泣虫煙し
小狸
掌編
私は、自他共に認める泣虫である。
実際の私を知る人からすれば、私という存在を想起した際、まず間違いなく「泣虫」という記号が連動することだろう。
主に感涙に
例えば小説を読んでいて、その巻が最終巻であり、終わりが名残惜しいと思う。それだけで、泣いてしまうことが多々ある。多々、である。決して少なくない。先月も、好きだったシリーズが大団円の最終話でまとまった。皆というほど皆ではないけれど、主人公の人々は、幸せになった。それが嬉しくて、涙を流したくらいである。
一方、私は「涙を誘う!」「○○が泣いた!」「泣ける小説!」とか、そういう帯文句には
感涙は、誰かから指示されてするものではなく、心の内側から湧き上がってくるものだから――と、私は思っている。
強制的に喚起させられて義務的に泣くなど、俳優の方などを除けば、大抵の人はそもそもできない。
後は、唐突に褒められた時などだろう。私は自己肯定感が限りなく低く、褒められるということが日常でない生活をずっと送ってきた。まあ、大体の「褒め」は予測できるので、褒められる前に、心の準備をしておくようにしている。
仕事や日常生活において、毎日だくだくと泣いているという訳ではない――ということは念頭に置いていただきたい。涙で物事を解決できるのは幼稚園生までである。悲しくて泣く、ということは、例えは悪いが身近な人が他界した時以外は、ほとんどないと言っていい。泣くことによって生活能力、社会人としての能力が破綻しているとか、職場で感極まって号泣するだとか、そういうことはない――と思いたい。
どうして――私はこんなにも泣虫なのか、という疑問への解答は、ないわけではない。
小学校5年生のことである。
私は、女子グループからハブられて、いじめを受けていた。
いじめは絶対にいけないことだ。
それを前提にした上で、それでも私は、いじめを受けやすい立ち位置にいたと思っている。
友達と呼べる友達が、一人もいなかったのである。
毎日長い休み時間は、いつも図書室で一人、本を読んでいた。
そんなの、恰好のいじめの的である。
小5くらいの女子グループに属していた人は分かると思うが、一人でいる者、一人ぼっちの者に対して向ける視線は、厳しい。
登下校では、20分ほど歩く必要がある。
学校からの帰り道、私はいつも泣いていた。
わんわん大泣きするのではなく、小さく
どうして私が、こんな思いをしなければならないのだろう。
どうして私には、友達ができないのだろう。
どうして私は、ちゃんとできないのだろう。
当時のことがトラウマで、親不孝だったけれど、成人式には行かなかった。
卒業式も、泣くことができなかった。
むしろ嬉しかったくらいである。
あんな人たちと、もう一緒にいる必要がなくなって。
こういう
しかし泣くことは、悪いことばかりではない。
人に迷惑を掛けさえしなければ、泣くことによって得られる心身のメリット、というのも、実はあるらしい(どこかのネットの記事で見ただけなので、信憑性は確かではないのだが)。
まあ結局、私が泣虫であって一番周囲が気にする点というのは、そういう「周りの人々に迷惑を掛けていないかどうか」だということである。流石の私も大人である、電車内で小説を読み、落涙することはない。
そんな私を見て、私を知る人はしばし、こう言う。
「○○さんは純粋だから」
それは見当違いも甚だしい。
むしろ、純粋とは程遠い、混濁した世界に存在していると思っている。
小学生、いやさ幼稚園生の頃から、私はどこか周りとズレていて、その差異を修正しながら、何とか生き繋いで、生き続けることができてしまった――という、ただそれだけの話なのだ。感情表現の力が
大抵の人がそうなのだろうが、泣いた後はすっきりするので、泣くこと自体は、別に嫌ではない。
今の目標は、職場の人に泣虫だとバレないようにすることである。大学では、サークルの大学生最後の発表会の飲み会で号泣してしまい、そこで露呈した。気を付けなければならない。
感情の制御のできない人間、と捉えられては
それでも、今は。
私はこんな私を、あんまり嫌いではない。
だから、良いのだ。
(「泣虫
泣虫煙し 小狸 @segen_gen
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