忘却の彩
@REN-BOX
第1話
東京都八王子市、中町。
かつて「桑都(そうと)」と呼ばれたこの街の路地裏には、湿った歴史の匂いが染み付いている。古い蔵を改装した古本屋『回顧堂』の奥、微かな白熱灯の下で、佐伯は一組の老夫婦と向き合っていた。
店内に満ちているのは、数千冊の古書が放つ、枯れた紙と糊の混じり合った死者の吐息のような匂いだ。だが今、その静寂を乱しているのは、目の前の二人が発する、共鳴し合う「記憶のノイズ」だった。
「……本当によろしいのですね、お二人とも」
佐伯の声は、自分の存在を繋ぎ止める重石を載せたかのように低く、慎重だった。
夫は深く刻まれた眉間の皺を震わせ、妻はその夫の手を壊れ物を扱うように握りしめている。
「はい。もう、二人では抱えきれんのです」
夫が、ひび割れた声で言った。
「目を閉じるたびに、あの日に、雨の夜に戻ってしまう。あの子を呼ぶ家内の悲鳴が、私の耳の奥でも止まらんのです。どちらか一方が忘れても、もう一方が覚えていたら、私たちは一生あの雨の中に置き去りだ。先生、どうか……二人まとめて、連れて行ってください」
佐伯は「先生」と呼ばれることに小さな違和感を覚えながらも、ゆっくりと両手を伸ばした。
左手を妻の、右手を夫の側頭部へ。彼の指先が触れる。いや、それは「接触」という物理的な現象を超えていた。佐伯の指先は、まるで沸騰した湯の中に沈む氷のように、二人の輪郭を通り抜け、皮膚を、頭蓋を、そしてその奥に渦巻く「共有された脳の残像」へと滑り込んでいった。
その瞬間、佐伯の視界は八王子の古本屋から、数年前の「ある雨の夜」へと強制的に転移した。
凄まじい雨音だった。
バケツをひっくり返したような豪雨が、アスファルトを叩きつけている。視界を遮るワイパーの不快なリズム。国道十六号線を走るトラックの大型ヘッドライトが、雨粒を乱反射させて世界を毒々しい白に染め上げる。
佐伯の鼻腔を突いたのは、排気ガスの焦げた匂いと、雨に濡れた鉄の錆びた匂い。そして、突如として響き渡った、乾いた金属音とゴムの悲鳴。
(……ああ、これは、二人で半分ずつ背負ってきた『地獄』だ)
暗闇の中で、不自然なほど鮮やかな「赤」が広がっていく。
ひっくり返った軽自動車。泥水に顔を浸したまま動かない犬が一匹。妻の絶叫と、それを抱きしめることしかできなかった夫の無力な腕。
佐伯の精神は、その二人分の絶望をまるごと「自分自身の記憶」として取り込んでいく。それは、熱した鉛を喉奥に流し込まれるような苦痛だった。心臓が早鐘を打ち、全身の毛穴から冷や汗が噴き出す。
佐伯は、その記憶の「核」を指先で掴み取った。
真っ赤な鮮血の色、雨の匂い、絶望の叫び。それらを自分の身体へと吸い上げ、代わりに自分の持っている「平穏な空白」を二人の脳へと等分に流し込む。
じりじりと、指先から腕へ、感覚が消えていく。
記憶を吸い取るたびに、佐伯の肉体はその質量を失い、現実から剥離していくのだ。
掌の皮膚が薄くなり、毛細血管が透け、骨の輪郭が夕闇に溶け出す。
「……終わりましたよ」
佐伯が手を引くと、そこにはもう、雨音も絶望もなかった。
老夫婦が、同時にふっと長く、深い呼吸を漏らした。
「あら……。お父さん、私たち、ここで何を?」
妻が不思議そうに夫の顔を覗き込む。夫もまた、呆然とした顔で周囲を見回した。
「分からん。……散歩の途中で、雨宿りでもさせてもらっていたのか?」
二人の瞳からは、先ほどまでの濁った泥のような色が消え、初夏の空のような頼りない平穏が戻っていた。
そして、二人の視線は佐伯に向けられた。だが、そこには何の反応もなかった。
二人の瞳は、佐伯の存在を捉えることができず、まるで透明な空気の塊を見ているかのように通り抜けていた。二人が「大切な家族」という共通の記憶を失ったのと引き換えに、佐伯はこの世界に存在する「個」としての資格をさらに削り取られたのだ。
