五節・梅子黄、破られし縁

鬼ノ目

一話 雨宿り

 重苦しい雲が空を包み込んでいる。軒下から覗き見上げた空模様に今更顔を顰めるのは良くないのだろうが、そんな姿を見て気分を持ち上げる事などできるわけもなく。せめて、せめてと視線を戻したところでやはり眼前に広がる戦況というのも芳しくないものだからこれには深く溜息を零してしまうのも頷けしまうというもの。掌で持て余していた駒を弱々しく盤上に置いてみせた。

「随分自信のない手だな?幾らでも時間はあるんだからもうちょい考えたって良かったんだぞ弥代?」

「はは、冗談止してくれよちょうさん…幾らでも時間があるって?そいつは冗談キツイぜ。折角の休みの日をこんな棒に振るような真似しちゃいけねぇよ。そいつはつまり今日はもうずっとこんな調子って言ってるようなもんじゃねぇか?…まじで勘弁だぜ。」

 久方ぶりの休みが機嫌を損ねたお天道様であっても彼がそんな事を気にする事は一切ないのだろう。弥代から言わせれば豪快な性格の彼は膝頭を大きく一つ叩きながら口を開いているが、その口振りからはまるで今日はもう晴れるのが望ましくないと言っているようなものではないか。屋敷の門番である彼がここ数日の天気を知らないという事はないだろうが(雨の日だって風が強い日だって日夜野晒しで屋敷の門の前に立っている為)、真面目に職務を全うしておいて挙句折角の休みが潰れてしまっているも同然だというのに文句の一つ溢さないとは、何ともまぁよく出来た男である。

 そんな天気の一つや二つちっぽけな事を気にしないと言えば聞こえがいいだろうが、そうもこうも言ってられない。

 覚えたての駒の動きをいくら弥代が見据えたところで、幼い頃から親父さんの相手を幾度とし、打ち負かされてきた相手の前ではどのような手を指したとしても、気付かぬ間に進められていた手で阻まれてしまいというのを嫌という程に経験済みだからだ。どうやっても黒星を取れない相手にそろそろ痺れを来している。負かされ続きで一日を潰してしまいそうだと不貞腐れた態度はもう間も無く露見してしまう。

 何らかの口実をつけて暇つぶしにやろうなどと言った対局を終えられないものかと思案していると、後方から戦況を眺めていた芳賀よしか黒介くろすけが口を挟んだ。

「弥代さんって前々から思ってましたけど、普段の態度からじゃな想像つかないぐらいこういう時は慎重ですよね?歩ばっかり動かすといいますか、そりゃ動けますし攻守の出方も多いでしょうけど地味っていうか、なんていうか…。」

「おめーみてぇに馬鹿の一つおぼえみてぇに桂馬信じて突き進みはしねぇんだよ俺は。」

「馬鹿の一つ覚えってなんすか⁉︎一つしか覚えられてないみたいな…!仕方ないじゃないですかっ、いざ指し始めたら真っ白になっちまうすからっ‼︎」

「それを馬鹿の一つ覚えつーんだよ⁉︎耳元でデケェ声出すな!どっかの誰かさんと同じで最近デケェんだよ声がっ‼︎」

「どっかの誰かさんってそれもうわたくし以外ありえないんじゃないでしょうか弥代さんっ⁉︎筒抜けですよ‼︎真横にいるんですからねっ‼︎」

 続いて飛び火したように同じ室内で腕組みをしながら何やら館林と話し込んでいた様子の相良さがら志朗しろうが声を荒げた。直前まで何やら小声で話していたのが嘘ではないか?と疑いたくなる声量を真後ろからではなく左手から受けた弥代は勢いよく耳を塞いで立ち上がった。

「うっせぇんだよ相良さん⁉︎ちったぁ静かにできないもんかなぁ⁈」

「他に行く場所がないからと場所をお貸ししているこちらがそちらに気を使う必要がどこにおありで⁉︎寧ろそちらが静かにしてくださいよ⁉︎大体同じ部屋にいられる必要がありますか⁉︎部屋ならごまんとありますので奥の部屋でもお好きに使ってくださって構いませんとあれほど」

「日の当たらねぇ部屋に雨の日に篭りっきりで将棋なんかさせっかってんだ⁉︎頭ん中までカビ生えちまったらどうするんだよ‼︎」

「頭皮にカビが生えるというのはありますが頭の中に生えるなんてそんな事はございませんよ。お二人とも外まで響いていますのでお静かに願います。」

 ピタリと、二人が揃って動きを止める。一触即発ではないが既に互い胸ぐらを掴まんばかりの勢いで額だけはぶつけていただけに視界に映るのは相手の顔だが、廊下側を向いている相良の顔面が一気に血の気が失せたように青褪めるのに、声だけしかまだ聞こえていないが声の主が彼にとって恐るるにたるる人物であることだけは明白で、

