プロローグ
魔女狩り ――沈黙が罪とされた時代
プロローグ
「……違います」
アンナは、そう言った。
声は思っていたよりも、ずっと小さかった。
石造りの広場には、朝の湿り気が残っている。昨夜の霧が、まだ地面に張りついたまま剥がれきっていない。足元の石畳は冷たく、靴底からじわじわと体温を奪ってくる。鼻の奥に、かすかな獣脂の匂い。松明の燃え残りだ。
「違う、とは?」
黒い外套の男が、ゆっくりと首を傾けた。
声は穏やかで、低く、どこまでも丁寧だった。
「何が、違うのですか」
アンナは唇を噛んだ。乾いて、少し切れている。血の味が、舌に広がる。
「……私は、何もしていません」
「ほう」
男は微笑んだ。
それは怒りでも嘲りでもなかった。ただ、書物の行間を確認するような顔だった。
「“何もしていない”と」
その言葉が、広場に落ちる。
人々の間を、ざわりと音が走った。風が吹いたわけではない。誰かが咳をしたわけでもない。ただ、空気が少しだけ硬くなった。
「夫が死んだ夜、あなたは泣かなかったそうですね」
誰かが言った。
アンナは、声の主を探そうとして、やめた。見なくても分かる。市場で何度も顔を合わせた女だ。干し肉の値段で、よく口論した。
「泣かなかった。それが、何だというのですか」
今度は、はっきりと声が出た。
自分でも驚くほど、まっすぐな音だった。
「悲しみ方は、人によって違います」
「ほら」
また、ざわめき。
「言い返したぞ」
「やっぱり」
「魔女は口が立つって……」
誰かが、そう囁いた。
アンナは息を吸った。
朝の空気は冷たく、胸の奥が痛くなる。薬草を干すときの、あの匂いはもうしない。ここには、土も葉もない。あるのは、石と、人の視線だけだ。
「静かに」
黒い外套の男が手を上げると、不思議なほど、音が引いた。
彼はアンナを見つめる。
「あなたは、治療をしていましたね」
「……はい」
「祈りではなく、草で」
「草も、神が創ったものです」
一瞬、男の眉がわずかに動いた。
それを見て、アンナの背中に冷たい汗が流れる。
「治らなかった者もいる」
「……います」
「死んだ者もいる」
「……います」
男は一歩、近づいた。外套が擦れる音が、やけに大きく聞こえる。
「では、なぜ“治った者”だけが語られるのでしょう」
アンナは答えなかった。
答えを探したのではない。答えてはいけないと、本能が告げていた。
沈黙。
その沈黙に、人々がざわつく。
「ほら、黙った」
「言えないんだ」
「やましいからだ」
「――沈黙は、肯定とみなされます」
男の声は、淡々としていた。
まるで、天気の話をするように。
アンナの喉が鳴った。
「私は……」
言葉を探す。
けれど、どの言葉も、すでに形を変えられてしまう気がした。
「私は、ただ……」
母の声が、ふと頭をよぎる。
黙っている方がいい時もあるよ。
その教えが、ここでは刃になる。
「……ただ、生きていただけです」
一瞬の静寂。
そして――笑い声。
「生きていただけ、だってさ」
「それが一番怪しい」
「何もしてない人間なんて、いるもんか」
男は、ゆっくりと頷いた。
「記録します」
羽ペンが、紙を擦る音。
その音が、やけに耳に残る。
「被疑者、アンナ。未亡人。薬草治療を行う。反省の態度、認められず」
「反省……?」
アンナは、思わず声を上げた。
「私は、まだ何も――」
「まだ、です」
男は静かに言った。
「ですが、いずれ語るでしょう。
人は皆、語ります。
沈黙に、耐えられる者はいませんから」
松明に火が灯される。
油の匂いが、空気を満たす。
アンナは、その揺らめく炎を見つめながら思った。
――沈黙は、私を守ると思っていた。
――けれど、ここでは。
沈黙は、罪だった。
そして、誰もそれを疑っていなかった。
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