優しい君
九
隣にいるのに
彼は、誰に紹介しても恥ずかしくない人だった。
穏やかで、丁寧で、声を荒らげることもない。私の話を最後まで聞いてくれて、感情的になっても否定しない。
「大変だったね」
「つらかったね」
「無理しなくていいよ」
その言葉たちは、いつも正解だった。
付き合い始めの頃、私は彼の優しさに何度も救われた。
仕事で失敗した日も、家族とうまくいかなかった日も、彼は何も言わず隣にいてくれた。抱きしめ方も、声のトーンも、すべてが柔らかかった。
「こんな人となら、きっと幸せになれる」
そう思っていた。
少なくとも、疑う理由はなかった。
でも、時間が経つにつれて、胸の奥に小さな違和感が溜まっていった。
それは、彼が優しすぎることだった。
デートの行き先は、いつも私が決めた。
食事の店も、映画も、旅行の計画も。
彼は文句一つ言わず、「いいね」「楽しみだね」と微笑んだ。
最初はそれが嬉しかった。
大切にされている証拠だと思った。
でもある日、ふと気づいた。
私は一度も、彼の「行きたい場所」を聞いたことがなかった。
正確には、聞いたことはあったけれど、彼はいつもこう答えた。
「君が行きたいところでいいよ」
同棲の話が出たのは、付き合って二年目の春だった。
年齢的にも、周りの友達が次々と結婚していく時期で、
「そろそろ将来のことを考えようか」と私から切り出した。
彼は少し驚いた顔をしたあと、すぐに頷いた。
「うん、いいと思う」
家賃の上限、エリア、部屋の広さ。
話し合うたびに、彼は私の意見をそのまま受け入れた。
「それで大丈夫?」と聞くと、
「君が納得してるなら、俺は問題ないよ」と返ってくる。
その言葉が、なぜか心に残った。
“君が納得してるなら”。
彼自身の納得は、どこにあるんだろう。
結婚の話題が現実味を帯び始めた頃、
私は初めて、不安をそのまま彼にぶつけた。
「もし意見が違ったらどうする?」
「私、全部決める側になる気がしてて……少し怖い」
彼は困ったように笑った。
「だって君のほうがしっかりしてるし」
「俺は君についていくだけだよ」
その瞬間、胸の奥が冷えた。
“ついていく”。
それは支えることでも、並ぶことでもない。
仕事で大きなトラブルがあった夜、
私は久しぶりに感情を抑えきれなくなった。
「もう限界かもしれない」
「正解が分からない」
彼は私の背中を撫でながら、優しく言った。
「無理しなくていいよ」
「休めば、きっと大丈夫」
間違っていない。
でも、その言葉は私を軽くするどころか、
ひとりで立っている感覚を強くした。
私は、誰かに決断してほしかったわけじゃない。
ただ、「一緒に考えよう」と言ってほしかった。
「俺も迷ってる」と、本音を見せてほしかった。
彼は、いつも完成された優しさを差し出してくる。
そこには迷いも、覚悟も、衝突もなかった。
未来の話をするとき、
私は必死に地図を広げて説明する。
彼はそれを眺めて、「いいと思う」と言う。
いつしか結婚は、
“二人で作る未来”ではなく、
“私が責任を持つ人生設計”になっていた。
ある夜、眠れずに天井を見つめながら思った。
もしこの人と結婚したら、
私は一生、強い側でいなければならない。
弱音を吐いても、最後に決めるのは私だ。
それが怖かった。
別れを告げた日は、雨だった。
言葉を選びながら、正直に伝えた。
「あなたの優しさが嫌いになったわけじゃない」
「でも、結婚を考えると、ひとりになる気がする」
彼は静かに頷いて、
最後まで声を荒らげなかった。
「そう思わせてしまったなら、ごめん」
「君が幸せになるなら、それでいいよ」
やっぱり、と思った。
優しいだけの人は、
相手を傷つけない代わりに、
自分の輪郭を見せない。
私は彼の隣にいると、
いつも少し先を歩いていた。
振り返れば彼はいるけれど、
同じ速さで並ぶことはなかった。
彼を嫌いにはなれない。
今でも、きっといい人だと思う。
でも私は、
一緒に迷って、一緒に立ち止まって、
それでも手を引いてくれる人と、
人生を選びたかった。
優しさだけでは、
結婚を考えられなくなる夜がある。
それを知ったことが、
この恋の終わりだった。
優しい君 九 @kyu_omoi
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