窓辺の白い猫

辛口カレー社長

窓辺の白い猫

 十数年ぶりに降り立った駅のホームは、驚くほど記憶の中のそれと変わっていなかった。錆びついた看板、ペンキの剥げたベンチ、そして鼻を突く、湿った土と緑の匂い。東京での、あの神経を逆なでするような無機質な雑踏とは対極にある世界。


 僕は重いスーツケースを引きずりながら、実家へと続く緩やかな坂道を登っていた。

 会社を辞めたのは一か月前だ。理由は「適応障害」という、現代人にとってはありふれた、それでいて当事者にとっては致命的な病名だった。

 画面の中の数字と格闘し、顔の見えない誰かからのメールに怯える日々。そんな生活の果てに、僕は自分の形を見失ってしまった。

「変わらないな、ここは……」

 独り言が、乾いた空気に吸い込まれていく。

 角を曲がると、古い木造二階建ての家が見えてきた。祖母が亡くなってから空き家になっていた、僕の生家だ。両親は早くに他界し、僕は祖母に育てられた。今は僕が管理を引き継いでいるが、こうして足を運ぶのは法事以来のことになる。


 鍵を開け、重い引き戸を引くと、家特有の「眠っていた空気」が肺に流れ込んできた。埃っぽさと、古い木材の匂い。

 僕は荷物を土間に置き、まずはリビングへと向かった。厚いカーテンを開けると、午後の柔らかな陽光が室内に差し込み、舞い上がる埃を金色の粒子に変える。

 その時だった。

「……ん?」

 思わず声が漏れた。庭に面した古い木枠の大きな窓。そのふちに、一匹の猫が座っていた。真っ白な毛並み。汚れ一つないその白は、西日を反射して神々しいほどに輝いている。

 猫は僕の方を振り返ることもなく、ただじっと、外の庭を眺めていた。

「君は……どこから入ったんだ?」

 返事があるはずもない。猫はゆっくりと尻尾をひと振りすると、窓枠の上で丸くなった。まるでそこが、最初から自分の特等席であると主張しているかのように。

 僕はその姿を見て、強烈な懐かしさに襲われた。

 子供の頃、この家にはいつも、祖母が可愛がっていた白い猫がいた。確か、名前はシロ。もちろん、そのシロが今も生きているはずがない。二十年以上前の話だ。でも、窓辺で微動だにせず外を眺めるそのシルエットは、記憶の中のシロとあまりにも酷似していた。


 それからの数日間、僕と白い猫の奇妙な共同生活が始まった。

 猫はいつの間にか家の中に現れ、いつの間にか姿を消す。餌をねだるわけでも、甘えてくるわけでもない。ただ、僕が掃除をしたり、縁側でぼんやりと茶を飲んだりしていると、必ず視界の隅に入ってくる。

 ある日の午後、僕は押し入れの奥から一冊の古いアルバムを見つけた。ページをめくると、色褪せた写真の中に、若かりし日の祖母と、まだ小さかった僕が写っていた。そしてその傍らには、必ずあの白い猫がいた。

「シロはね、この家の守り神なんだよ」

 祖母の声が、不意に脳裏に甦った。

「あの子はね、悲しいことがあった時、静かに寄り添ってくれる。言葉はいらないんだよ。ただそこにいるだけで、心は救われるものなんだ」

 当時の僕は、そんな祖母の言葉を、子供向けおまじないのようなものだと思っていた。けれど今、空っぽになった心でこの家に佇んでいると、その言葉が驚くほど深く染み渡ってくる。


 東京での僕は、常に言葉に追われていた。

 ――説明、謝罪、報告、提案。

 言葉を尽くせば尽くすほど、真意は遠ざかり、誤解だけが積み重なっていく。でも、この白い猫はどうだろう。彼は何も言わない。僕の事情を尋ねることも、励ますことも、責めることもしない。ただ、同じ空間に存在し、僕と同じ光を浴びている。

 一週間が過ぎた頃、僕は少しずつ、自分の内側が変化していくのを感じていた。

 朝起きて、庭の雑草を抜き、近所の商店街で買った食材で簡単な食事を作る。夜は静寂の中で、虫の声を聞きながら眠りにつく。

 かつてあんなに僕を追い詰めていた将来への不安や社会への恐怖が、この家の中にいると、不思議と遠い世界の出来事のように思えた。


 ある夕暮れ時、僕は窓辺に座る猫の隣に腰を下ろしてみた。

 猫は逃げなかった。

 手を伸ばせば届く距離。でも、僕はあえて触れなかった。触れてしまえば、この美しい幻が消えてしまうような気がしたからだ。

「なぁ……君は、シロなのか?」

 問いかけると、猫はゆっくりと首を傾げ、青い瞳で僕を見つめた。その瞳の奥には、全てを見透かしているような、深い静寂が宿っていた。

 その時、窓の外で風が吹き、庭の金木犀が揺れた。甘い香りが部屋の中に流れ込む。

 僕は唐突に思い出した。会社を辞める直前、最後に見た光景。

 ビルの屋上から見下ろした、無数のヘッドライトの列。あの時、僕は「あの中に飛び込めば、楽になれる」と一瞬だけ考えた。それを踏み止まらせたのは、どこからか聞こえた微かな猫の鳴き声だったような気がする。

 あれは空耳だったのだろうか。それとも、この猫が僕を呼び戻したのだろうか。


 翌朝、目が覚めると、家中が妙に静まり返っていた。

 いつものように窓辺へ向かったが、そこに猫はいなかった。庭を探し、家中を歩き回ったが、どこにも姿はない。

 埃を被った古い木枠の窓。そこには、猫がいた痕跡など何一つ残っていなかった。ただ、朝日が差し込むその場所だけが、不自然なほど暖かかった。


 僕は悟った。

 ――彼は、もう来ない。

 その日の午後、僕はスーツケースを広げた。でも、中に入っているのは帰るための荷物ではない。

 僕は東京のマンションを引き払う手続きをするために、電話を手に取った。しばらくはここで暮らそうと思う。この古い家を直し、庭を整え、自分の足で土を踏みしめて生きていこう。

 窓辺に座り、僕は一枚の写真を撮った。猫のいない、けれど光に満ちたその窓辺を。

 ふと見ると、庭の隅、木陰に白い影が動いた気がした。目を凝らしたが、そこには風に揺れる白い花があるだけだった。

「ありがとう……」

 僕は誰にともなく呟いた。

 窓の外では、新しい季節の足音が聞こえ始めていた。ノスタルジーという名の揺り籠を卒業し、僕は僕自身の人生を、もう一度歩き出す準備ができた。

 次にその「白」に出会う時、僕はきっと、今よりもずっと笑っているはずだ。


(了)

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