保留

不思議乃九

保留

第一章:失敗の輪郭


その会議室は、冬の朝のプールの底に似ていた。

高い天井から降り注ぐ無機質な蛍光灯の光が、磨き抜かれた長机の表面で白く反射し、座っている者たちの顔から血色を奪っている。吉岡英智は、その光の檻の中で、自分の指先がゆっくりと感覚を失っていくのを眺めていた。

目の前には、自動販売機で淹れた紙コップのブラックコーヒーが置かれている。

啜ってもいないのに、液体からはプラスチックが焼けたような卑屈な匂いが立ち上り、会議室の密閉された空気に不純な染みを作っていた。それは、彼がこれから剥奪されることになる日常が放つ、最後の、そして最も安っぽい芳香だった。

「吉岡君、君のこれまでの献身については、疑う余地はない。……ただね」

正面に座る部長の声は、よく手入れされた革靴の底が湿ったタイルを叩くような、不快で柔らかな音を立てていた。

「組織というのは、一つの巨大な肺なんだ。どこかに炎症が起きれば、その組織を切り離さなければ、全体の呼吸が止まってしまう。分かるね?」

肺。切り離される組織。

吉岡はその比喩を、頭の片隅で冷ややかに反訳した。要するに自分は、吐き出されるべき膿(うみ)に指定されたのだ。

きっかけは、東南アジア向けの大型受注における、あまりに事務的で、あまりに退屈な書類上の不備だった。

現地の仲介業者が提示した数字の羅列の中に、わずかな、しかし致命的な「嘘」が紛れ込んでいた。それを見落としたのか、あるいは見落としたふりをしたのか。今となっては自分でも判然としない。ただ、数億円の損失という数字だけが、吉岡英智という男が十五年かけて積み上げてきた自尊心を、一瞬にして粗大ゴミの山へと変えてしまった。

「……承知しました。区切りが必要だということですね」

吉岡の声は、自分でも驚くほど乾いた音を立てて響いた。

声を荒らげるには彼はあまりに疲れすぎていたし、謝罪を並べるにはこの組織の論理を知りすぎていた。

「しばらく、どこか遠くへでも行って、ゆっくり休むといい。君は、この場所の空気を吸いすぎたんだ」

部長の言葉は慈悲ではなく、追放の儀式を完結させるための最後の一突きだった。

デスクを片付ける時間は、十五年の歳月を裏切るほどに短かった。

私物と呼べるものは、使い古した万年筆と、数冊のビジネス書、そして誰から貰ったかも思い出せない卓上カレンダー。それらは段ボール箱の隅に、まるで難民の荷物のように所在なげに収まった。

オフィスを去る際、同僚たちの視線が、まるで事故現場を避ける歩行者のように不自然に逸れていく。

自動ドアを抜けた瞬間、都会の風が吉岡の肺を蹂躙した。

ビル風に巻かれた排気ガスと、行き交う人々の安物の香水が混ざり合った、淀んだ大気。

昨日まで自分はこの風の一部として機能していたはずなのに、今はただ、皮膚の上を滑っていく無機質な気体に過ぎない。

駅へ向かう奔流のような群衆。その中で立ち止まっても、世界は一ミリの狂いもなく回転を続けている。

誰一人として、彼が今日、人生の半分を構成していた「役職」という内臓を摘出されたことに気づかない。

その事実が、絶望よりも深い、底なしの「安堵」を彼に与えた。

(捨てられたんじゃない、私がこの世界を降りたのだ)

そう自分に言い聞かせた瞬間、心臓の奥で「自由」という名の猛毒が脈打った。

彼はその夜、実家の両親に、既読がつくことだけを期待した短いメールを送った。

『仕事をやめた。しばらく、遠い国を見てくる』

返信を待つ時間は、彼には残されていなかった。

翌朝、彼はクローゼットの奥から、学生時代に使っていた、色褪せたバックパックを引き出した。

彼が選んだのは、かつて出張で訪れたタイの、喧騒と腐敗臭が混ざり合う路地裏だった。

そこなら、自分の輪郭がどれほど不細工に崩れていても、誰も、何も、問わないはずだった。


第二章:旅の始まりは逃避


バンコク、スワンナプーム空港の到着ロビーを出た瞬間、吉岡は自分が厚手の濡れ雑巾で顔を覆われたような錯覚に陥った。

熱帯の湿気は大気というより、もはや一つの巨大な「生き物の粘膜」だ。

空港から乗り込んだタクシーの窓の外には、高層ビルと、その足元で壊死したようにひしめき合うトタン屋根の群れが流れていく。

十五年前、新入社員研修で見た景色と何一つ変わっていない。あるいは、変わったことに気づけないほど、彼自身の感覚が「日本」という清潔な殻の中に閉じ込められていたのかもしれない。

彼が選んだのは、カオサン通りから数本外れた、バックパッカー向けの安宿だった。

一泊二千円にも満たないその部屋は、コンクリートの壁にペンキを塗りたくっただけの、独房のような空間だ。天井では、骨董品のようなシーリングファンが、断末魔のような軋み音を立てながら、生温い空気をかき回している。

「……ふぅ」

吉岡は、汗でシャツが張り付いた背中をベッドに預けた。

かつての出張であれば、彼は迷わず高級ホテルのシーツを要求していただろう。だが今、この不潔な沈黙こそが、彼にとっての「戦利品」だった。

その夜、彼は宿の一階にある薄暗いバーのカウンターに座っていた。

合法化されて久しいこの街では、甘ったるい、草の焦げる匂いが当たり前のように漂っている。吉岡は、隣に座っていた現地人らしき男から勧められるまま、一本の巻紙を指に挟んだ。

(日本では、考えられなかったことだ)