「先ずは冷静に、離れられては如何ですか?」

「っす、」「え、えぇ…はい、」

 言われた通りに声を可能な限り抑え、二人は静かに距離を取った。



 暇つぶしは終わりを迎えた。別段用事があって訪れたわけではなく雨宿りを兼ねて転がり込んだだけの弥代だったが、そこに知った顔が二つ、一方があの手この手と手詰まって頭を抱えるさまを見ればどれどれと首を突っ込んでしまっただけだったが、かれこれ二刻程は経つだろうか。

 優勢を崩すことなく一戦たりとも勝利を逃さなかった吉田長兵衛も本来貴重な休みの日に朝っぱらから討伐屋ここに訪れた用事を済ませるかのように伽々里かがりに声を掛けた。

「どぉも伽々里さん、いつも世話んなってます。親父の薬なんですが昨日母さんが薬貰いに来た時にもうそろそろなくても大丈夫だろうって本人が言ってたの伝え損ねちまったみたいでしてねぇ。それだけなんですけど直接言った方が伝わる思ったのと、これまでの礼兼ねて、大したものじゃないんですけど羊羹をお持ちしました。」

「これはどうもご丁寧に。元はと言えば春原さんがお父君に危害を加えてしまったと言いますのに…お受け取り致しかねますわ。」

 弥代に視線を向けて棒立ちの春原の後頭部に手を添え、ほぼ無理やり頭を下げさせながら伽々里も一緒に会釈をしてみせた。

 一連の出来事には自分は何も関わりがないと思いたい弥代だが、あの時投げかける言葉がもう少し違っていれば何事もなかったのではないか?という考えもあり、逃げるように視線を逸らした。

「いえいえそんな事言わず受け取ってくださいよ!元々歳だったのに意地張って御屋敷にお仕えするんだー!って意気込んで無茶してたもんだからいい機会だったんですよ!おかげで夫婦仲も磨きが掛かっちまって、その内新しい下が産まれるんじゃないかって俺ら兄弟も持ちっきりといいますか、まぁ雨降れば地固まるって言うじゃないですか?ほんと気になさならいで、皆さんで召し上がってくださいよ。薄く切っちゃ味わえたもんじゃないで二本用意してきたんで!」

「友月屋の羊羹じゃないですかそれぇ‼︎」

 将棋盤を片付るのに席を外していた芳賀は戻ってくるなり、長兵衛の両手の中に乗せられた包みを指差して悲鳴を上げた。

「えぇ⁉︎長くん!えー⁉︎何々お屋敷の門番ってそんなにお給金いいの?ゆ、友月屋だよ⁈そんな屋敷御用達の羊羹を二本も?俺らに?えぇぇ?」

「憐れすぎんだろ、討伐屋。」

「弥代さんもそれの一員ですよ?」

「馬鹿言え、何当然のように含んでんだよ。」

 異議を唱えたところで自分がすっかりここ二ヶ月ほどで討伐屋に今まで以上に馴染んでしまっている自覚はあった。そんなつもりはないなんて軽口を叩いても然程意味はない。特に伽々里に相良・館林と大人の風格を見せる彼等にそんなの通用するはずがない。

 何もここ以外にいる場所がないから足繁く通いつめているわけではない。自然と足が討伐屋に向いてしまうだけで、やはりそんなつもりは毛頭ないと弥代は言い切って見せる。

「そういう事にしておいて差し上げます。」

「そうしてくれると助かるわ。」

 前方では未だに芳賀が賑やかしく騒ぎ立てているが、そろそろ堪忍袋の尾が切れた伽々里によって鈍器の一つでも落とされそうではないかと予測を立ててすぐそれは訪れた。



「雨、そろそろ止みそうですね。」

 淹れたての煎茶に切り分けられた羊羹をちゃぶ台で囲むようにいただいていると、縁側が正面に見える位置に腰掛けていた芳賀がスッと軽く腰を持ち上げて廊下へと駆け寄った。

 軒下のおかげで開けっぱなしの廊下が雨で濡れる事はない。ジメジメとした湿気が篭りっぱなしではそれこそカビが生えてしまいかねないと土砂降りでない限りは常時開け放っている。討伐屋は元は少しばかり大きな屋敷となっているがその周囲にある家々も同様に平屋であるので、堀の上にはまだ翳った雲が見えたが、斜めに降り注いでくる雨は間も無く勢いを落ち着けそうだった。

