますが、見たところ、制度自体は至って問題ありません。」
「制度は正しいんだろうというのは、分かってるんです。
……ただ、僕から見れば、顧客もろくに貰えず上司の職務を終電間際まで引き受けている彼が、限界に近い気がするんです。」
感情論だな、と思った。
しかし、個人名が上がった時点で、このまま放置は危険だ。
事が起きる前に対応しておくのが無難だろう。
「分かりました。状況を整理します。
1時間後、会議室に営業部役員と鴻野さんを呼んでください。」
佐伯が部屋を出てから、念の為、この会社の資料をもう一度見直す。
数字を見るのは楽だ。
個人的な感情も、好き嫌いも、そこには入り込まない。
だが、俺たち外部発注のコンプラが問題に向き合わないと判断されると、最悪、“撤退”も無くはない。
「現行の評価制度については、合理性・再現性・透明性、いずれも問題ありません。」
会議室に全員が揃った事を確認し、切り出した。
「成果が上位に集中するのは、統計的にも自然な現象です。
今回の件も、制度違反やハラスメントには該当しません」
着実にここまで言い切ると、強ばった役員の表情が解けるのが視界に入った。
彼らの僅かばかりの罪悪感が薄まったというところだろうか。
が、問題はここからだ。
「ただし」
資料を閉じ、立ち上がった。
「"何かが起きてから”対応するより、
"起きないようにしておく"ほうが、組織としては安上がりです。」
事の発端である鴻野に身体を向け、結論を告げる。
「鴻野さんを、別部署に配置転換します。
能力的にも、あの部署で腐らせる理由はありません。」
鴻野は一瞬、目を見開いたが、案の定、すぐに状況を飲み込んだ。
これで今回の義務は果たせただろう。
業務量と評価は、必ずしも比例しない。
それはこの会社では、暗黙の了解だった。
会議室の扉に手を置いた瞬間、同僚の相澤 夕がジャケットを羽織りながらぽそりと呟いた。
「数字は正しいけどさ。
──人は何年耐える設計なんやろ。」
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