その背徳感が、彼の指先を微かに震わせる。

火をつけ、深く肺に吸い込む。熱い煙が喉を焼き、数秒後、脳の奥で何かがゆっくりと解けていくような感覚が訪れた。

色彩は過剰に鮮やかになり、扇風機の回る音は、壮大なオーケストラの序奏のように聞こえ出す。

「……お兄さん、初めて?」

不意に、横から柔らかな日本語が飛んできた。

振り返ると、そこには日に焼けた笑顔を浮かべる、初老の男がいた。白い麻のシャツを無造作に羽織り、首元には現地の安っぽいお守りを下げている。

「あ、はい。……少し、試してみたくなって」

「いいんだよ、ここはそういう場所だから。僕はサトウ。もう五年、この近辺をうろうろしてる」

サトウと名乗った男は、驚くほど澄んだ瞳をしていた。

彼は吉岡が何者で、日本で何を失ってきたのかなど、一切問いもしなかった。ただ、世界中の美しい夕陽の話や、メコン川を渡る風の匂いについて、まるで少年のような熱量で語り続けた。

「吉岡さん、旅っていうのはね、『自分を広げる』ことじゃないんだ。むしろ、余計な自分を一つずつ『捨てていく』作業なんだよ」

サトウの言葉は、大麻による多幸感の中で、吉岡の心に奇妙な説得力を持って響いた。

サトウは現地の子供たちに無償で勉強を教えているという。自分のわずかな年金を削り、この混沌とした街の一部として静かに、しかし確かに呼吸している「良い日本人」。

吉岡は、サトウの眩しさに目を細めた。

この人は、自分とは違う。自分はただ逃げ出してきただけの幽霊だが、この男は、ここで新しく「生まれて」いるのだ。

(俺も、この人のようになれるだろうか)

酩酊の中で、吉岡はそんな甘い夢を見た。

サトウと酌み交わすシンハービールは、かつて取引先と飲んだどんな高級ワインよりも美味く感じられた。

自分は自由だ。今、この瞬間に、自分を縛っていた十五年の鎖は完全に錆び落ちたのだ――。

だが、夜が更け、サトウと別れて独房のような部屋に戻ったとき、吉岡を襲ったのは強烈な「乾き」だった。

大麻の離脱症状か、それとも現実の重力か。

ベッドに横たわる吉岡の脳裏に、不意に、東京のオフィスで聞き慣れた「コピー機の動作音」が蘇る。

シュ……、シュ……。

それは、天井のファンが空気を切り裂く音だった。

吉岡は慌てて耳を塞いだ。

自分は自由になった。サトウさんのような「本物」に出会い、新しい価値観を手に入れたのだ。

そう自分に言い聞かせ、彼は強制的に意識を沈めた。

彼が、サトウのような「善意」すらも、自分の空虚さを埋めるための「消費」の対象にしていることに気づくのは、まだずっと先のことだった。


第三章:アジア編


タイを離れた吉岡の旅は、地図をなぞるだけの「移動」から、他者の生を搾取する「観劇」へと変質していった。

バンコクから北上し、ラオスを経由して辿り着いたベトナム、ハノイ。

そこは、数千台のバイクが発する熱風と排気ガスが、湿った大気と混ざり合い、目に見えるほどの濁りとなって街を覆っていた。吉岡は、路地裏のプラスチック製の椅子に座り、練乳をたっぷり入れた泥のように甘いベトナムコーヒーを啜る。

(サトウさんが言っていたのは、こういうことか)

彼は、行き交うバイクの喧騒を眺めながら、自分だけが「世界の真実」を特等席で眺めているような全能感に浸っていた。

自分の口座には、まだ日本での退職金がたっぷりと眠っている。その数字の裏打ちがあるからこそ、彼はこの不衛生な路地裏を「エキゾチックな情景」として楽しむことができた。

だが、真の「消費」が始まったのは、インド、バラナシに入ってからだ。

ガンジス川の畔。

そこには、生と死が、文字通り同じ川の流れの中で煮詰められていた。

焼却場から立ち上る、肉の焼ける甘ったるい匂い。聖なる牛が撒き散らす緑色の糞尿の香気。それらが熱帯の太陽に灼かれ、発酵し、肺の奥底までこびりついて離れない。

「バクシーシ、バクシーシ!」

痩せ細った子供たちが、泥に汚れた手を差し出して吉岡を囲む。かつての吉岡なら、その光景に胸を痛めるか、あるいは清潔な日本人の本能として嫌悪しただろう。

だが、今の吉岡は違う。彼は一眼レフのレンズを彼らに向け、シャッターを切った。

(彼らは、何も持たないからこそ、こんなに強く生きているんだ)

その写真は、日本にいた頃の自分が失っていた「野生」を証明するための、格好の素材だった。

彼は高価なカメラを盾にして、他人の貧困という名のドラマを、一滴残らず吸い取ろうとした。子供たちの瞳に宿る飢えも、火葬場で遺族が流す涙も、吉岡にとっては自分の「旅の解像度」を上げるための教材に過ぎなかった。

ネパールのカトマンズでは、さらにその傲慢さが加速した。

標高の高い街の冷たく澄んだ空気の中で、彼はヒマラヤの山嶺を見上げながら、自分はもう、東京のオフィスで数字に一喜一憂していたあの頃の人間とは、次元の違う存在になったのだと確信していた。

「日本人は、本当の『生』を知らなさすぎる」

安宿の共有スペースで、新米の日本人バックパッカーを見つけては、彼はサトウから聞いた言葉をさも自分の哲学であるかのように語り聞かせた。

相手が尊敬の眼差しを向ければ向けるほど、吉岡の心は満たされていく。

だが、彼が現地の人々と深い対話をすることは、一度もなかった。

彼が求めていたのは「対話」ではなく、自分の「変化」を証明するための「背景」だったからだ。

現地の言葉はただの雑音として処理され、彼がノートに綴る言葉は、常に「自分」という主語から始まる独り言で埋め尽くされていった。

夜、カトマンズの路地で、停電した街を見下ろしながら吉岡は思う。

(俺は、ついにここまで来た)

その足元で、ネズミがゴミ袋を漁る音がする。

自分が眺めている「世界」が、実は自分の網膜が作り出した都合の良い幻灯機に過ぎないことに、彼はまだ気づかない。

彼は、自分がかつていた「組織」というシステムを捨てたつもりで、実は「旅」という名の新しいシステムに依存しているだけだった。

アジアの熱気は、吉岡の皮膚を黒く焼き、その内側にある空虚を、さらに硬く、冷たく、凍結させていった。


第四章:アフリカ編


アフリカは、移動そのものが「祈り」であり「暴力」だった。

ケニアのナイロビからタンザニアのダルエスサラームへ向かうバスの座席に座って、すでに十四時間が経過していた。時刻という概念は、揺れと振動、そして車内に充満する濃厚な二酸化炭素の中に溶けて消えた。