 となればそろそろ食べ終える羊羹に、まだ熱い茶を飲み干してと。思ったよりも長居してしまったのに礼を述べ、おいとまでもするかと思った弥代は、やはりとでも言うべきか、自身の裾を引き止める存在に目を向ける。

「………、」

「………。」

「いや、離せよ。」

「……すまん。」

 どう接したらいいものか最近はそれが正直一番の悩みだ。

 別にそれは眼前の春原に限ったものではない。弥代が討伐屋に入り浸る要因の一つである同居人の、詩良双子の姉についてもだ。

 掴んでいた事すら無意識なのか。止めろといえば少々渋ったような間を挟んだ後あっさりと離す分には詩良よりも手間ではないのだが、毎度毎度こんな事ばかりでいい加減どうにかしなくちゃいけないだろうな、と弥代は考えていた。といっても具体的にどうしたらいいものかと頭を捻るだけ。解決策など全くこれぽっちも浮かんできやしないのが現状だ。

 実害を被っているわけではないだけ幾分かマシかもしれない。

(別に詩良アイツに害があるって言いてぇわけじゃねえけどよ。)

 四月の一件以来、彼女は頻繁に家を留守にする機会が増えた。自分から姉だとかそういうのを抜きにして一緒にいたいと言ってしまった手前、深く踏み入った事に口を出すのはよくないのだろうと思い控えてはいるが、恐らくは弥代の知らぬ男の元を渡り歩いている事だけは容易に想像がついた。

 古峯から榊扇へ戻ってきた直後も、彼女を中心に巻き起こったであろう痴話喧嘩に巻き込まれてしまう事があったのはまだ記憶に新しい。彼女と肩を並べて過ごしていたあの期間も、時折向こうから彼女に声をかけてくる事が殆どだったが見知らぬ男に絡まれる事も少なくはなかった。あまり良い顔はしなかったが当時から少なからず変に口を挟もうとは思っていなかった為に目を瞑っていたが、あれ以来出来る事なら一緒にいたいと考えるようになった弥代にとっては、本当は今だからこそ何かしら言うべきなのだろうが。

(言うに言えねぇ空気つーか、言ったところで真面目に向きあっちゃくれないだろうなあの調子じゃ。)

 数日ぶりに帰ってきたと思えば、嗅ぎ慣れない香をその身に纏われせて、適当な相打ちに直ぐに着替えて床についてしまう。自分も布団に入るのに声を掛けても返事すら返してくれない。帰ってきた翌朝は飯を用意して先に起きていてくれるが、同じ釜の飯を食らっても言葉を交わす事はなかった。

 それらを思い返せば言葉がまだ通じて、心労的にもそこまで負担もなく害もない春原のその行動というものはまだ弥代の頭を悩ませる程には至っていなかった。

 悩まされている事に変わりはないのだが。

「いや、まぁ…その、今日はそろそろ帰るわ。こんなんじゃ特に手伝う事だってないだろ?なんだったっけ?水神と畏れられる水虎様は雨の日は一層調子が良いとか、なんとか?」

「あー、それ聴いた事ありますよ!本当はどうかは知りませんけど?」

「そうだなそれなら俺も聞いた事があるな?なんだったか…いや屋敷の女中らが話してるのは大抵根も葉もない噂話である事が大半だけどな?」

 すっかり入り浸る雰囲気を醸し出してる吉田を尻目に、弥代は隅に畳んで追いやっていた絞り染めの羽織に手を伸ばした。

「梅雨のこの時期になりゃ、俺らみたいなのが出る幕はきっとないんだろうって事よ。そんじゃ、邪魔したな!」

 一銭も落とさず、長居するだけして茶に羊羹をいただき雨が止めば弥代は足早に討伐屋を出て行った。

 また暫くして再び降り出してしまえば次いつ止むかなんて分かったものじゃなく溜まったものじゃない。

 あの様子ではちゃぶ台を片し終えた頃にはまた芳賀が吉田の長男と将棋を指し始めるのは目に見えている。十分に頭を使い甘いものを摂り入れてなれば、これ以上頭は使いたくないというもの。

 若干ぱらぱらと降っている感覚が肌に残りはするが、これぐらいなら問題ないだろうと帰路につこうとした矢先、それは突如訪れた。

 濡れ出した前髪が低い鼻筋に纏わりつくのを払い除けようと上を向いた時、腰辺りに何かが突撃してきたような衝撃に襲われた。

「どわっ⁉︎」

 先の雨で泥濘ぬかるんでいた土に足元を攫われる。予期せぬ衝撃にそのまま背中から倒れ込んだ弥代は泥の何ともいえない感触が広がるのを堪えながら、ぶつかってきた何かを見ぬうちから鷲づかんだ。