「……散歩の途中で、道に迷われたのですよ」
佐伯は、自分でも消えてしまいそうなほど掠れた声で言った。
「そうでしたか。なんだか、とても体が軽くなった気がします。……おい、行こうか。今日は夕飯を外で食べて帰ろう」
「ええ、いいわね。お邪魔しました」
老夫婦は連れ立って店を出ていく。夫が妻の肩に手を添え、仲睦まじく歩くその姿に、先ほどまでの悲壮感は微塵もない。佐伯の隣を通り過ぎる際、夫の肩が佐伯の腕に触れそうになったが、彼は身を翻すことさえしなかった。佐伯は咄嗟に身を引いた。もし触れ合ってしまったら、今の自分は彼の体をすり抜けてしまうのではないか。そんな恐怖が背筋を走った。
カラン、という入店を知らせるはずのベルが、今は「二人の救済」と「一人の消滅」を告げる葬鐘のように響いた。
一人残された佐伯は、カウンターに手をついた。
だが、掌に感じるはずの木材の硬い感触が、遠い。まるで何枚もの膜を隔てて触れているかのような、もどかしい感覚。
視線を落とすと、自分の左手は、カウンターの木目を鮮明に透過させていた。
「……また、一枚剥がされたか」
佐伯は震える右手で、カウンターに置かれた古い万年筆を握った。
この「揺らぎ」が限界を迎え、自分がこの世から完全に消失する前に。
二人が捨て去ったあの雨の夜の「赤」を、彼らがかつて愛したはずの家族の輪郭を文字にして、誰の手にも届かない記憶の墓標として、原稿用紙に刻みつけなければならない。
彼は小説家だった。
いや、正確には、消えゆく世界の最後の目撃者になろうとする、孤独な抵抗者だった。
執筆を終え、店を出ると八王子の街は濃密な夕闇の底に沈み始めていた。
盆地特有の、湿り気を帯びた冷たい風が首筋を撫でる。佐伯はコートの襟を立て、あてもなく歩き出した。
普段の彼なら避けるはずの喧騒。だが今の佐伯には、その「他人の熱気」が必要だった。老夫婦に行った「記憶の調律」によって極限まで希薄になった己の存在を、誰かの視線や、肩がぶつかる衝撃によって、この現実に繋ぎ止めておきたかったのだ。
中町の路地を抜け、大通りに出る。
街灯が点り、商店のネオンが路上の水たまりに極彩色を落としている。帰宅を急ぐ会社員、スマートフォンの画面に没頭する学生、楽しげに笑うカップル。世界は相変わらず、無遠慮なほどの音と色に満ちていた。
だが、佐伯がその群衆の中に足を踏み入れた瞬間、奇妙な静寂が彼を包み込んだ。
向こうから歩いてくる二人組の女子学生が、佐伯の数センチ横を、まるでもともとそこが空地であるかのように通り過ぎていく。佐伯は反射的に身を竦めたが、彼女たちの視線は彼を透過し、遠くのファストフード店の看板を捉えていた。
次にやってきた足早な男性は、佐伯と正面からぶつかる軌道にいた。佐伯はあえて避けなかった。ぶつかれば、痛みと共に「自分はここにいる」という確信が得られると思ったのだ。
しかし、衝撃は来なかった。
男性は、ぶつかる直前で無意識に、水たまりを避けるような自然な動作で佐伯を迂回したのだ。男性の瞳には、佐伯の姿など一塵も映っていない。本能的な回避。それは、石ころやゴミを無意識に避ける動作と同じ、徹底した「無視」だった。
(……僕は、もうこの街の背景にすらなれないのか)
佐伯は自分の足元を見た。街灯の光に照らされているはずの彼の影は、驚くほど薄い。アスファルトのざらついた質感が、影を透かして見えていた。
彼は逃げるように、賑やかな通りを外れた。
歩きながら、彼は頭の中で「小説」を綴る。
——世界は、僕を忘れる準備を始めている。
さっきの老夫婦の笑顔。彼らが捨てた悲しみは、今、僕の左腕の中で重たい鉛のように沈殿している。彼らは幸福になり、僕はその代わりに、彼らの絶望を養分にして、この世界から消えていく。