定員を三割は超えているであろう乗客たちの熱気が、窓を閉め切った車内で発酵している。

隣に座るマカイと呼ばれる巨漢の男の、汗ばんだ肩が絶えず吉岡の腕に擦り付けられていた。その接触面から、他人の生々しい脂が自分の皮膚に浸透してくるのを感じるが、もはや不快感すらも贅沢な感情だった。

「……水、飲むか?」

マカイが、どこで汲んだかも分からない、濁った液体の入ったペットボトルを差し出してきた。

日本にいた頃の吉岡なら、それを汚物のように避けていただろう。だが今の彼は、黙ってそれを受け取り、喉を鳴らして飲み干した。ぬるい水が食道を通り、胃に落ちる。それは単なる水分の補給ではなく、この大陸の「汚れ」を自分の内臓に同化させる儀式だった。

バスが未舗装の悪路に差し掛かるたび、車体は悲鳴を上げ、乗客たちの頭が天井に打ち付けられる。

窓の外には、延々と続くアカシアの樹木と、乾いた赤土の地平線。時折、道路脇で死んだ牛の死骸に群がるハゲワシの群れが見えた。その光景は、数千キロ前から何も変わっていなかった。

移動、交渉、野宿。

移動、盗難、舌打ち。

その反復が、吉岡の精神を摩耗させていく。

エチオピアの辺境、ダナキル砂漠の塩湖付近。

気温は五十度に達し、呼吸をするだけで肺が焼けるような錯覚に陥る場所だ。

吉岡は、影さえも消え失せるような正午の太陽の下で、塩を運ぶラクダの隊列を見送っていた。

「おい、ジャパニーズ。お前、何のためにこんな場所に来た?」

現地の護衛官が、肩にかけた錆びついたAK-47を弄びながら訊ねてきた。

吉岡は、ひび割れた唇を舐め、熱風に目を細めた。

「……自分を、壊しに来たのかもしれない」

護衛官は、鼻で笑った。

「壊す? そんな必要はない。ここにいれば、太陽がお前の中身を全部焼き殺してくれるさ。あとに残るのは、歩くためだけの肉の塊だ」

その言葉通りだった。

旅が半年を超えた頃、吉岡から「感慨」が消えた。

ビクトリア滝の凄まじい轟音を聞いても、ナミビアの真っ赤な砂丘から昇る朝日を眺めても、彼の心は一ミリも動かなくなっていた。

それは、彼が求めていた「悟り」などではない。単なる、感覚の「死」だった。

極限状態に置かれ続けることで、脳が防衛本能として感情のスイッチを切ってしまったのだ。

彼は、自分が現地に馴染み、強くなったと勘違いしていた。だが実際は、ただ「驚く」という能力を失っただけだった。

ナミビアのヒンバ族の村で、牛の血を混ぜた泥を全身に塗った女性たちが踊るのを見た時、彼はカメラを構えることさえしなかった。

彼らの生の営みも、自分自身の存在も、この広大な大地の上では、風に吹かれる塵と大差ない。

かつてタイで出会ったサトウが言っていた「捨てていく作業」というのは、こういうことだったのか。

(違う。サトウさんは、捨てたあとに『新しい何か』を拾っていた。俺は……ただ、捨て続けて、空っぽになっているだけだ)

夜、サハラの天幕の中で、吉岡は自分の手足を見つめた。

爪の間に食い込んだ泥、無数の虫刺されの跡、日焼けでボロボロになった皮膚。

かつては一日に何度も洗っていたその体は、今やアフリカの土壌と地続きになっていた。

「俺は、もうどこへでも行ける」

彼は、自分に言い聞かせるように、暗闇の中で呟いた。

恐怖はない。希望もない。

ただ、明日もまた、バスの座席に座り、揺られ、目的地に着き、次のチケットを買う。

その「機械的な生存」こそが、今の自分にとっての唯一の真実だった。

彼は、自分が「完成した」と思い込んでいた。

かつて日本のオフィスで、自分を押し潰そうとしていた「社会の論理」や「他人の目」から、自分は完全に解放されたのだと。

だが、彼が身につけたその「強さ」が、実は単なる「空虚」の別名であり、

その空虚こそが、日本に帰った瞬間に彼を最も残酷な形で裏切ることになる。

その未来の足音を、アフリカの乾いた風はまだ、彼には聞かせてくれなかった。


第五章:旅慣れという鈍化


エジプト、カイロの場末の安宿の屋上。

吉岡は、排気ガスで絶えず白く霞んでいる空を見上げながら、ぬるくなったステラビールを煽っていた。

旅が始まってから、もうどれくらいの月日が流れたのか、正確な数字はもはや重要ではなくなっていた。

カレンダーという概念は、国境を越えるためのビザの有効期限を確認するためだけの事務的な道具に成り下がり、曜日の感覚は、市場の混雑具合やバスの運行状況によってのみ知らされる不確かな情報に過ぎない。

(……ああ、またこれか)

視線の先では、到着したばかりであろう若い白人のバックパッカーが、宿の主人を相手に、たかだか数十円の宿泊代を巡って必死に交渉していた。かつての吉岡なら、その光景を「旅の醍醐味」として微笑ましく眺めたか、あるいはサトウから教わった「捨てていく作業」の入り口として、高慢な分析を加えていただろう。

だが今の吉岡は、ただただ退屈だった。

若者の青臭い正義感も、主人の使い古された嘘も、すべてが既視感の檻の中に閉じ込められていた。

旅は、もはや「探求」ではなく、単なる「生活の反復」になっていた。

朝、ダニの潜むマットレスから這い出し、現地の言葉で挨拶を交わしながら、その日最も安全で安価な飯を食う。長距離移動のチケットを手に入れ、数時間の遅延など呼吸をするのと同じ自然さで受け入れる。荷物を奪おうとするスリの気配を、脊髄反射レベルの直感で察知し、視線だけで追い払う。