「何しやがんだこのっ………、え?」

 倒れた上体を持ち起こしながら牙を剥く勢いで吠えるも、しかしその勢いはあっという間に消え失せてしまう。

「は…、狐?」

 それもその筈。自分に正面からぶつかってきたのは腕の中にすっぽり収まりそうな程の大きさの、尻尾もまだまだ短い小狐だったのだ。

「……え?」

 辺りを一気に見渡す。榊扇の里は人が住みやすいようにと、里の中には高くても二階建ての店があるぐらいだ。それ以上の高いものなんて元々あった大山には満たない小高い山が方々にちらほらとある程度だ。弥代が暮らす長屋や先ほどまで邪魔していた春原討伐屋がある屋敷近郊の野山といえばそれこそ屋敷の裏手に広がる霊山として知られる大山ぐらいで、それも今いるこの場所からでは距離がある程度離れている。

 どこからやってきたのかも分からない小狐を一匹、その首根っこを掴みながら弥代は何かを察したように嫌そうな表情を惜しげもなく晒して、ただ一言、

「マジ…かよ…」

 至極面倒臭そうにそう吐きこぼしたのだった。











「それはそうと伽々里、少々話があるのですが、」

 弥代が早々に帰り支度を済ませ討伐屋を出て行ってからほんの少し経った頃、空いた食器を重ねがら相良は下から覗き見るように湯呑みを両の指で包み込む彼女にそう切り出した。

 芳賀は二人が外から帰ってくる前まで出していたまた将棋盤を持ってきて、若干日差しが差し込み明るくなった空模様を横目に吉田の長男と一緒に縁側を占領する形で再び指し合いを初めてしまった。

 一緒に帰ってきた春原といえば館林が付き添う形で討伐屋の裏手にある小じんまりとした道場とはどうにも呼べない場所に篭りきってしまった。止められなければあのまま帰ろうとする弥代に着いて行って外に出ていた事だろうが。

 縁側に面する部屋で特別声を大きくするわけもない。対局に集中しているだろうから声は可能な限り潜めて、相良は彼女の顔色を伺った。

「…何ですか、相良さん?」

「いえ…その、最近あの、わたくしの事を志朗と、呼ばないなぁ…と、思いまして?」

「まぁ、気付いてらっしゃったのですね。」

「あっ、いえ…まぁ、そりゃあわたくしと貴女の付き合いですので。気付かないといった事はないかと…、」

「ではなぜわたくしが、貴方の事を名前で呼ばないと思いますか?」

「………それは、」

 覚えがある。覚えがありすぎる。ありすぎて困るなんて事があろうとは思ってもみなかった。台所に持っていこうとした皿を机の上に下ろして、相良は両手を膝の上に、緩やかにこうべを垂れた。

「…申し訳ありません。」

「…別に謝ってほしいなどとわたくし願ってませんわ。どうか頭を上げてくださいな。情けない姿を私に見せるのは止めてください。」

 はっきりと切り捨てられる。言われた通り頭を上げれば向けられる視線とちあう。普段閉じられている日の目を見ることのない彼女の“色”を視た。

「子どもではあるまいし、引き摺るわけがないでしょう。」

「しかし…っ、」

「それとも何ですか、貴方自身がわたくしに対して何か後ろめたくなる事をされた自覚がおありなのでしょうか。私に謝らずにはいられない、と?それなら話は違ってくるでしょう。」

 思い出すのは二月ふたつき前のあの晩の事。顔を合わせたのは四回ほどの女に、一目惚れではないが気持ちが傾いてしまったのは紛れもない事実だ。言われて思い返せば変な態度を示していたのは自分ではないだろうかと考えが過ぎるも、考え過ぎであれば彼女もこんな風には接してこないだろうとも思えてしまう。

「ご自身の意志で頭を下げられるのでしたら先ほどのままでどうぞいてください。それなら私は許すような言葉を差し上げませんから。」

 自分で引き摺るわけがないと言っておいてからのその言葉を受けて引き摺っているとしか思えないのは、自分に都合よく考え過ぎだろうか。

 今も時折ではあるがくだんの店に鶴見亭をとおして立ち入っているが、尻尾の一つ掴めてはいない状況が続いている。この調子でまた店の女に目を奪われるような事があり、それを伽々里彼女に勘付かれてしまえば、遇らわれる日々が待っているのではないかと肝を冷やす。肝?いやそんなものじゃない。そんなものは常に彼女と対峙する内は冷え切っている。もっと根本にある、大事な何かが冷えてしまいそうで。