そんな小さな詩を歌いながら、佐伯はある目的地へと足を動かしていた。
思考を止めたのは、不意に鼻腔を突いた「匂い」だった。
それは、古本屋の死んだ紙の匂いでも、いつもの街の香りでもない。
刺激的な油彩の匂いと、どこか挑戦的な、野性の花のような香り。
気づけば、彼は浅川へと続く小さな公園の入り口に立っていた。
街灯の届かないベンチの隅に、一人の女性が座っている。
八王子のどんよりとした曇り空の下で、彼女だけが、発火するようなスカーレットのコートを纏っていた。膝の上には大きなスケッチブック。彼女の指先は、狂おしいほどの速さで鉛筆を走らせている。
佐伯は一瞬、足を止めた。
彼女の周囲だけ、空気が張り詰めている。彼女が放つ「表現者」としての圧倒的な熱量が、希薄になった佐伯の存在を焼き切ってしまいそうだった。
どうせ、彼女も僕には気づかない。
佐伯は自嘲気味に笑い、視線を落として彼女の横を通り過ぎようとした。
その時だった。
「ねえ、そこの透明な君。ちょっと止まって」
凛とした、鈴を転がすような声が、佐伯の耳元で弾けた。
佐伯は反射的に、自分の後ろを振り返った。だが、そこには街路樹と、遠くを走る中央線の微かな走行音が響いているだけだ。
「後ろじゃないわよ。君。そう、その今にも夜霧に溶けちゃいそうな、グレーのコートの君」
佐伯は、凍りついたように立ち尽くした。
ゆっくりと、首を回す。
ベンチに座った彼女が、スケッチブックから顔を上げ、真っ直ぐに自分を、自分の瞳を、射抜いていた。
八王子の湿った風が、二人の間を吹き抜ける。
一秒が、永遠のように引き伸ばされた。
老夫婦に無視され、街ゆく人々に透過された佐伯の存在が、彼女の網膜の上で、確かな「色」として結像していた。
「……僕が、見えているんですか」
振り絞るように出した佐伯の声は、掠れていた。
彼女は可笑しそうに口角を上げると、迷いのない足取りでベンチから立ち上がり、佐伯の目の前まで歩み寄ってきた。
「見えているどころじゃないわ。君、最高に綺麗な『白』をしてる。……いいえ、白じゃないわね。何もかもが削ぎ落とされた後の、純粋な色よ」
彼女の大きな瞳が、佐伯の全身を品定めするように走る。
至近距離で浴びる彼女の視線は、熱かった。まるで、透明になりかけた彼の輪郭を、鋭いナイフでなぞって縁取りしていくような、強烈な存在の肯定。
「私はアイ。画家をやってるの。ねえ、君。その消え入りそうな美しさ……私に、描かせてくれない?」
「……お断りします」
佐伯は拒絶の言葉を短く投げ、視線を逸らした。
アイは「えっ?」と意外そうに声を漏らす。
「理由を聞いてもいい?」
「……あなたに見えている僕は、本物じゃない」
佐伯は自分の左手をコートのポケットに深くねじ込んだ。
「あなたは僕を、珍しい色のついた『素材』か何かだと思っている。でも、僕は見世物じゃない。……それに、あなたのように色の溢れた人と関わるのは、今の僕には毒なんです。これ以上、僕の静寂を掻き乱さないでほしい」
佐伯の言葉は冷たく、棘があった。
老夫婦から存在を抹消され、絶望の澱を左腕に宿した今の彼は、神経が剥き出しの状態だ。誰かに見つかることは救いであるはずなのに、アイのような「強烈な個」に見つかってしまったことは、獲物を狙う捕食者に見つかったような危うさを感じさせていた。
「毒、か……。ひどい言い草ね」
アイは憤慨するどころか、ますます興味深そうに目を細めた。
「でも、そうやって拒絶するエネルギーがあるなら、まだ大丈夫そうじゃない。君、さっきまで本当に消えちゃいそうだったもの。幽霊が怒るなんて、面白いわね」
アイは佐伯が立ち去るのを許さないかのように、その隣を並んで歩き始めた。
「つきまとわないでください」