それは、かつて日本のオフィスで、淀みなくメールを処理し、取引先の顔色を伺って根回しを完結させていたあの「有能さ」と、本質的には何も変わらなかった。場所が異国の地になり、扱う対象が「利益」から「生存」に変わっただけのことだ。

バックパックの底には、旅の初期に書き始めた日記帳が沈んでいた。

最初の数ページには、タイの屋台の味や、サトウとの対話、アフリカの星空への感動が、溢れんばかりの文字数で書き殴られている。

だが、その筆致は国を追うごとに、書き込みの密度を減らしていった。

あるページからは単なる「移動距離と出費」の記録になり、そして数ヶ月前、モロッコを抜けたあたりからは、真っ白な空白が続いていた。

記述すべきことが、なくなったのだ。

驚きが消えれば、言葉もまた死ぬ。

吉岡にとって、世界はもはや「驚愕の対象」ではなく、「攻略すべき地形」に過ぎなくなっていた。

「ヘイ、ジャパニーズ。お前、ここの常連か?」

先ほどの若者が、交渉に負けたらしい不貞腐れた顔で吉岡に話しかけてきた。

「いや……、ただの通りすがりだ」

「嘘だろ。そのバックパックの汚れ、数ヶ月やそこらの旅じゃない。あんた、悟りでも開いてるみたいだ」

若者の言葉に、吉岡は微かな、しかし抗い難い愉悦を感じた。

そうだ。俺はこいつらとは違う。

ガイドブックの記述に一喜一憂し、ボッタクリに憤慨し、風景に涙を流すような「幼稚な消費者」の段階は、とうの昔に通り過ぎた。

吉岡は、自分の手首に巻かれた安物の腕時計を見た。

日焼けで肌は黒く硬くなり、指先は異国の土壌を象徴するように節くれ立っている。

心拍数は常に一定で、どんな不衛生な環境でも胃を壊すことはない。

理不尽なトラブルに遭遇しても、怒鳴る代わりに、最も効率的な解決策を淡々と選ぶことができる。

(俺は、ちゃんと変わった)

カイロの埃っぽい風が吹き抜け、吉岡の乾いた喉を撫でていく。

彼は、その確信を噛み締めるように、最後の一口のビールを飲み干した。

「変わったんだ」

かつて自分を押し潰そうとした、あの日本のシステムの閉塞感。

失敗を許さず、責任の所在を突き止め、組織の論理で個人を削り取っていくあの会議室。

今の自分なら、あの場所に再び立ったとしても、あの時のような情けない絶望を味わうことはないだろう。

今の俺は、砂漠の砂嵐にも、アフリカの暴力的な熱狂にも、神々の沈黙にも耐えうる「真の個」として、再構築されたのだから。

そう。彼は、自分が「完成した」と本気で信じていた。

サトウさんが言っていた「捨てていく作業」の終着点に、自分はたどり着いたのだと。

余計な感情を捨て、余計な期待を捨て、ただ「在る」ことの強度を手に入れたのだと。

だが、彼が手に入れたのは「強度」ではなく、単なる「硬化」だった。

変化したのは「中身」ではなく、「中身を感じるための神経」を焼き切っただけだった。

彼は、自分がかつていた「社会」というシステムよりも、もっと冷酷で、もっと無関心な「孤独」という名のシステムに、全身を浸しきっていることに気づいていなかった。

「……さて、そろそろ帰るか」

誰に言うでもなく、吉岡は呟いた。

帰国への決意は、感動的な帰還への意欲などではなく、ただ「次のチケットを買う」という、これまで繰り返してきた事務的な動作の延長線上にあった。

日本という国も、今の自分にとっては、数ある「滞在地」の一つに過ぎない。

そこへ行って、また「生活」の反復を始めるだけのことだ。

吉岡は空になったビンの底で、エジプトの夕陽を透かして見た。

歪んだガラス越しに見える世界は、美しくも、醜くもなかった。

ただ、そこにあるだけ。

そして、自分もまた、ただそこにあり、これから日本という場所へ移動する。

その確信に満ちた「勘違い」を、吉岡は誇らしげに胸に抱いた。

自分が帰った先に待っている世界が、自分を待ち続けてくれていた「静止した場所」ではなく、自分の不在の間に、自分を置いてけぼりにして変質しきった「絶望の地形」であるとは、夢にも思わずに。

吉岡英智、四十五歳。

彼は、世界を知ったつもりで、自分自身を見失ったまま、

かつて逃げ出した島国への、最後のチケットを予約した。


第六章:帰国を決めた理由


帰国を決めたのは、ある火曜日の午後だった。

それが火曜日であると確信できたのは、アテネの安宿の近くにある市場が、週に一度の休業日で閑散としていたからに過ぎない。

吉岡は、剥げかけたペンキが痛々しいカフェのテラス席で、ひどく酸味の強いコーヒーを啜っていた。

目の前の広場では、鳩の群れが乾燥したパン屑を奪い合い、数人の観光客が退屈そうに地図を広げている。

その光景を眺めながら、吉岡の脳裏にふと、一枚の絵が浮かんだ。

それは、日本のどこにでもある、変哲のない「実家の玄関」だった。

(……そろそろ、いいか)

それは渇望でも、郷愁でもなかった。

例えば、読みかけの本を途中で閉じるような、あるいは十分に熱くなったサウナから水風呂へ向かうような、生理的な「区切り」の感覚だった。

旅はもう、彼に何も教えてはくれなかった。アフリカで感じた、あの「ただ、そこに在るだけ」という感覚が完成してしまってから、風景はただの背景になり、食事はただの燃料になった。

消費すべき景色は、もう手元に残っていない。

ならば、次の移動先を「日本」にする。それは、これまでタイからベトナムへ、ベトナムからインドへ移動してきたのと同じ、ただの合理的な選択だった。

吉岡は、使い古したスマートフォンの画面をスワイプした。

格安航空券の比較サイト。アテネ発、成田行き。経由地はドバイ。

画面に表示された金額を眺め、彼は迷うことなく予約ボタンを押した。

かつてなら、航空券一枚買うのにも「本当にこれでいいのか」という自問自答があったはずだが、今の指先には躊躇の一片もなかった。

両親には、連絡をしなかった。

最後にメールを送ったのは、いつだっただろうか。アフリカのどこかの街で、「生きている」とだけ送った記憶はあるが、それから半年以上、彼らの存在を意識の外に置いていた。