「…伽々里、」

「いい歳をした大人がそのような顔をするのは止めなさいな。芳賀さんに示しがつきませんよ。」

 気にしていないという態度を取られるも、やはり彼女が一向に自分の下の名前を呼ばない事に気付くも、いつまでも悔やんではいられないと自身の頬を叩き、少しでも店にて情報を得られるようにと喝を入れた。

 どこからか仄かに香りだす熟した梅の実は彼女の、伽々里のきにいりの時期でもある。梅の実の使い道は多種多様。干せば長きに渡り腐らずに日持ちするが、砂糖漬けにした甘露の他にも、実そのものを酒漬けにしてしまうといった方法もある。台所に関しては横から覗いても邪魔だと追い出されてしまう為に何が必要で何が不必要なのかすらも分からないが、例年の彼女はこの時期であれば一粒一粒を手にとって実の状態をと目を配らせていたがそれがないという事はまだ実自体の用意はしていないのかもしれない。

 空いた皿を持って土間に降りるその背を眺めながら、こっそりと相良は芳賀の元に近づき、耳打ちをしたのだった。











「こっち!こっちですよ弥代さま!はやく!はやく!」

 背の低いものに袖を引かれて走るというのは腰を痛めるものだ。

 それが自分より頭二つ程小さい相手となれば尚更痛むのだが、幼い小童こわっぱはそんなの気付きやしない。忙しない様子で跳ねるように前へ前へと進むものだから、踏み出せば踏み出す程とっとと帰りたいという気持ちが頭角を現してくる。

「いや坊主、あの、そんな強く引っ張んねぇでくれよ。俺、俺には俺の速さってもんがあんだからさ…」

「だーめですよー!爺様がおまちなんですから!朝からずっと弥代さまのことさがしてたんですよ!でもとーばつやはあぶないから?近づいちゃダメだって!」

「そうだね。オタクらの天敵に違いはねぇからなあいつら。」

「弥代さまはてんてきのところに転がりこんでスゴイんだってみんな言ってましたよ!」

「ははっ、泣きそ…」

 そんなつもりが相手にない、他意も悪意もない純粋に向けられる言葉と分かっているからこそ思いがけず涙腺がゆるんでしまいそうになるのはきっと気のせいではない。が、幼子の前で泣きっ面を晒す気にはなれず空いてる方の手の甲で顔をぬぐえば、彼が連れてきたがった目的地はもう目前だった。

 戸が開くそこは、天井が高い味噌蔵だった。


 鼻につく鋭い酸味の香りは身の丈程はある立派な木樽だけではなく、長年匂いが染みついているのだろう蔵全体からする。蔵の奥には何畳か畳が設けられており、そこに集まる衆を前に、弥代は後頭部を掻きながらおおきくため息を溢した。

「今日は一体どのようなご相談ですか?」

 ぬろりと、大きな影が伸びてくる。人間にはない関節をぐぐっと伸ばしたその見た目に人を真似たかのような着物を羽織るのは些か滑稽な姿だが愛嬌がないわけもなく。頬から走る髭の長さだけ見れば相当長い年月を生きているであろうそれは、弥代をここまで引っ張ってきた幼子をその腕に抱え上げて横長の口元を開いた。

「お越しくださりありがとうございます弥代様。我々では少々手が余って要件がございまして。また此度も、お力添えいただきたい次第でございます〜」

 呼ばれた時点で、察しがついていた事だ。






「オタクらはさ、人に紛れて生活してるわけじゃん?どうしてこういう場所に持ってくる飯は人の飯じゃないのかな?俺不思議でならねぇんだわ。」

「弥代さまはスズメ食べないの?おいしいよ?」

「……うん、俺今食欲ないからさ。ごめんな?」

 膝を折りまげて正座をする胴の長い猫を前に、人間の姿で小鳥の羽をそれこそ啄むようにして噛み付く狐の尻尾を生やした小童。蔵の奥の方では大きな蓑に身を包んで体を寄せあう家族のような集団。木桶に立て掛けた梯子を登り木べらではなく己の長い腕を使って掬って状態を確認しているのだろう姿もあれば、桶そのものの移動を手伝う腕っぷしに自信がある様子の犬のような尖った耳を持つ体毛に覆われた二足歩行の二人…いや二匹に、蔵の中だというのに場違いに大きな笠を被った僧侶のような格好をした老けた顔立ちの男、と。一通り見渡した後、また弥代はため息をこぼした。

