夕焼けに浮かぶ月

@Harunomuku

夕焼けに浮かぶ月

 十数年前、僕は忘れられない恋をした。いつまでも色褪せることのない、そんな出会いだ。

 冬の寒い時期に僕は彼女と出会った。同じ学校の後輩。関わりもなかったが何となく存在を知っているだけのただの他人。同じ学校だからという理由で話したのがきっかけだった。その時の僕はただ恋愛というものにうつつを抜かすだけの存在で、この恋が忘れられないものになるなんて想像さえ出来ていなかっただろう。人生においてたくさんある出会いの一つでしかなく、いや、むしろそこまでも思っていなかったはずだ。ただ話してみたいと思ったから話しかけた、恋愛を求めていたから話しかけた、それくらいの感覚だった。高校受験に本気で挑んでいないといけなかったはずの時期に勉強よりも恋を優先していた僕は、彼女と関わるようになってすぐにアプローチをかけたのを覚えている。それほどまでの何かがあったのか、それともただ恋人が欲しかっただけなのか、今となってはわかるはずもない。今の僕にとって彼女は特別すぎるほど特別になってしまっているから。

 彼女と付き合った期間は、二ヶ月くらいだった。世間一般の声というものを反映させるのであれば、短い時間だったといえる。始まるのも早ければ終わるのも早かった。それなのに未だに彼女を想っているんだと誰かが知れば、なんと言われるか想像がつく。だけど、付き合った長さなんて関係ない。何年も続いたとしてもすぐに忘れ去る恋もあれば、たった一日でも忘れられない恋だってある。出会った時間の長さや付き合った期間をうだうだと考えるのは、心に穴を開けるような恋をしていない人間が言うようなもので、想像力と経験が足りていない浅はかな思考だ。それほどまでにこの恋は、僕の人生を狂わせてしまうようなものだった。

 そんな僕らが別れた理由は、自信のなさからくる他人への嫉妬、それを抑えることが出来るほどの人間性が備わっていなかったことだ。感情を抑えることが出来ていなかった。不安になって、それをぶつけてしまい彼女の心を傷つけていったと思う。今の僕であったらそんなこと言わないのになと思ったところで仕方のないことである。それでも、あったかもしれない幸せを考えてしまう。彼女を縛ることもなく、自由にのびのびと付き合うことが出来たなら今頃世間一般的な幸せを手に入れてたのだろうか。高校に行っても付き合い続けていたら、自己顕示欲が高く彼女を自慢したい僕はきっとSNSに彼女の惚気を呟いて、それを見た人から理想のカップルだなんて言われていた未来だってあったかもしれない。そうして、今頃結婚して子どもさえいたかもしれない。そんな有り得ない未来を想像してしまう。その世界の僕はきっと小説なんて書いていなくて、書いていたとしても誰しもが憧れる空想をただ物語として垂れ流すだけの、完成することのない文章を書き、なにもない日に彼女への想いを伝えるためだけの文章を作り記念日には少し長い手紙を書いていただろう。今みたいに自己否定が見え隠れするような小説なんて書いていない。自身の思考すら垂れ流していなかったはずだ。今の僕からすればそんな人間になることなんてありえないと思うような、他人との乖離を感じ過去ばかりを懐かしみ悩み続けていた二十歳の頃に、心の底からなりたいと願っていた普通の人間になっていたのかもしれない。

 それでも僕がたどり着いた未来はこの状態だ。彼女と別れてから、ただ一途にずっと想っていたわけではない。人並みに恋をして、本気でこの人だけが好きだと思っていた時期だってある。それでも、別れた時に感じるのは別れた悲しみではなく、彼女への想いだった。馬鹿馬鹿しくなるほどの感情がそこにはあった。

「だからさ、僕は結局彼女が好きなんだよ。」

「それで幸せならいいと思うけどさ。それってただ彼女に幻想を見てるだけなんじゃないか?そうだったら、それに付き合わされるのは可哀想だと思うぞ。」

 何度目かの彼女を好きだという告白に友人はそんな風なことを言っていた。わかっているわかっているさ、だったらその幻想を崩せばいいじゃないか。崩させてくれよ。崩せるもんだったらよ。