彼にとっての両親は、最後に見た時のまま、あの郊外の古い実家で「静止している」はずの存在だった。

自分が五年という歳月をかけて、世界を一周し、魂を再構築(あるいは硬化)させてきた一方で、故郷の家族だけは、以前と変わらぬルーチンの中に閉じ込められている――。

吉岡は無意識のうちに、そう確信していた。

自分が変化の主体であり、日本は変化の客体であるという、傲慢なまでの絶対的な前提。

(家に着いたら、何を話そうか)

想像してみるが、具体的な会話は思いつかない。

「世界を見てきた」と語るには、自分はあまりに多くを捨てすぎていたし、「ただいま」と言うには、自分はあまりに遠くへ行きすぎていた。

それでも、あの実家の、少し傾いた郵便受けや、父の吸う安煙草の匂い、母が作る不格好な卵焼きといった「記号」たちが、自分を待っている。

それらを再確認することで、この旅の「終わり」という手続きを完了させたい。それだけだった。

「チェックアウトか?」

宿の主人が、バックパックを背負った吉岡を見て、欠伸をしながら訊ねてきた。

「ああ。国へ帰る」

「そうか。いい旅だったか?」

主人の、儀式的な問いかけ。

吉岡は、一瞬の空白の後、短く答えた。

「……普通だよ」

それは、この五年間を総括する、彼にとって最も正直な言葉だった。

サトウさんが期待したような聖者にもなれず、アフリカの砂漠で死ぬこともなく、ただ「普通に」生き延びて、そして「普通に」帰る。

アテネの空港へと向かうバスの窓から、遠ざかるパルテノン神殿が見えた。

かつて教科書で見た壮大な遺跡も、今の彼には、ただの使い古された石の塊にしか見えなかった。

吉岡は、バックパックのストラップを強く締め直した。

実家は、あのアドレスにそのまま残っている。

鍵は、あの植木鉢の下にあるはずだ。

何も変わらない場所へ、自分だけが変わって帰る。

そのコントラストこそが、この旅を締めくくる最後の報酬になると、彼は信じて疑わなかった。

日本という、自分が一度は否定した「システム」の再確認。

そこへ、自分は「観測者」として帰還するのだ。

飛行機が滑走路を走り出し、浮遊感が彼の胃を圧迫した。

吉岡は目を閉じ、これから訪れる「再会」という名の、退屈で、しかし安らかな手続きを夢想した。

その手続きが、もはやこの世界のどこにも存在しない「幽霊」との対話になるとは、一秒も想像することなく。


第二部:止まっていた世界


第七章:帰国


成田空港の入国ゲートを抜けた瞬間、吉岡は自分が巨大な「文字の洗濯機」に放り込まれたような錯覚に襲われた。

目の前に広がる景色が、あまりに雄弁すぎたのだ。

「ようこそ日本へ」「Welcome to Japan」「出口」「EXIT」「鉄道はこちら」「手荷物受取」「宅急便」「外貨両替」――。

あらゆる壁、あらゆる床、あらゆる柱が、色とりどりのフォントで、複数の言語で、吉岡の網膜を休むことなく殴りつけてくる。

アフリカの荒野や、アジアの泥めいた路地裏では、世界はもっと沈黙していた。そこでの情報は、風の向きや、誰かの足音、あるいは空腹という肉体の信号だけだった。しかしここでは、立ち止まっているだけで「意味」が向こうから津波のように押し寄せてくる。

(……うるさいな)

吉岡は眉をひそめた。耳に入ってくる周囲の会話も、あまりに明瞭すぎた。

「マジで疲れたんだけど」「お土産これ足りるかな」「Wi-Fi繋がんない」「次のスカイライナー何分?」

意味が分かる。すべて分かってしまう。

そのことが、これほどまでに神経を逆撫でするとは思わなかった。これまでは、異国の言葉は心地よい雑音(ノイズ)として、自分の思考を邪魔しない背景に過ぎなかったのに。

空港ロビーを歩き出すと、次に彼を襲ったのは「匂い」の不在だった。

そこには、肉の焼ける匂いも、排泄物の臭気も、砂埃の乾いた香りもない。

代わりに漂っているのは、冷房の効いた空間特有の、無機質なオゾンの匂いと、行き交う人々が纏う洗剤や柔軟剤の、画一化された「清潔の香料」だけだ。

すべてが、管理され、除菌され、美しく舗装されている。

吉岡の汚れ切ったバックパックと、日焼けして節くれ立った肌は、この完璧な無菌室の中では、まるで除去されるべき「バグ」のように浮き上がっていた。

彼は、自動券売機の前で立ち止まった。

Suica。かつて当たり前に使っていたそのプラスチックのカードを、財布の奥底から掘り出す。

改札機にかざすと、ピピッという、どこまでも軽薄で正確な電子音が響いた。

この音一つで、彼は再び日本のシステムという歯車に噛み合わされた。

「……変わっていない」

彼は、京成スカイライナーの滑らかな座席に深く身を沈めた。

窓の外には、千葉の郊外の景色が、まるで高度なCG映像のように流れていく。

整然と並ぶプレハブの住宅、青い看板のコンビニエンスストア、街灯の規則正しい間隔。

五年。自分はあれほど激しく世界を彷徨い、変化を求めたというのに、この国はまるで冷凍保存されていたかのように、以前と同じ「顔」をしてそこにあった。

車内の液晶モニターには、ニュース、天気予報、そして新商品の広告が、目まぐるしいスピードで切り替わっていく。

『最新のAIがあなたの生活を変える』

『この夏、一番売れている冷感インナー』

『不倫報道、人気俳優が謝罪会見』

情報の密度が、あまりに高すぎる。

吉岡は、脳が情報を処理しきれず、軽い眩暈を感じた。

アフリカの砂漠で死を覚悟したときよりも、この、整えられた電車の中で情報の濁流に呑まれている今の方が、ずっと「世界」が遠く感じられた。

人々は皆、無言でスマートフォンの画面を見つめている。

かつてタイのバーでサトウが言っていた「捨てていく作業」など、この国では誰一人として必要としていないようだった。ここでは、捨てる暇もないほどに、新しい「意味」が上書きされ続けている。