「ためいきばっかりついてると何とかがにげちゃうんですって!」

「うん、その何とかが分かるようになってから言おうな坊主?」

 血抜きもされていなかったのだろう。口周りを真っ赤に汚しながら食事をし終えた幼子がそう言うので距離を取るように敢えて弥代はその頭を撫でるようにして押し留めながら、弥代は一ヶ月程前に起こった出来事を思い出すのだった。

「いやほんと…なんでこうなっちゃったんだろうな俺…、」






 一月ひとつき前、午の月である五月の最初の日にあたる日を端午たんごの節句と呼ぶ。菖蒲しょうぶの花が盛る頃、菖蒲の花は魔を払うという話から古い頃より名前にかけて“尚武しょうぶ”に通ずる事からもゆかりのある行事とされてきたのだそうだ。時代はいくらか過ぎようともやはりかつての時代に築かれたものというものは根強く残るもので。里を治める扇堂家自体が古くから男児にあまり恵まれないという理由からも、この榊扇の里では男児の誕生と成長を祝う祭りというものはさかんなのだと説明を雪那から弥代は受けていた。

『昨年は屋敷でまだ過ごされていましたからこういった里の行事はご存知ないかと思ったのです。もし弥代ちゃんがよろしければ一緒に行ってみませんか?屋台なども出ていてとても賑わっているようですよ?……ですよね和馬さん?』

『せやね…いやワイも直接見たことはないやけど興味があるなら行ってみると良い、美琴様に言われたもんやから…。弥代ちゃんもどうかなって?』

『要はお前ら二人で行くのが嫌だから俺を巻き込もうって事だろそれ?周りくどい言い方してんじゃねぇぞ?いつの間にそんな面倒くそうな手口覚えやがったんだよこの二人は…?』

 二人暮らしの筈なのに一人で過ごす時間が増えてしまった弥代が転がり込む所といえば行きつけの飯屋か春原討伐屋の他は友人である扇堂雪那が住まう扇堂家の屋敷に他ならない。

 卯月の暮れに行われた少人数での宴の席から暫くの間は頻繁に屋敷に顔を出しては日が暮れてから長屋へと帰る日々を過ごしていた弥代に、幼馴染の二人組がそんな風に提案、お誘いがかかったのだ。

 男児の誕生に成長を祝うという祭り事に自分のようなものが足を運べば、ある程度何というかどういう扱いを受けかねないというのは想像がついてしまう。そう言ったところで二人揃って目を輝かせて頼み込まれてしまえば断るものも断れないというもの。

 引き摺られるではなく背中を二人に押される形で御車に乗り込めば、まさかまさかのその日がだったらしく以前雪那と一緒に足を運んだ事がある比々多ひびた神社に足を運ぶ事となったのだが、

『端午の節句じゃねぇのかよ⁉︎』

『あれ…?日を間違えてしまいましたでしょうか?』

『別のかな?でも祈願は行ってるみたいやね…』

 国府祭こうのまちと呼ばれる祭事が比々多神社では執り行われていた。

 相模国の中でも古くより伝わる四つの社、一ノ宮寒川神社、二ノ宮川匂神社、三ノ宮比々多神社、四ノ宮前鳥神社。そして平塚八幡宮の神輿が相模国総社である六所神社の御神輿と共に一箇所に集う事となる行事なのだという。

『神輿じゃねぇんだよ⁉︎どうせなら屋台だろ‼︎』

『がめついわぁ弥代ちゃん…。ほんまいつも君は食い意地張ってばっかやな、この前だって戸鞠ちゃんと巴月ちゃんが用意してくれた弁当平らげたの殆ど君やったやないか…』

 今まさに相模国総社である地を目指そうとする頃だ。屋敷が近い位置にあるというのに近所の神社で行われる祭事を把握していないなんてどうなのだという目で弥代は思わず雪那の事を見てしまったが、雪那は雪那で興味があったのか神社の者に話を聞きに自ら動いていた。

『あいつ、あんなだったっけ?』

『最近言うのかな、少しずつ色々と気になる事が増えたみたいでの。離れにいる時も書庫で今まで読まなかったもんも手にとって読むようになったんよ雪那ちゃん。えらい成長しとる感じるで。』

『何様気取りだよお前。』

『雪那ちゃんが信頼勝ち取れる、立派な幼馴染や。』

 やけに胸を張ってそう言い切るものだから面を食らったものだ。何様気取りなんだと訊ねたのは自分だが、そうもはっきりと強気に返されてしまえば次の句を中々紡ぐ事ができず。それでも弥代は自分が見ていない間に少しばかりやはり変わったであろう二人の変化を前に少しばかり寂しさにも似たようなものを感じたりしたのだった。