「いいじゃない、道はみんなのものよ。それに、君が行こうとしている路地裏……。あの先には、私の好きなコーヒー屋があるの。もしかして、行き先が同じなんじゃない?」
佐伯は眉をひそめた。あの店を知っているのか。
八王子の複雑な路地裏にある、あの店を見つけているという事実に、彼女の感性の鋭さを認めざるを得なかった。それがまた、佐伯の不信感を煽る。
「……あそこには、僕のような『揺らぎ』を抱えた人間しか来ません。あなたのような、光を浴びて生きている人は、場違いです」
「揺らぎ、ね。……素敵な名前。他人の痛みを吸い取って、代わりに自分が透けていく。それが君の言う『毒』の正体?」
佐伯は足を止め、彼女を睨みつけた。
「なぜ、それを」
「さっきから君の左手が震えてるからよ。ポケットの中で、石鹸みたいに溶けかけてるんじゃない? 隠したって無駄。画家の目は、重力や温度まで見抜くのよ」
アイは、佐伯がひた隠しにしてきた「境界線の崩壊」を、事もなげに言葉で抉ってみせた。
佐伯は背筋に冷たいものが走るのを感じた。この女は、危険だ。自分の孤独を、誰にも侵されたくない聖域を、色彩という暴力で塗り潰そうとしている。
「……僕は、あなたを信じない」
「それでいいわよ。信じなくていいから、まずは座ってコーヒーでも飲みましょうよ。君の言う通り、私の色が強すぎるなら……あの店の『音のないコーヒー』で、少し薄めてあげるから」
アイの強引なペースに、佐伯は呼吸を乱されるのを感じた。
拒絶したい。なのに、彼女に輪郭をなぞられるたびに、失われかけていた自分の存在が、痛烈な自覚を伴って立ち上がってくるのも事実だった。
「……一杯だけです」
佐伯は吐き捨てるように言い、あの店へと続く最後の曲がり角を曲がった。
アイは「やった」と小さくガッツポーズをして、彼の背中を追いかける。
真鍮のランプが灯る、珈琲店『音の止まり木』。
佐伯は、逃げ込むようにそのドアを押し開けた。
カラン、というベルの音が、静寂の支配する店内に響いた。
佐伯は逃げ込むようにカウンターの端に座り、アイはその隣へ、当然のような顔をして腰を下ろす。
「……佐伯君か。それに、アイちゃん。」
カウンターの奥でネルドリップをしていたカイトが、ゆっくりと顔を上げた。
「久しぶりね、カイトさん。相変わらず、耳に障らない良い音を立ててコーヒーを淹れるのね」
アイは旧知の仲であるカイトに不敵な笑みを向けた。佐伯は二人が知り合いであることに驚き、カイトに視線を向ける。
「……知り合い、なんですか?」
「ああ、彼女がまだ小さな画学生だった頃に少しね。彼女の師匠には随分と世話になったんだ。アイちゃんもこの街に来ていたんだね。……相変わらず、嵐のように鮮やかな色彩を纏っている。元気そうで何よりだ」
カイトは慈しむような声で言い、慣れた手つきで二つのカップを用意する。
「……カイトさん、いつもの。彼女は、一杯飲んだらすぐに帰りますから」
「そんなに急かさないでやりなさい、佐伯君」
カイトは穏やかに、なだめるような口調で言った。
「アイちゃんはこう見えて、繊細な感性を持っている。佐伯くんが一人で抱えている『静けさ』を、彼女なら理解してくれるかもしれないと思ってね」
カイトは黙って二人の前に、琥珀色のコーヒーを置いた。
アイはその湯気の向こうで、カウンターに置かれた佐伯の左手をじっと見つめている。
「ねえ、やっぱり不思議だわ」
アイが不意に、佐伯の手の甲に自分の指を重ねようとした。アイの指先は、佐伯の手の肉を捉えることなく、まるでもやの中をかき分けるように、するりと彼の肌を透過してカウンターの木面に触れた。
「雪に触れているみたいね」
アイが驚きに目を見開く。佐伯は力なく笑い、透け始めた左手を自嘲気味に見つめた。
「これが、僕の抱えている『揺らぎ』という現象です」
佐伯は静かに語り始めた。