(実家に帰れば、少しは落ち着くか)

吉岡は、バックパックのストラップをぎゅっと握りしめた。

この、過剰に洗練された情報の嵐から逃れるために、彼は自分の中にある「変わらないはずの場所」を強く希求した。

自分が五年かけて作り上げた、この「冷めた、強靭な自分」。

それを試すための舞台に帰ってきたはずなのに、日本の空気は、その舞台そのものを飲み込むほどに重く、そして透明だった。

電車が日暮里を過ぎ、上野へ向かう。

吉岡は、自分の吸い込む空気が、かつて旅先で吸い込んだ空気よりも、ずっと「薄い」ことに気づき始めた。

呼吸はできる。だが、何かを摂取している感覚がない。

上野駅の喧騒に降り立った吉岡は、迷わず、かつての自分が帰宅するために使っていた路線へと向かった。

植木鉢の下にある鍵。

古びた郵便受け。

傾いた勝手口。

それらが、この不自然に光り輝く日本の風景の中で、唯一の「リアル」であると信じて。

彼は、情報の海を泳ぎ切り、故郷という名の、静止した過去を目指した。


第八章:不在の家


駅から実家へと続く道は、驚くほど短く感じられた。

かつて通勤で毎日歩いていた時は、永遠に続くかのように思えた緩やかな坂道も、アフリカの大地を数百キロ単位で移動してきた今の吉岡にとっては、箱庭のミニチュアを歩いているような感覚に過ぎない。

(……ここも、変わっていないな)

角にある古びたコインランドリー。錆びついたガードレール。

夕暮れ時、家々から漂ってくる夕食の匂い。

すべてが記憶の通りに配置されていることに、吉岡は奇妙な全能感を覚えていた。自分だけが世界を知り、自分だけが変化し、この街は自分が去ったあの日のまま、自分を待っていたのだと。

だが、その全能感は、実家の門扉の前に立った瞬間、氷水でも浴びせられたように消失した。

「……なんだ、これは」

吉岡は呆然と立ち尽くした。

実家の門扉には、夥しい数のチラシやダイレクトメールが、暴力的なまでの厚みで押し込まれていた。

ピザ屋の広告、水道工事の連絡、地域の広報誌――。それらは雨風に晒されてふやけ、層のように重なり合い、郵便受けの口を完全に塞いでいる。

門を潜ると、庭の植木は手入れを失い、枝が勝手気ままに伸び放題になっていた。雑草はコンクリートの隙間から這い出し、吉岡の知っている「庭」を、静かに侵食している。

(……旅行にでも行っているのか?)

そう思い込もうとしたが、胸の奥で嫌な動悸が始まった。

彼は震える手で、庭の隅にある大きなテラコッタの植木鉢を退けた。その下にあるはずの予備の鍵。

指先に触れた金属の感触に、一瞬だけ安堵が走る。

だが、その鍵を回して玄関のドアを開けた瞬間、吉岡の肺を満たしたのは、期待していた「実家の匂い」ではなかった。

そこにあったのは、冷たく、乾燥した「不在」の匂いだった。

父の吸っていた安煙草の残り香も、母が炊く飯の温かみもない。

ただ、埃と、カビと、何ヶ月も人の呼気が通っていない空間特有の、死んだような沈黙だけが滞留していた。

「……ただいま」

独り言が、暗い廊下に吸い込まれていく。返ってくるのは、自分の耳鳴りの音だけだ。

靴を脱ぎ、廊下に上がる。足の裏に伝わる床の冷たさは、アフリカの夜の砂漠よりも遥かに残酷に思えた。

居間のテーブルには、飲みかけの湯呑みが置かれたまま、茶渋が黒い輪を作っている。

カレンダーは、数ヶ月前のページで止まったまま、埃を被っていた。

その時、背後の玄関先でカタン、と乾いた音がした。

「……誰か、いるの?」

掠れた女の声。

吉岡が反射的に振り返ると、そこには隣家の住人である山崎夫人が立っていた。

かつては「吉岡君」と快活に呼んでくれていたはずの彼女は、今、幽霊でも見るかのような恐怖と困惑の混ざり合った瞳で、吉岡を見つめていた。

「英智……君? 英智君なの?」

「あ、はい。お久しぶりです、山崎さん。今、帰りました。……両親は、どこかへ出かけているんですか?」

吉岡が努めて冷静に問いかけると、山崎夫人は絶句したまま、持っていた回覧板を震える手で抱え込んだ。

「帰ったって……あなた、今までどこに。……連絡もつかないって、警察の方も困っていて……」

「警察? 何の話ですか」

吉岡の問いに、夫人は言葉を詰まらせた。

彼女の視線が、吉岡のボロボロのバックパックと、日焼けして現地人のように黒ずんだ肌を這い、そして悲痛な歪みを作った。

「あなた、何も知らないのね。……あの日、高速バスの……」

夫人の唇から漏れ出たその言葉が、吉岡の耳の中で爆音となって弾けた。

高速バス。事故。全員。連絡先不明。

その一つひとつの単語が、吉岡が五年かけて作り上げてきた「強固な自分」という名の城壁を、いとも容易く粉砕していく。

「……いつ、ですか」

「……三ヶ月前よ。お葬式も、親戚の方が……でも、あなたの居場所だけがどうしても分からなくて」

山崎夫人の声が、遠ざかっていく。

吉岡は、自分が立っている床が、ゆっくりと泥のように溶け出していく感覚に襲われた。

三ヶ月前。

その頃、自分はどこにいただろうか。

アフリカのどこかの安宿で、自分は「強くなった」と悦に入り、日記を書くことすら止めて、ただ移動の反復を楽しんでいたのではないか。

あるいは、サハラの砂漠で、神に祈らない自分を誇っていたのではないか。

世界を見てきた。自由を手に入れた。

自分だけは変化し、いつでも帰れる場所を背後に残してきたつもりだった。

だが、現実は違った。

自分が世界を浪費している間に、世界の方は自分を置き去りにして、勝手に「清算」を終えていたのだ。

吉岡は、崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。

埃を被ったフローリング。

隣家から聞こえる、ニュース番組の軽快なBGM。

自分の吸い込んでいる「不在」の空気。

(俺は、ちゃんと変わった)

