幽霊も遺伝子に規定されている
烏川 ハル
第1話
昔は俺にも「大発見をして歴史に名を残したい」みたいな気持ちがあったが、
現実としては、どんな論文でも世界中の同じ分野の研究者に読んでもらえるし、彼らの記憶に名前を残せる。それで十分と考えるようになり……。
さらに最近では、そんな「名前を残したい」という欲求も消えてしまった。
生物系の研究をしているうちに、見方が大きく変わったのだ。
地球上の長い生物の歴史から見れば、人間の歴史なんて一瞬。そこで名前を残すことにどんな意味があるのか。
それなのに、今この瞬間。
俺は逃げ回っていた。
初めて身近に感じる死の恐怖。
平穏な日々では知ることのない感覚であり、厭世観など簡単に吹き飛ばすほどの衝撃だった。
だから今、死にたくない一心で必死に逃げている。
こんな事態に陥った、そもそもの発端は……。
――――――――――
いつも通り俺は、動物実験棟で夜を過ごしていた。
俺が働く研究機関では、動物実験は別の建物で
俺はウイルス学が専攻の分子生物学者で、自作の組換えウイルスの効果を調べるため、最近は毎日この動物実験棟を利用していた。
誰もいない深夜の実験棟で、実験動物に囲まれて一人。不気味に感じたのは最初だけで、慣れた今ではむしろ一人を気楽と思うくらいだった。
建物の二階部分は動物学の専門家の場所だが、彼らも今頃は家で眠っているだろう。俺みたいに必要な時だけ動物実験する研究者は、一階を使うことになっていた。
廊下の両側に個別の実験室が並び、それぞれの扉には「BIOHAZARD」の記号。ゲームや映画などで有名になった、丸に三つの円弧を組み合わせたマークだ。
その中の一室が、俺に割り当てられた部屋だった。
ずらりと並んだ飼育ケージ内に、それぞれ六匹ずつのマウスたち。おかげでマスク越しでも感じられるほど、ムッとするようなケモノ臭が部屋
とはいえ彼らを責めるつもりもない。なにしろ彼らは、俺が作った組換えウイルスを接種された、ある意味かわいそうなマウスたちなのだから。
ちょうど俺の「かわいそう」という気持ちを感じ取ったのか、いや単なる偶然だろうか。飼育ケージの中の一匹がこちらを向き、俺と目が合った。
少しの間マウスと見つめ合いながら、俺は色々と考えてしまう……。
――――――――――
かつてはウイルスと
それでもウイルスと
ウイルスの中心部にある遺伝子は、遺伝情報の書かれた設計図。他にもウイルスを構成するものとして外膜や構造タンパク質があり、設計図をコピーするための遺伝子複製機構も
しかし設計図から生物部品を作るための装置はないので「同じ形態の子孫を作る」という生物の定義を満たさないし、生き物の細胞に感染して装置を借りる必要が出てきてしまう。
ウイルスなんて
そんなウイルスの中で、俺が現在研究しているのはRウイルス。人間にも動物にも感染するウイルスだ。
感染すると脳細胞を目指すが、脳内で増えた
最後には人間に行き着くが、Rウイルスが脳内で増えた人間に他人を噛む元気はない。重度の脳炎で死んでしまう。発病すればほぼ百パーセント死に至る感染症だ。
ただし「発病」と「感染」は別物。筋肉組織では増えにくく、そこは通り過ぎるだけなので、Rウイルスが脳に到達するまでは病気の症状も出てこない。
例えば首から上を噛まれたらすぐにウイルスが頭部に達するため助からないのに対して、四肢の末端から感染した場合、脳に届くまで少しは時間の余裕がある。その間に処置をすれば「発病」を防げるので、ここで有効なのがワクチンだ。
一般には予防接種のイメージが強いワクチンだが、感染してもすぐに体内で増殖せず、発病までにタイムラグがあるならば、感染後の接種でも効果がある。暴露後ワクチン接種と呼ばれるタイプだ。
Rウイルスのワクチンは実際、予防接種も含めて既に実用化されているが、それでも研究者はワクチンの研究を続けている。より安価で、より安全で、より効果的なワクチンを開発しようという試みだ。
俺の研究テーマも、その延長上にあるのだが……。
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