 暫くして和馬も雪那の横で付き添うように境内の中をウロウロとし始め、付き合わされた声を掛けられた手前、先に帰るなどというのは渋りながら神社側で振る舞われる、端午の節句に合わせた柏餅を頬張っていると、ふと視界に餅に伸びる小さな手を弥代は見つけてしまった。

 

 伸びる手の先には体が見えない。何事かとそちらの方を覗きこむように見ても何も見えない。当に剥がしたかしわの葉で口元を隠しながら、その手の近く歩み寄ればつま先に何かが当たる。どこかで感じたことのある感覚にそっと手を伸ばせば、何かを掴んだ。本来の姿が見える直前のあの靄のような変な感覚。あんぐりと口と目を開いて弥代の方を凝視する狐のような耳を生やした幼子がそこにはいた。



『雪那悪ぃ、用事あったの思い出したから俺帰るわ!』

 別に食うものに困ってるわけではないがしっかり甘い餡子が気に入った弥代は二、三個懐に餅を放り込んで、小脇に抱えた狐耳を生やした幼子の口にも餅を咥えさせてと、足早に比々多神社から立ち去った。

 長い階段を飛ぶような勢いで駆け下りれば、人気のいない林に潜り込んで、脇に抱えていた幼子を下ろし向かい合った。

『どっから来やがった坊主?迷子か何かか?親はどうした?』

 訊ねるも幼子は今しがた弥代が放り込んだ餅を頬をぱんぱんに膨らませて味わっているだけで、内心焦っている弥代とは裏腹に顔色一つ変えやしない。

 それどころか食べ終えたと思えば両肩は掴まれたままだというのに、その視線はじーっと弥代の懐に収めらられた余分な餅へと向けられる。

『もう一個食ったら喋ってくれるか?』

『いいよー!ぼく嘘はつかないよー!』

 無邪気なものだ。

 しかし懐の一個を差し出して平らげた所で、またその視線は弥代の懐へと向けられる。

『もういっこ食べたいなぁ…』

『一個って約束しただろ…』

『でも兄ちゃん、まだ二個持ってるのぼく知ってるよー?』

『……これが最後だぞ?』

『うん!』

 まぁしかしそうなれば二個目を平らげて続くのは

『…もういっこだめ?』

『馬鹿野郎坊主、こいつは俺…、に、兄ちゃんの分だ。』

『えー…』

『駄々こねて全部貰える程世の中優しかねぇんだよ覚えとけ。』

『でも兄ちゃんはきっとやさしい人だと思うなぁ…』

『………、』

『おねがーい…』

『半分だけだからな…』

 こんなことならと、食べている間に自分も最後の一個を食べてしまえばよかったと後悔しながら、弥代は半分に割った方の小さい方を幼子に差し出した。

『……、』

『なんだ言いてぇ事があんなら口で言え…。』

『兄ちゃんもおなか空いてたんだね。僕やさしいから小さい方でもいいよ。』

『…っ‼︎』

 すぐ様小さい方と取り替えた弥代は強請られる前にと一口で放り込んで餅を食べてみせた。

『兄ちゃんおいしかった?』

『美味かったよ!だから話せよ⁉︎答えろよ‼︎俺がキレる前にな‼︎』

 善意だ。以前伽々里が家を訪ねてきた際に言っていただろう言葉を、獣の耳を生やした見るからに人間ではない幼子を目にして弥代は思い出した。耳一つとってもなんとも中途半端な人間の真似だ。色を持たない髪の中に埋もれる耳毛は顔よりも耳が大きいのではないかと錯覚してしまうほど顔の脇際まで生えていた。鼻先も赤らんでいるのではなく黒い豆粒程の鼻頭。着物の裾から覗く足先には体毛に覆われた四本指に、小さいはずなのに主張だけは一丁前に裾が捲れて姿を見せる膨らんだ尻尾と、思い出すのは完璧に人間に化けていたあの黒い毛並みの狐の知り合いだ。立派な化け具合を間近で見ていたからこそ目の前にした幼子の酷い有り様がよく分かる。人目のつく、人気の多い境内で見なかったふりをして過ごすのは到底難しい。

 たとえこの榊扇の里にはこの幼子のように人に化けて暮らす妖、妖怪がいたとしてもこんな中途半端な姿が何も知らない者の目に留まればそれは一大事だ、と。

 足早にその場から離れたのだが、まさかまさかである。

 まさか後で食べようと、それぐらいなら罰は当たらないだろうとくすねた餅がすぐになくなっってしまうことになろうとは。

『兄ちゃんまだ食べたかったの?ごめんね僕がぜんぶ食べちゃったから…?』

『そうだぞ坊主。分かってるからって一々口にする必要はねぇんだからな。だからお前はとりあえず家族と住んでる場所を答えろ。俺がお前をそこまでしっかり送り届けて二度とこんな事がないように説教の一つくれてやっからよ‼︎』