旅の最後に自分が吐いた、あの傲慢な確信が、冷酷な嘲笑となって脳内でリフレイドされる。

変わったのではない。自分はただ、最も大切な時間が流れている場所から目を逸らし、その時間が腐敗して崩れ去るのを、遠い異国で傍観していただけなのだ。

吉岡は、自分の手を見つめた。

数えきれないほどの国境を越え、多くの修羅場を潜り抜けてきたはずのその手は、今、実家の冷たい空気の中で、赤ん坊のように無力に震えていた。

「英智君、しっかりして。……とりあえず、警察と、親戚の伯父さんに連絡を……」

山崎夫人の声に、吉岡は答えなかった。

ただ、真っ暗な居間の奥、かつて父が座っていた場所を、光を失った瞳で見つめ続けていた。

旅は、終わったのではない。

「帰る場所」が消滅したことで、彼は永遠に、どこにも辿り着けない「漂流者」へと、真の意味で成り果てたのだ。


第九章:事故の通知


翌日、吉岡は地元の警察署の、薄暗い廊下のベンチに座っていた。

空調の音が一定のリズムで鳴り響き、時折、事務的な電話のベルが遠くで鳴る。

目の前に座る刑事は、使い古された手帳を開き、吉岡の汚れたバックパックを一瞥してから、感情を排したトーンで話し始めた。

「……三月十四日の深夜です。長野県内の高速道路で、大型バスがガードレールを突き破り、法面に転落しました。運転手の過労が原因とされています」

刑事の指が、資料の中の一枚の写真を指し示した。

ひしゃげた鉄の塊。かつてバスだったはずの物体が、深い闇の中で無機質に光っている。

「吉岡さんのご両親、それから……妹さんの三名が乗車されていました。法事の帰りだったそうですね。三名とも、即死だったとのことです」

即死。

その二文字が、吉岡の脳内で妙に軽く弾けた。

アフリカの砂漠で聞いた、「死」という言葉と同じ重さだ。

「即死」というのは、そこに「ドラマ」が発生する隙間すら与えられなかったということだ。

「……連絡が、つきませんでした」

吉岡は、自分の声が驚くほど平坦であることに気づいた。

「ええ。自宅の電話も、事故の翌月には料金未払いで止められ、その後、親族の方が解約の手続きをされました。あなたの携帯電話にも、警察と親族から何度も発信していますが、すべて圏外か、契約外のアナウンスが流れるだけでしたから」

当然だ、と吉岡は思った。

自分の手元にあるのは、現地のプリペイドSIMを差し替えた、安物のスマートフォンだ。日本のキャリアなど、旅の途中でとっくに解約していた。

自分が「自由」だと思っていたその断絶が、自分を死者たちの列から完璧に切り離していた。

「親族の方は、あなたが海外のどこにいるかも分からず、捜索願を出そうにも、成人男性の自発的な出国ということで……結局、四十九日の法要も、お身内だけで済まされたようです」

刑事は、一つの封筒を差し出した。

中には、見慣れない弁護士の名刺と、役所から発行されたであろう数枚の通知書が入っていた。

「実家の方は、現在、親戚の方が管理されていますが、固定資産税や維持費の関係で、売却の手続きが進んでいると聞いています。……吉岡さん、あなたが『行方不明』扱いでしたから、法的な手続きはすべて滞っていました」

吉岡は、渡された書類の一枚、死亡診断書の写しを見つめた。

父の名前、母の名前、妹の名前。

最後に会った時の彼らは、確かに生きて、笑っていたはずだった。

だが、この紙切れの上にあるのは、生年月日と死亡時刻、そして「外傷性ショック」という、あまりにも簡潔な死因の記述だけだ。

「……そうですか。お手数をおかけしました」

吉岡は椅子から立ち上がった。

刑事が何かを言いかけたが、彼は会釈だけして、署の自動ドアを抜けた。

外は、雲一つない五月の晴天だった。

眩しい日光が、コンクリートの照り返しと共に吉岡の眼球を刺す。

世界は、何一つ変わっていない。

バスが転落し、三人の人間が死に、葬式が終わり、家が売られようとしている。

その巨大な「清算」のプロセスの中に、吉岡英智というピースは一欠片も必要とされなかった。

(事務的だ)

彼は、駅前のアスファルトを歩きながら、胸の内で呟いた。

泣くことすら忘れた自分の心に、彼は少しだけ恐怖した。

悲しみよりも先に、「次はどこの窓口に行けばいいのか」という、手続きの段取りを考えている自分。

それは、旅の途中でトラブルを処理し続けてきた、あの「有能な移動機械」としての自分だった。

妹の結婚式に贈るはずだったお土産は、今もバックパックの底で、埃を被っている。

母に教えようと思っていた、アフリカの珍しい料理の話も。

父と一緒に飲もうと買った、免税店のウィスキーも。

すべてが、使い道のなくなった「無効なチケット」に変わっていた。

吉岡は、駅のホームのベンチに座り、Suicaを握りしめた。

五年前、自分がこの場所を去った時、世界を捨てたつもりでいた。

だが実際は、世界の方が、もっと冷酷な手つきで、自分という存在をゴミ箱へと放り出していたのだ。

電子音が鳴り、電車が滑り込んでくる。

人々は、昨日の続きを当たり前のように生き、明日の予定を当然のように信じている。

吉岡だけが、その時間の流れから完全に脱落し、行き先を失ったバックパックを背負って、ただ突っ立っていた。

彼は、自分が日本というシステムに帰ってきたのではない。

自分が「不在」であることを証明するためだけに、ここへ戻らされたのだということに、ようやく気づき始めていた。


第十章:葬式は終わっている


親戚の伯父の家は、実家から二駅離れた場所にあった。

吉岡が通された仏間は、線香の匂いさえも既に生活臭に馴染み、そこがかつて悲しみの中心であったことを忘れたかのように静まり返っていた。

「……遅かったな、英智」

伯父の声には、怒りさえなかった。あるのは、手に負えない厄介事をようやく片付け終えたあとの、隠しきれない疲労だけだった。

テーブルの上に置かれたのは、一冊の分厚いクリアファイルだ。そこには、葬儀の領収書、香典返しのリスト、役所への届け出、そして実家の解体見積書が、几帳面なフォントで整理されていた。

