たまにはジュースを

きゅうりプリン(友松ヨル)

たまにはジュースを

 嫌いなのに、今日もコーヒーを飲む。

 毎朝のルーティンだ。

 本当は砂糖とミルクをたっぷり入れたい。

 けれど、我慢する。

 口に含むと、苦味が体の芯までじわじわと広がって

 少しだけ別人になれた気がする。

 早く大人になりたかった。

 母を支えられるようになりたかった。

 負担を減らしたい一心で、小学生の頃から家事を手伝いたいと申し出たけれど、

 母は「気持ちだけもらっとくね」と笑って、やんわりと断った。

 高校生になってバイトを始め、初めての給料を差し出したときも、

「ハルちゃんには物欲ってものがないの! まだ若いのに」と、逆に怒られた。

 少しでいいから、受け入れてほしかった。

 一時間目は数学の授業だ。

 数学は苦手だけれど、私にとっては嫌いじゃない時間でもある。

 村井先生は二十代の若手で、見た目はかっこいいのに、

 どこかオドオドしていて、少し情けない。

 それでも生徒思いで、よく気がつく。

 バスケットボール部の顧問で、私も同じ部活だ。

 体調の変化にすぐ気づき、ひとりひとりをよく見てくれる。

 最初は、こんな人が父親だったらよかったのにな、と思っていただけだった。

 けれど、成績が伸びずやる気を失っていたことや、

 部活との両立がつらいことをぽろっとこぼしたとき、

 先生は真剣に話を聞いてくれた。

 その目のまっすぐさが、ただ、かっこよかった。

 気づいたら、好きになっていた。

 そして、好きになってから分かったことがある。

 村井先生は、私たちの担任である田辺先生のことが好きなのだ。

 話しているときの表情は分かりやすくて、

 笑うタイミングも、声のトーンも、少しだけ浮ついている。

 ――人が恋している顔って、こんなに間抜けなんだ。

 そう思った。

 田辺先生は村井先生と対照的で、

 いつも冷静で、そつなく仕事をこなしている。

 愛嬌もあって、生徒からも先生からも好かれていそうだった。

 部活帰り、遅くまで残って仕事をしている姿を、何度も見かけたことがある。

 好きか嫌いかで言えば、好きだ。

 でも、それ以上に、妬ましかった。

 こんな人になりたい。

 田辺先生は、「死にたい」なんて思ったこと、ないんだろうな。

 放課後、職員室に用があって立ち寄ると、

 田辺先生が掲示用の折り紙を折っていた。

 二年生の頃、

 不器用で、お世辞にも上手いとは言えない折り方をしていたのを思い出す。

「手伝いましょうか?」

 声をかけると、田辺先生は一瞬迷ってから笑った。

「大丈夫……!と言いたいところだけど、甘えちゃおっかな」

 私は手際よく折り紙を仕上げていく。


 こういう作業は、昔から得意だった。


「ありがとう。お礼にジュース奢るよ」

「……ジュースじゃなくて、コーヒーでいいです」

「そう? 大人だね」

 自販機の前で、田辺先生はジュースを、

 私はブラックコーヒーを取った。

「珍しいですね。先生、いつもコーヒーなのに」

「無理して飲んでるだけだよ」

 ふっと、力の抜けた笑い方だった。

「眠気覚ましですか?」

「違うよ。……何でだろうね?」

 その言葉に、ムッとする。

 あなたに憧れて、私は飲んでいたのに。

 なんだそれ。

 コーヒーをひとくち飲む。

 苦い。

「……先生みたいになりたいです」

 自分でも、なぜ口にしたのか分からなかった。

 田辺先生は驚いたように目を丸くして、

 それから、少し切なそうに笑った。

「ええ、わたしに?

 わたしは牧野さんになりたいけどなあ。折り紙、上手だし!」

 くしゃっと笑ってから、少し考え込むような仕草をする。

「誰かになろうとするより、自分のことを好きでいられる人のほうが、魅力的だよ」

 そう言って、もう一度自販機の前に立つ。

 今度はジュースのボタンを押した。

「はい。お口直し」

 冷たい缶が、私の手に渡される。

「わたしは牧野さんのこと、好きだよ」


 田辺先生は、照れたみたいに指を折りはじめた。

「牧野さんの素敵なところ。いっぱいあるよ」

 それから、付け足すみたいに。

「……無理してる自分って、だいたい報われないよ」

 行き所のない感情を、どうしていいか分からなくて、下唇を、きゅっと噛む。

 田辺先生は手を振りながら、職員室へ戻っていった。

 私はその場に残り、

 ブラックコーヒーとジュースを見比べる。

 「……」

 プルタブに指先を触れたまま、ふっと息を吐いて、指を離した。

 まだ、その勇気は持てなかった。

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