 冷静でない。既に冷静ではない思考でそれでも弥代はどうにか幼子から暮らしている場所を聞き出した。

 当人がどこか余計な場所に行かないように肩車をしながら訪れたのは里の東区画。弥代が暮らす長屋からもまだ多少距離の離れた通りから少々入り組んだ場所にある大きな蔵が塀の外からも見えるたつ味噌みそ屋、そう今弥代がいる場所だった。


「まさか坊主送り届けてそれでおしまいにならないなんて誰が想像してたよ。これだから関わりたくなかったんだ。面倒毎が増えていく…。」

「いえいえそんな厄介事ではございませぬ。また一つ我々では出来ぬ事を頼まれてくださるだけで良いのです。」

「それを俺は面倒事だって思ってるんだよ…、」

 差し出された巾着の中身を確認しつつ、腰紐に括り付けていた空になった巾着と交換するように解き結び直しとしていれば、空の方は足早に駆け寄ってきた蓑を被って顔すら見えない背の低い何かが掻っ攫っていた。

「……、」

「あれらは全て彼らが手縫いにて作っているのでございますよ〜。立派でございましょう?」

「一言あっても良いんじゃないかなぁ⁉︎」

 幼子を送り届けてはいそれでおしまいなどという事はなかった。

 表立っては家の者で一通りの手順で味噌を作っている辰味噌屋。

 人間に化ける点で言えば近隣では右に出る者はいないという程の化けっぷりで普段は化かしているのだそうだが、先日この味噌蔵の中で次に化けるのが得意な若者がぽっくりとそれは正に突然逝ってしまったそうで、人手が足りないのだという。それとこれとは幼子が目を離した隙に遠くに出歩いていい理由にならず当然弥代は反論したものだが、表に出れる人手が少ないのだから仕方ないだろうと返されてしまえばそれまでだった。なんでも人に化けるのが得意ではない妖怪連中を全てこの味噌蔵、辰味噌屋の敷地内で保護しているのだという辰五郎こと化け猫の亭主。

 必要なものがあるが自分が留守にしては客が誤って踏み入ってしまい姿を見られてしまうかもなんて怖がられ、里の中を使いっ走らされたり、少し距離の離れた家々から受けてしまった注文を配達するのに一軒一軒回されたり、または長年使っていた事で破損してしまった木桶を新調するのを無理な金額で安値で交渉させられたりと、散々この一月ひとつき程の弥代は振り回されていたのだ。

 これでは自分自身がまだ人ではないという事実を本当の意味で受け入れられていなくとも、やはりあちら側の存在であると関わり合いをもつことで分からさせられているようで複雑な気持ちを味わう事となったのは今はあまり関係のない話だろうが、色々とあって弥代の気持ちは乗り気ではないといったのが正解だ。

「ったくよ…俺は便利屋じゃねぇんだよ。こういうのはそれこそ里のおえらい水虎様にでも頼めってんだよ…ほんとまじでよぉ…。」

「おやおや弥代様?水虎様と面識がおありで?」

 辰五郎の目が子どものように煌めく。その目に自分は弱いと自覚したのは先日のまさにあの日だろう。しかしどこか獣臭い体臭を纏わせた辰五郎に対して弥代が抱くのはどちらかといえば不快感に近いか。人に化けている際は匂いも誤魔化せるらしいので出来ればそちらで過ごしてもらいたいものだが、それだと他に化けられない者たちがどうにも落ち着かず仕事にならないとかで、人前に出る時以外は元の姿で過ごしているそうだ。

 そんな彼がキラキラと硝子球のような人よりも二回り三回り程大きな目をパチパチと瞬かせて長い髭を撫でる。手付きはやはりどうにも人間らしい。

「いつだったでしょうか。昨年だったと思われます。水虎様より仰せつかったのです。もし何かあれば弥代様に頼っても構わないと!いやはや何ですか弥代様も御人が悪い!聞かされていたのでしたら初めからそう仰ってくだされば良かったものを!」

「話初めから聞いてましたかー⁉︎ひっとことも、誰もひ一言もそんな事言っちゃいねぇんだよな⁉︎本当にこの里の奴はどいつもこいつもよー‼︎」

 どのどいつもこいつもなのかはさておき。

 弥代はとりあえず今日ここに呼ばれる原因となった話を、彼の口から聞く事となるのだが、それはまた次の話。






 鬼ノ目 五節・うめのきばむ、破られしえにし これより開幕




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