「幻想って言うだろうよ。でも、この想いは嘘じゃないし、別れたあとも何回か見かけたこともあるんだよ。あの頃と変わって大人っぽくなってた。それでもかわいさは変わらなかった。あどけなさが消えて大人に近付いてるんだなって感じたよ。声だって前とは違ってた。でも、見た瞬間の胸の高鳴りも、かっこよく見られたいって思う気持ちも、声を聴いた時の感情も全てあの頃と変わらない、彼女と付き合っていた時の付き合う前の恋してた僕なんだよ。」

「そっか。でもさ、彼女と話せてないんだろ?俺はお前に幸せになってほしいから言うけどさ、その恋は無謀だと思うぞ。」

 彼女とメッセージでやりとりをしたのはいつだっただろうか。ただ愛を送るだけただそれだけを数ヶ月に一回少なければ年に一度ほど続けていた。それに返信があったりなかったり、SNSをブロックされ連絡が取れなくなったり、それが解除されたり、でも時々だけ返信をくれた。その内容は世界で一番嫌いな人ですという言葉もあった。あなたに興味がありませんに変わったり、忘れられない人がいる気持ちもわかりますという答えになったり、それでも一貫して僕をまた好きになることはないような内容だったし、そうもハッキリと言われていた。それでも、何も変わらぬ好意の言葉を送り続けている僕はなにが目的だったか。この恋だけは終わらせないようにしている僕は執着に囚われているのように思えた。

「それでも、それでもなんだよ。」

「なら、もう何も言えないよ。でも、ちゃんと今を生きろよ。」

 グラスを持ち上げた時の氷の音がやけに耳に響いた。彼女と出会った時には飲めなかったお酒も今や飲めている。そのお酒の味がアルコールがもたらす酩酊が死に近づいているようで心地よかった。二十歳頃僕が人生というものに折り合いがつけられずにいたあの頃も、今も僕は酒の量と煙草の消費量が増えるばかりだ。苦いような青かったといえる感傷に浸っている。無駄に歳月を重ねた僕は経験だけが増え、大人にならなくていいと過去に埋没していた僕ではなくなっていた。文章を書いて自身に浸ってしまうようになっている。大人になりきれず子どものままでいいと心が泣き叫んでいた僕は普通に仕事をして、生きてくためには働くしかないんだと自分に言い聞かせて、社会の歯車と化している。憧れていたはずの大人になってしまった。それたとてもくだらなく思える。だが、それでいいんだろう。でも、それを認めるのは許したくない。矛盾を抱えたままだった。

 夕焼け空に懐かしい彼女の姿が浮かぶ。何かがあるわけでもないのに急に走り出す君、写真を撮ることが好きだった彼女に影響され特に好きだった夕焼けの写真を撮っていたこと、その途中で彼女にカメラを向けたこと、それを見て驚いて固まっていたこと。どこでも寝るような子で寒さが少しだけ軽くなるような気がした冬の日差しに包まれながら僕の肩を借りて土手の途中にある階段で寝ていたこと。君は不思議な子だった。行動も言動も少しだけ不思議で君の選ぶ言葉は僕に似ているのに少しだけ違うものだったから、さらに惹かれていた。だけど彼女は僕の話を覚えていないと頻繁に言っていた。その言動に何度か怒ったのをなんとなく覚えている。掴みどころのない人だった。掴めない存在だったから、手に入らない拒絶する彼女のことを今でも想っているのだろう。そんな彼女を手に入れたいと願うことは生きている状態で天国を見てみたいと言っているようなものだ。だから、死ぬ前の走馬灯のようなものでもいい、一度だけ一度だけでいいから、彼女と酒を飲み交わしたい。ご飯を食べ酒を飲みながらあの頃の話でも今の話でも、言葉を交わしたい。直接会って面と向かって一度でいいから僕と向き合って幻想なんだって言うなら現実を知らしめてほしい。きっと僕は一度だけといった約束を破りまたもう一度だけと、彼女との時間を過ごしたいと思ってしまうから。忘れられないだけでなく、忘れたくないと思っているのだから。