「僕は、他人の記憶の澱……特に、その人を苦しめて離さない悲劇的な場面を、自分の体へ移し替えることができます。記憶の調律、と僕は呼んでいます。けれど、世界は残酷なほど平等だ。誰かの心から重荷を消し去る代わりに、僕自身の『存在の質量』が削り取られていくんです」
アイは指先を戻し、自分の掌を握りしめた。「質量が、削れる?」
「ええ。誰かを救うたびに、僕という人間を構成する密度が薄くなる。最初はこうして体が透けるだけですが、やがて声が届かなくなり、最後には誰の記憶にも残らなくなる。……救ったはずの人でさえ、僕の顔を忘れてしまうんです。それが、調律の代償。」
淡々と、どこか諦めたように話す佐伯の言葉に、店内はしんとした静寂に包まれた。
カイトはカウンターの奥から、一冊の古びた原稿の束を、まるで宝物を扱うように大切に差し出した。
「佐伯君はね、小説を書いているんだ。自分が救って、世界から消し去ってしまった人たちの証を。そして、自分が確かにここにいたという足跡を、一文字ずつ丁寧に、原稿用紙に刻みつけている」
「小説家……」
アイの瞳が、驚きに揺れた。
彼女は佐伯の、今にも消え入りそうな横顔をじっと見つめる。
「そうだったのね。ただ消えていくのを待っているんじゃなくて、言葉という杭を打ち込んで、現世に留まろうとしていたんだ」
佐伯は顔を伏せ、消え入りそうな声で白状した。
「……ただの、趣味です。誰に読ませるつもりもありません。僕がいなくなった後も、その物語を誰かが読んでくれれば、僕はその瞬間だけ、その人の記憶の中で『存在』できるかもしれない。……僕にとってのそれは、不格好な『遺書』なんです」
アイは黙ってそれを聞いていたが、ふっと自嘲気味に自分の掌を見つめた。
「消えていく君とは逆ね。私は、世界が『うるさすぎる』のよ」
アイが顔を上げると、その瞳はどこか遠く、常人には見えない色彩の奔流を追いかけているようだった。
「私の『揺らぎ』は、すべてが色として見えてしまうこと。感情も、音も、街の匂いでさえも、私にとっては暴力的なまでに鮮やかな色彩なの。私はそれをキャンバスに叩きつけて、外に追い出さないと、いつか自分の中の色に焼き殺されてしまう」
カイトが案じるように眉をひそめた。アイは悪戯っぽく笑って見せる。
「描き続けないと、私の目はいつか現実の色を認識できなくなって、真っ暗になっちゃうの。『失明』が、私の揺らぎの副作用。だから今のうちに、世界中の面白いものを全部、色にして吐き出しちゃいたいのよ」
その言葉を、カイトは疑いもせずに受け入れた。
「……芸術家にとって視力を失う恐怖は計り知れない。」
カイトは同情を込めてコーヒーを注ぎ足したが、アイの視線がわずかに泳いだことに、佐伯だけが気づいた。
「……決めた、佐伯君」
アイは嘘の影を微塵も感じさせない明るさで、佐伯の瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「あなたの小説、表紙は私が描く。私の目が光を失う前に、君の『消えゆく言葉』を、私の最高の色で縁取らせてほしいの。そうすれば……世界で一番贅沢な『遺書』を、一緒に作れると思わない?」
佐伯は、アイの瞳の奥にある熱に圧倒されていた。
自分は白く消え、彼女は暗闇に沈む。互いに「喪失」を抱えた者同士、この場所で出会ったことに、逃れられない運命を感じていた。
「……勝手にしてください。僕の物語が、あなたの色に染まっても、責任は持てませんから」
ぶっきらぼうな佐伯の返答に、カイトは満足そうに微笑んだ。
「……いいコーヒーになりそうだ。二人とも、ゆっくりしていきなさい」
忘却の彩 @REN-BOX
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