〈深海の影〉魔改造たいげい型原子炉潜水艦 “黒鯨(こくげい)”

@tasukunakarai

第1話 世界が沈む音

1


台湾海峡の夜明けは、異様な静けさに包まれていた。


風はなく、波も低い。

まるで海そのものが、これから起こる惨事を知り、息を潜めているかのようだった。


午前四時十二分。

静寂を破ったのは爆音ではない。

電波の沈黙だった。


台湾全域で、通信が一斉に途切れる。

携帯電話、警察無線、港湾管制、放送波——

それらすべてが、同時に“落ちた”。


台北の統合作戦センターで、当直士官が叫ぶ。


「通信系、全面ダウン!

バックアップも応答なし!」


次の瞬間、

防空レーダーの画面が白く染まった。


数百、数千の目標。

存在しない航空機の影。


それは中国人民解放軍が仕掛けた、

侵攻の合図だった。


2


中国軍は、いきなり艦隊を動かさなかった。


最初に放たれたのは、

人工衛星と高高度無人機から降り注ぐ電子的な嵐。


台湾の防空網は混乱し、

迎撃判断ができない。


その隙を突くように、

本物のミサイルが海面すれすれを飛来する。


台中、台南、高雄。

空軍基地の滑走路、軍港の要衝、レーダー施設が

ほぼ同時に炎に包まれた。


だが攻撃は限定的だった。


人員被害は最小限。

破壊されるのは「反撃能力」だけ。


それが今回の侵攻の本質だった。


——戦争は、すでに始まっている。

だが、全面戦争ではない。


3


夜明けとともに、

台湾東方沖の海面に異様な光景が現れる。


中国海軍の揚陸艦、強襲艦、護衛艦が

帯のように展開していた。


しかし、まだ距離を保っている。


代わりに、

海の下で別の戦いが始まっていた。


台湾海軍の潜水艦が、次々と異常を報告する。


「推進系が応答しない!」

「ソナーがノイズで埋まっている!」


事故ではない。


中国海軍の最新鋭原子力潜水艦——

虎鯨級が、台湾周辺海域を“掃除”していたのだ。


狙いは明確だった。


台湾の潜水戦力を、

戦う前に沈黙させる。


4


台北総統府地下。


参謀総長は、映像を見つめながら言った。


「威嚇ではありません。

完全な侵攻です。」


台湾総統は短く頷いた。


「全軍、防衛行動を開始。

……日本とアメリカへ、緊急連絡を。」


だが、中国軍はすでに次の一手を打っていた。


侵攻開始から一時間後。

沖縄、宮古島、石垣島。


自衛隊基地が、精密誘導兵器による攻撃を受ける。


滑走路、燃料施設、レーダー。

即応能力だけを奪う、冷酷な打撃。


それは日本への明確な警告だった。


「動くな。

動けば、次は本気だ。」


5


日本政府は防衛出動を発令する。


だがその裏で、

さらに不穏な動きが始まっていた。


北方。


ロシア極東艦隊が、静かに南下を開始する。


日本の情報網に、

わずかな、しかし確実な兆候が届く。


「ロシア原潜、北から接近中」


それは偶然ではない。


中国とロシアが結んだ

秘密軍事同盟北辰協約


その最初の歯車が、

いま回り始めたのだ。


6


アメリカ太平洋軍司令部は、騒然としていた。


「台湾、日本、そしてロシア……

二正面どころか三正面だ。」


第七艦隊司令官は、低く呟く。


「これは地域紛争ではない。

大国間衝突だ。」


数時間後、

アメリカ大統領は声明を発表する。


「日本への攻撃は、

アメリカへの攻撃とみなす。」


世界は、一気に戦争へ傾き始めた。


だが——

誰も知らない場所で、

すでに“日本だけの戦争”が始まろうとしていた。


7


長崎県・端島。

通称、軍艦島。


老朽化を理由に、

立ち入りが厳しく制限された無人島。


観光船は、今日も島の外周をなぞるだけで引き返す。


だが、その地下深く。


かつての炭鉱坑道を改造した巨大空洞に、

鋼鉄の要塞が存在していた。


端島深海基地。


そしてその中心に、

黒く、巨大な影が横たわっている。


たいげい型原子力潜水艦——

〈黒鯨〉。


8


地下司令室。


八咫烏代表・鞍馬京介の声が、

静かに響く。


「黒鯨を放つ時が来た。」


モニターには、

台湾、沖縄、北方海域の状況が映し出されている。


「日本は、正面から戦えない。

だから——影で戦う。」


通信回線が開かれる。


黒鯨艦内。

艦長・堂嶋遼は、短く答えた。


「了解。」


9


同じ頃、京都。


御所の奥深くにある地下会議室。


“御所の影”の長官、九条典厩が呟く。


「八咫烏は、盾を選んだか。」


彼の目には、冷たい光が宿っていた。


「だが盾だけでは、国は守れぬ。

日本には、刃が必要だ。」


黒鯨の出撃は、

日本内部の均衡をも揺さぶり始めていた。


10


端島深海基地。


巨大な水門が、音もなく開く。


海水が流れ込み、

黒鯨は浮力を得て、ゆっくりと前進する。


推進器は回らない。

音は、ない。


黒鯨は、

海に溶けるように姿を消した。


堂嶋艦長は、深海の暗闇を見つめて呟く。


「……聞こえる。

世界が、沈んでいく音だ。」


黒鯨は進路を南へ取る。


台湾海峡。

中国、ロシア、アメリカ、そして日本。


すべての意志が交錯する海へ。


深海の影は、

誰にも知られぬまま、戦場へ向かった。

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