からし色の醒めない村

mynameis愛

第1話 からし色の朝

 目を開けた瞬間、空が近かった。雲が、湯気みたいにふわふわと漂っている。地面は草ではなく、ふかふかの苔。鼻の奥に甘い匂いが残っていて、セレーロは自分が倒れた場所を、慎重に、指先で確かめた。

「……ここ、どこだ」

 最後の記憶は、師匠――魔法の賢者メルヴォの研究塔。書庫で見つけた古い鏡に触れ、光が弾けて、そして。

 鏡はない。代わりに、苔の上に落ちていたのは小さな木札だった。


『落ち着け。焦ると夢が深くなる』


 誰の字だ。夢? セレーロは注意深く深呼吸をした。構想力だけは自信がある。ならば、まずは情報整理だ。ここは異世界っぽい。いや、ある意味、異世界、だ。自分に言い聞かせるように呟くと、背後で枝が折れた。


「動くなっ!」

 飛び出してきたのは、短い槍を構えた少女――いや、年は近い。赤い外套に、汗で額の前髪が貼りついている。目がまっすぐで、勇敢そうだ。セレーロが両手を上げるより早く、彼女は槍先を少しだけ下げた。

「……迷い人? 夢見の森から出てきたのね」

「迷い人。たぶんそうです。僕はセレーロ。あなたは?」

「カラシオス。村の見回り」

 名乗った直後、彼女はふっと笑って、槍を背に回した。

「助ける。来て。道、危ない」


 カラシオスの歩幅は大きい。セレーロは転ばないよう足元を見ながら、それでも周囲を観察した。木々は現実より色が濃く、鳥の鳴き声が少し高い。全体が少しだけ“作り物”めいている。醒めない夢、と言われたら信じてしまいそうだ。