 そんな機会が訪れたら僕はなんの話をするのか想像してみる。当たり障りなく彼女への好意を浮かべながら過ごしてしまうのも容易に想像がつく。酒の勢いに任せて僕の中にある醜い心をぶつけてしまうのも有り得る。僕を嫌いになってこの世界から断絶してほしいと願いながら、なんで思わせぶりな態度とるんだよって、全ての連絡を絶って少しの隙も与えてんじゃねえよって、早く結婚でもして諦めさせろよって、だけど結婚した姿なんてみたらこの世の終わりだって泣き叫んでしまうだろうし、悪魔にでも魂を売ってしまいそうだ。僕のものにならないなら誰のものにもなるなよってそんな醜い僕が顔を出してしまうかもしれない。そんな僕を拒絶してくれ。

 今までどんな酷いことを言われてきたことか。僕の文章を読んだのかもわからないまま無視され続けてきたこと、興味がない、なんとも思ってないと言われてどれだけ嫌な思いをしたことか。それなのに憎い気持ちは湧かず、それでも好きだった。だから拒絶してくれって思うのに、僕を拒絶してほしくないんだ。

 僕の愛を受け止めてくれ、僕の想いに寄り添ってくれ、僕とまた話してくれ、僕のことを少しでもいいから考えてくれ、愛憎の混じったような考えが頭を回り続ける。彼女との思い出の場所であった土手沿いにある公衆トイレ、その前の石階段でよく話していた。その場所にも久しく行っていない。あそこには僕の大切なものが詰まりすぎている。あの場所がなくなればそれは世界が終わることと同意義だと思えるほどの感情がある。僕は色々なものを色々な場所に落としてきた。彼女の痕跡が様々な場所に落ちており、それを見る度に心がかき乱される。今頃幸せに暮らしているであろう彼女を思い浮かべ、酩酊することを選んでしまう。逃げて逃げて逃げ続けた。思考を放棄した人間はどこまでも醜くなっていく。物乞いのようにただ他人に縋り、それしか生きていく方法はないのですと全身を使って表現しているようで、その様子は滑稽だ。縋るな立ち上がれ、物乞いなどせず自身の足で歩け、そして今を生きろ。気付けば無心で小説だけ書いていた。もう言葉なんて浮かばないと思っていたのに、息をするように言葉が浮かぶ。誰しもが恋に落ちる、人を愛する、そして絶望する。幸せを感じる。その一つ一つに意味があるのだと信じていたいのが人間というものであり、なにも考えずにその場を生き続けるのも人間である。そのまま浮かんだ言葉をただ羅列していった。彼女との思い出を一つずつ思い出していく。彼女としたことを思い出していく。書いている間は常に夕焼けに包まれているようで、その時間も永遠には続かない。いつしか走馬灯のように光景だけが浮かび、僕の言葉がなくなっていくのを感じる。これで終わりなんだ。全てを吐き出した先に残ったのは彼女への愛だった。

 夕焼け空に月が浮かんでいた。夜に見るそれとは違い儚げで、薄ぼんやりと夕焼けに染まりながら浮かぶその姿はこれから輝きが増すはずなのに、消え入ってしまいそうに見えて、彼女のようだと思った。そんな月を見た日に、完成した小説を彼女に送った。彼女と出会ったあの頃と同じ寒い季節。日差しがかげるこの時間は冷たい風が僕の身体を吹きさらす。

 『あなたの小説は前のほうが好きでした。今は何が書きたいかわからないです。』

 ただそれだけの返信が来た。

 思い出の場所は取り壊されることが決まったらしい。僕はまだ行けていない。

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