優しい君

隣にいるのに

彼は、誰に紹介しても恥ずかしくない人だった。

穏やかで、丁寧で、声を荒らげることもない。私の話を最後まで聞いてくれて、感情的になっても否定しない。


「大変だったね」

「つらかったね」

「無理しなくていいよ」


その言葉たちは、いつも正解だった。


付き合い始めの頃、私は彼の優しさに何度も救われた。

仕事で失敗した日も、家族とうまくいかなかった日も、彼は何も言わず隣にいてくれた。抱きしめ方も、声のトーンも、すべてが柔らかかった。


「こんな人となら、きっと幸せになれる」


そう思っていた。

少なくとも、疑う理由はなかった。


でも、時間が経つにつれて、胸の奥に小さな違和感が溜まっていった。


それは、彼が優しすぎることだった。


デートの行き先は、いつも私が決めた。

食事の店も、映画も、旅行の計画も。

彼は文句一つ言わず、「いいね」「楽しみだね」と微笑んだ。


最初はそれが嬉しかった。

大切にされている証拠だと思った。


でもある日、ふと気づいた。

私は一度も、彼の「行きたい場所」を聞いたことがなかった。

正確には、聞いたことはあったけれど、彼はいつもこう答えた。


「君が行きたいところでいいよ」


同棲の話が出たのは、付き合って二年目の春だった。

年齢的にも、周りの友達が次々と結婚していく時期で、

「そろそろ将来のことを考えようか」と私から切り出した。


彼は少し驚いた顔をしたあと、すぐに頷いた。

「うん、いいと思う」


家賃の上限、エリア、部屋の広さ。

話し合うたびに、彼は私の意見をそのまま受け入れた。


「それで大丈夫?」と聞くと、

「君が納得してるなら、俺は問題ないよ」と返ってくる。


その言葉が、なぜか心に残った。

“君が納得してるなら”。

彼自身の納得は、どこにあるんだろう。


結婚の話題が現実味を帯び始めた頃、

私は初めて、不安をそのまま彼にぶつけた。


「もし意見が違ったらどうする?」

「私、全部決める側になる気がしてて……少し怖い」


彼は困ったように笑った。

「だって君のほうがしっかりしてるし」

「俺は君についていくだけだよ」


その瞬間、胸の奥が冷えた。


“ついていく”。

それは支えることでも、並ぶことでもない。


仕事で大きなトラブルがあった夜、

私は久しぶりに感情を抑えきれなくなった。


「もう限界かもしれない」

「正解が分からない」


彼は私の背中を撫でながら、優しく言った。

「無理しなくていいよ」

「休めば、きっと大丈夫」


間違っていない。

でも、その言葉は私を軽くするどころか、

ひとりで立っている感覚を強くした。


私は、誰かに決断してほしかったわけじゃない。

ただ、「一緒に考えよう」と言ってほしかった。

「俺も迷ってる」と、本音を見せてほしかった。


彼は、いつも完成された優しさを差し出してくる。

そこには迷いも、覚悟も、衝突もなかった。


未来の話をするとき、

私は必死に地図を広げて説明する。

彼はそれを眺めて、「いいと思う」と言う。


いつしか結婚は、

“二人で作る未来”ではなく、

“私が責任を持つ人生設計”になっていた。


ある夜、眠れずに天井を見つめながら思った。

もしこの人と結婚したら、

私は一生、強い側でいなければならない。

弱音を吐いても、最後に決めるのは私だ。


それが怖かった。


別れを告げた日は、雨だった。

言葉を選びながら、正直に伝えた。


「あなたの優しさが嫌いになったわけじゃない」

「でも、結婚を考えると、ひとりになる気がする」


彼は静かに頷いて、

最後まで声を荒らげなかった。


「そう思わせてしまったなら、ごめん」

「君が幸せになるなら、それでいいよ」


やっぱり、と思った。


優しいだけの人は、

相手を傷つけない代わりに、

自分の輪郭を見せない。


私は彼の隣にいると、

いつも少し先を歩いていた。

振り返れば彼はいるけれど、

同じ速さで並ぶことはなかった。


彼を嫌いにはなれない。

今でも、きっといい人だと思う。


でも私は、

一緒に迷って、一緒に立ち止まって、

それでも手を引いてくれる人と、

人生を選びたかった。


優しさだけでは、

結婚を考えられなくなる夜がある。

それを知ったことが、

この恋の終わりだった。

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優しい君 @kyu_omoi

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