 森を抜けると、小さな谷の村が現れた。石造りの家、畑、風車。人々は忙しなく動きながらも、笑い声が多い。


「ここがルーム村。あなた、顔が真っ青」

「大丈夫……たぶん。食べ物と水があれば」

「任せて。うち、来る?」


 カラシオスの家は質素だが、火が暖かい。彼女は鍋に湯を沸かし、硬そうなパンを切り、そして――棚から黄色い壺を取り出した。

「これ、からし」

「からし?」

「食べると元気。ほら」

 パンに塗って差し出される。セレーロは恐る恐る口に入れた。


 ……辛い。だが不思議と、胸が熱くなる。涙が出るほど辛いのに、笑ってしまう。

「なにこれ、攻撃力が高い」

「攻撃力って何」

「えっと……強いって意味」

 カラシオスは肩を揺らして笑った。

「強いの、好き。あなた、弱そうだから、いっぱい食べて」


 食後、セレーロは自分が魔法使いであること、師匠の鏡に触れて飛ばされたことを話した。カラシオスは驚きつつも、すぐに頷く。

「なら、帰り道、探す。村長にも相談する。迷い人は放っておけない」

「ありがとう。でも、僕は慎重に進めたい。状況を整理して、危険を――」

「慎重、いい。でもね」

 彼女は指で机をトントン叩いた。

「まず寝る。顔、死んでる」


 その夜、セレーロは客用の寝台に横になった。天井の木目が、ゆっくり波打って見える。夢だ。だが、目を閉じても醒めない。

 枕元に、昼の木札が置かれていた。いつの間に。


『この村の外は、夢が濃い。焦るな。』


 セレーロは起き上がり、窓の外を見た。月が大きい。村の外縁に、淡く光る霧が壁のように立っている。

「結界……?」

 声を出した途端、背後で布が揺れた。カラシオスが寝間着のまま立っていた。彼女は眠そうな目で、しかし笑って言う。

「外、見た? あれ、夢の壁。村から出ると、頭がおかしくなる人もいる。だから、ここで暮らす人、増えた」

「暮らす……」

「うん。畑やって、パン焼いて、笑って。たまに泣いて。悪くない」

 カラシオスは窓枠に肘をつき、月を見上げた。

「あなた、帰りたい?」

 セレーロは答えを探した。帰りたい。師匠も心配だ。でも、この村の空気は、妙に胸に優しい。

「……帰れる方法は、調べたい。でも、焦って壊したくない」

「それ、いい答え」

 カラシオスは小さく頷き、そして突然、真面目な声になった。

「ありがとう。今日、怖かったでしょ。私を信じて来てくれて」


 その一言で、セレーロの胸がきゅっとした。感謝をまっすぐ言葉にする人。こういう人が、村を支えているのだろう。

「こちらこそ……助けてくれて、ありがとう」

 言った瞬間、カラシオスの顔がぱっと明るくなる。


「よし。明日、あなたの魔法、見せて。役に立つなら、村がもっと楽になる」

「役に……」

「うん。スローに、だけど、ちゃんと良くする」


 そう言って彼女は部屋を出た。残されたセレーロは、指先に微かな魔力を集めた。鏡の光に似た、淡い白。

 もしここが夢なら、夢の中でできることがあるはずだ。


 翌朝、村の広場で、セレーロは“生活向け魔法”を披露することになった。

「大丈夫? 失敗しない?」

 心配そうな村長に、セレーロは頷く。慎重に詠唱し、目的を明確に、構想を図面のように頭に描く。


「調味料生成――」


 ……ぽんっ。

 手のひらに現れたのは、黄色い壺だった。


「え、またからし!?」

 村人がどっと笑う。カラシオスが腹を抱えて転げる。

「私の名前、呼んだでしょ」

「呼んでない!」

 セレーロは顔を赤くした。だが村人たちは喜んだ。パンに塗り、肉に添え、畑仕事の後のスープに落として、目を潤ませながら笑う。


「セレーロさん、天才だ!」

「からしの神様だ!」


 セレーロは頭を抱えた。帰還の手がかりどころか、からし職人として崇められ始めている。

 それでも、カラシオスが肩を叩く。

「いいね。村が明るい。あなたのおかげ」

「……僕の意図と違うけど」

「意図より、笑顔」


 その言葉が、妙に温かかった。セレーロは空を見上げる。雲は今日も湯気みたいにふわふわだ。

 この醒めない夢の村で、自分は何を作れるだろう。


 その日の午後、村長の家で集まりが開かれた。村長、パン職人、猟師、そしてからしで涙目の子どもたちまでいる。

「セレーロ殿、ぜひ“からし壺”を定期的に……」

「できれば、毎日……」

 セレーロは慎重に咳払いをした。

「無理です。僕の魔法は、体調と集中で出力が変わります。むやみに連発すると――」

「倒れる?」

「倒れます」

 即答すると、場が静かになった。カラシオスがすかさず手を挙げる。

「じゃあ、倒れない範囲でいい。みんな、セレーロに無理させない。約束」

 勇敢な目で睨まれ、村人たちは一斉に頷いた。


 集まりの後、カラシオスは裏庭にセレーロを連れ出した。小さな畑があり、冬なのに緑がある。

「ここ、空き。何か植える?」

「からし菜?」

「それ、最高」

 彼女は真顔で言ってから、くすっと笑った。

「冗談。でも、香草とか。あなた、考えるの得意でしょ」

 セレーロは頭の中に畝の配置、日当たり、土の水分、収穫後の保存方法まで一気に描いた。構想が形になっていく感覚は、ここでも変わらない。

「じゃあ……育てやすい薬草と、小麦の端切れに花を。虫避けにもなる」

「すごい。言葉が速い」

「ごめん。癖で」

「好き。あなたが話すと、未来が見える感じがする」


 カラシオスは手袋を外し、土を掘り始めた。指の節が少し赤い。爪の間に土が入り込んでいる。

「手、荒れてる」

「平気。村の見回りと畑、両方やるから」

 軽く言うが、その“平気”が、どれだけ積み重なったものか。セレーロは、胸の奥で小さく引っかかりを覚えた。


 夕方。セレーロはパン職人の工房に呼ばれ、“からしパン”の試作に付き合わされた。

「塗りすぎ!」

「いや、これが目覚めの一撃で――」

 からしを入れすぎたパンを齧った村人が、涙と鼻水で笑い転げる。カラシオスも笑いながら、セレーロの背中をさする。

「大丈夫。みんな幸せそう」

「僕はみんなを泣かせてる」

「嬉し泣き」

 言い切られて、セレーロは負けた気がした。


 夜。彼は寝台の端に座り、師匠の塔を思い出す。戻る道は探す。けれど、今日この村で起きたのは、危険でも戦いでもなく、ただの笑いと、からしと、ありがとうだった。

 それだけで、胸が少し軽くなるのが悔しい。


 セレーロは木札を裏返し、小さく書き足した。


『焦らない。ここで、できることから』


 文字はすぐに薄く光り、まるで誰かが読んだみたいに、静かに消えた。

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2025年12月24日 06:30
2025年12月25日 06:30

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