読親

小狸

掌編

 小説家として、小説を書くかたわら、講演会を行うことがある。


 その時、しばしこんな質問が来ることがある。


「子どもが読書しないのだが、どうすれば読むようになるか」


 そういう育て方をなさったから、そういう子に育ったのではないですか、と言うのは簡単である。読書以外の娯楽はたくさんある、読書をすれば国語科の成績が上がると保障されているわけではない、そもそも読書はあくまで娯楽の一つであって、何かを成し遂げたりするための手段ではない、その辺りの認識から折り合いをつけねばいけないのだが、今の時代そんなことを真正面から言えば、すぐに炎上してしまうので、その手の返答はいつも心の中に秘めておく。


 ならば何と言うかというと、逆にたずねるようにしている。


「あなたは、読書をしますか」


「子どもは、親の姿を見て育つ、と言います」


「親が楽しそうに読書している姿を見れば、子どもも興味を持ってくれるのではないでしょうか」


「私が、そうだったからです」


「両親と、一緒に暮らしていた祖母が読書好きだったので、いつか一緒に感想を言い合いたいと思い、小説を読み、小説家を目指し、今ここに立っています」


 無論、全てのご家庭、全ての子どもに当てはまることではないことは、重々承知している。


 いくら保護者が読書家だろうとも、読書に興味を示さない子どもだっている。子育てというのは、そう簡単に「こうだからこう」と定義付けできるわけではないのは、全国の保護者の皆さまもご理解いただけるだろう。


 それでも。

 

 少なくとも一番身近な大人が読書を趣味とし、積極的に読み、楽しんでいる、という状況は。


 子どもにとって、になると思うのだ。


 何か、が具体的に何であるか、というのは分からない。財産とか、魅力とか、好きな言葉を代入してほしい。


 重要なのは、楽しく読む、ということである。


 これは簡単なようでいて、難しい。


 読書好きな人にとっては、読書を楽しむことなど造作もないことだろう。ただ、子どもの見えるところで、文庫本片手に、子どもと一緒にいる時間、読書をしていれば良いのである。


 ただ、そうでない人にとっては、ハードルとなろう。


 自分は読書が好きではない、でも、子どもには読書を好きになってほしい。


 それを突き詰めてゆくと、例えば「こういう本を読んでほしい」とか「こういう本は読んでほしくない」とか、そのような若干過激な思想にも行き着くことがある。私が今こうして自由に書くことができているのは、私の保護者が、読書に関しては、比較的自由にさせてくれたからである。


 後は、子どもと共に書店や図書館に足を運ぶようにする、とかだろうか。


 いくら読書が好きになっても、書籍がなければ、どうしようもないのだから。


 また私の話になってしまうけれど、私は幼少期、幼稚園に入る前から、ずっと地元の図書館に通っていた。親と一緒に、毎週のように図書館に行って絵本を借り、寝る前に弟と母と一緒に読んでいた。それがたまたま、小説家になるという形で功を奏した、ということなのだろう。


 そう、偶然なのだ。


 敢えて言うのなら、子どもの興味関心が、物語に向く「瞬間」というものは、子育てをしていて必ず訪れる。それを見逃さないようにしてほしい――と。


 幼児教育に関して門外漢の私に言えるのは、これくらいである。


 そして、図らずも、そういう質問をする保護者の方々は。


 往々にして、自らは読書をほとんどしないことが多いということも。


 ここに記しておく。




(「どくおや」――了)

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