追憶座 -シアター・レミニセンス -

天童フリィ

Opening scene:40本の願い灯

梅雨のさかりで、降り続ける雨が世界の明るさを塗りつぶしていた 。湿しめり気を帯びた雨音は、朝日佳奈あさひかなのアパートの薄い壁を容易よういに通り抜け、室内へと響いている。



「ろうそくの本数合ってるっけ……?」



中田涼香なかたすずかの声は、吐息よりも小さく、部屋の空気に溶けていく 。



暗闇の真ん中、テーブルの上には二人で食べるにはあまりに不釣り合いな、大きなチョコレートケーキが置かれている。佳奈かな涼香すずかは、そこに十九本ずつ、計三十八本のろうそくを立て終えたところだった 。



「いやはや、今年もお互いすこやかに歳をとりまして。実におめでたく思う所存です」



涼香はおどけた調子で笑い、パチン、と部屋のスイッチを切った。



「一体、いつの時代の人間よ」



佳奈はあきれた声を出しながらも、口元は自然とゆるんでいた 。二人はライターで一本ずつ、儀式のようにろうそくへ火をともしていく。



「知ってる? どこぞの国では、ろうそくを消すときに願い事をするんだってさ」



笑顔で語る涼香の顔を照らしていたのは、チョコレートケーキに立てられたろうそくの炎だった 。



「いや、どの国でもやるでしょ、そんなの」



炎を見つめる佳奈は、ツッコミながら期待に満ちた輝きを瞳に宿している。



「でもね、その願い事は、翌年に、もう一度こうして火を消すことができたら、初めて成就じょうじゅされるんだって」



佳奈は手を止め、涼香の顔をまじまじと見つめた。三十八個の細い炎に照らされた涼香の瞳は、目の前の佳奈ではなく、どこか遠くにある、はかり知れない「先」を見据みすえているようだった 。



「それって、自分で叶えろってこと?」



「そうだね。叶えられなかったら、来年の火は消せないんだよ、佳奈」



涼香の言葉が、溶け始めたろうのように重く床へ落ちる。佳奈はその胸をざわつかせる不吉な予感を振り払うように、わざと大きな声を張り上げた。



「もういいから! 歌うよ!」



二人は手拍子を合わせ、声をそろえて歌い出す。



「ハッピーバースデー・トゥ・私たちー! ハッピーバースデー・トゥ・私たちー! ハッピーバースデー・ディア、私たちー! ハッピーバースデー・トゥ・アース!!」



二人は肺いっぱいの空気を吸い込み、思い切りろうそくの火に吹きかける。三十八本の火が一気にき消えた。涼香は部屋の電気をつけるために立ち上がる。



「で、佳奈はどんな願い事をしたの?」



佳奈は照れくさそうに自らの首元へ手をえた。



「願うことなんてないよ。私は、今が一番幸せなんだから」



涼香は電気をつけて、佳奈に駆け寄る。



「私はね……」



照れて視線を外す佳奈の背中に、涼香がそっと抱きついた 。



「来年も、再来年も、ずっと佳奈と一緒にこの火を消せますようにって、願ったよ」



佳奈は舞い上がりそうなほどの歓喜が胸の奥からこみ上げてきた。しかし、佳奈はそれをさとられぬよう、必死に高鳴る鼓動をおさえ込む。



「……そんなの、当たり前じゃん。私たちは、ずっと変わらないんだから」



佳奈は照れ隠しにじゃれつき、二人の笑い声がせまい部屋に満ちる。それが永遠に続く「今」だと、佳奈は一寸いっすんの疑いもなく信じていた。




あれから月日は流れ、外は嵐のような雨が荒れくるっていた。




部屋の中は、あの時と同じように暗い。だが、テーブルに置かれたチョコレートケーキには、四十本のろうそくが立っている。スマホの液晶画面には、三日前から何度も、何度も繰り返した発信履歴がむなしく並んでいた。返信も、着信もない 。



佳奈は暗がりのなか、重い腰を上げて立ち上がった。震える指先でライターを握りしめ、一人で四十本のろうそくに火をともし始める。今はただ、カチカチというむなしい金属音だけが冷え切った室内に響いていた。



その後、佳奈は床に体育座りをし、一人で四十個の火を見つめている。熱に負けたろうがだらだらと流れ、ケーキの表面を無惨むざんに汚していった。その熱を映す佳奈の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。



「……叶わなかったじゃん、涼香」



あの時、どうして涼香はあんな願いを口にしたのか。もう二人に「未来」が来ないことを、彼女は知っていたのだろうか。叶うはずのない願いだと知りながら、あんなにも優しく抱きしめたのか。



佳奈が耐えきれず窓を押し開けると、湿った雨風が激しく室内に入り込んだ。その勢いにあらがすべもなく、四十本のろうそくの火は、あっけなくき消される。



光を失った部屋の中、冷え切った六月の風が、音を立てて窓を叩き続けていた。

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