「四十九日は先週済ませた。お前の分は、親戚中で話し合って、一応『不在者』として処理してある。香典も、お前の分はこちらで立て替えておいたから。……このファイルに、かかった費用をまとめてある。あとで精算してくれればいい」

伯父は、淡々と説明を続けた。

誰が泣いたか、誰がどんな言葉を遺したか、そんな話は一切出なかった。語られたのは、墓地の区画整理の話と、妹が残した生命保険の受取手続きの煩雑さについてだけだった。

「お前がどこで何をしていたかは聞かん。だが、死ぬというのは、残された者にとってはこういう『作業』なんだよ。お前がいない間、我々はその作業を三回分、一気にこなした」

吉岡は、促されるまま仏壇の前に座った。

そこには、三つの新しい位牌が並んでいた。

父、母、そして妹。

その横に立てかけられた遺影の中で、三人は驚くほど鮮やかな色彩で笑っていた。それは数年前、吉岡が会社を辞める前に、何かの記念で撮影した家族写真から切り抜かれたものだった。

吉岡は、合掌した。

だが、瞼の裏に浮かぶのは、彼らの生前の姿ではなく、アフリカのバスで隣に座った老婆の脂ぎった肌や、タイのバーで吸った大麻の甘ったるい煙だった。

(……順番を、間違えた)

不意に、そんな思いが胸を突いた。

それは、悲しみという湿った感情ではなかった。もっと数学的で、非情な、取り返しのつかない「エラー」の感覚だ。

旅の間、吉岡は常に「死」を意識していた。

砂漠で遭難しかけた時も、夜のバスで強盗の気配を感じた時も、彼は自分の死を、ある種の高潔な結末として夢想していた。自分が世界のどこかで果て、日本に残された家族がそれを嘆く。それが彼にとっての、物語としての「正しい死」の順番だった。

しかし、現実はその逆だった。

守られるべきはずの「日常」が先に消滅し、死ぬ準備をしていたはずの「放浪者」が、何食わぬ顔で生き残ってしまった。

この世界という巨大なシステムが、決定的なタイミングでバグを起こし、本来消去されるべきではないデータを消去し、ゴミ箱へ行くべきデータを残してしまった。その計算違いへの、冷ややかな困惑。

「……すみませんでした。費用は、すぐに振り込みます」

吉岡の口から出たのは、そんな言葉だった。

位牌を前にしても、涙は一滴も出なかった。

ただ、自分が持ち帰った「世界を見てきた」という自負が、この仏壇の前では、あまりに無意味で、場違いな、滑稽なガラクタに見えるだけだった。

「家の中のものは、重要そうなものだけ段ボール三箱にまとめて、ここの納戸に預かってある。あとのゴミは、来週業者を入れて処分する。……お前も、一度確認しておけ」

伯父はそう言うと、自分のお茶を啜った。

「英智、お前、これからどうするんだ? 仕事は」

「……これから、探します」

「そうか。……お前の親父さんは、最後までお前のことを『あいつは、大きなことを成し遂げに旅に出たんだ』と言って、周囲に自慢していたよ。……皮肉なもんだな」

吉岡は、何も答えられなかった。

父が信じていた「大きなこと」の正体は、実際には、現地の安ビールを飲み、他人の貧困を眺め、自分を不感症にしていくだけの、空虚な移動の積み重ねだった。

伯父の家を出た時、吉岡の背負ったバックパックは、かつてないほど重く感じられた。

中には、もう渡す相手のいない土産物が詰まっている。

それは、彼が五年かけて集めてきた「成果」のすべてであり、同時に、一円の価値もない「負債」の塊だった。

駅へ向かう道すがら、吉岡は自分が、世界のどの国で味わった孤独よりも、この住み慣れた日本の住宅街で感じている孤独の方が、遥かに深刻であることに気づいた。

アフリカの砂漠での孤独には、まだ「生存」という目的があった。

だが、ここでは、生存そのものが目的を失っている。

彼は、自分が「完成した人間」として帰還したのではなく、

「役割を失った余剰品」として、この清潔な社会に吐き出されたのだという事実を、三つの新しい位牌の重みと共に、ようやく受け入れ始めていた。


第十一章:日常への再配置


午前四時三十分。

結露した安アパートの窓の外は、まだ濃藍(こいあい)の闇に包まれている。

吉岡は、格安量販店で買った千円のデジタル時計が放つ、電子的なアラーム音で目を覚ました。

かつてサバンナの地平線を赤く染めた太陽を待っていた男は、今、コンビニのパンを喉に流し込みながら、一日の労働という名の「停滞」を待っている。

吉岡が就いたのは、湾岸地区にある巨大な物流センターの仕分け作業だった。

かつて中堅メーカーの営業として、数億円の物流スキームを動かしていた彼は、今、そのスキームの末端で、流れてくる段ボールのバーコードを無機質に読み取り続けている。

「おい、そこ。止まってるぞ」

二十歳以上も年下の現場リーダーが、吉岡の背中に向かって苛立ちを投げつける。

吉岡は何も言わず、軽く頭を下げて、再びコンベアに向き直った。

ここには、吉岡英智という男の過去を知る者は一人もいない。

十五年のキャリアも、世界一周の経験も、ここでは「手が遅いおっさん」という評価の前に、一グラムの価値も持たない。

(……役に立たないんだな)

吉岡は、流れてくる商品のラベルを見つめながら、ふと思った。

自分が命がけで渡り歩いてきた、あの過酷な国々での経験。

五カ国語を少しずつ操り、武装した兵士と交渉し、砂漠で生き延びる術を身につけた。

だが、この日本の物流センターにおいて、最も求められるスキルは「決められた枠の中に、決められた物を、一秒の狂いもなく配置する」ことだけだった。

アフリカの知恵も、アジアのタフさも、この完璧にシステム化された日常の前では、ただの「ノイズ」に過ぎない。

ここでは、世界を知っていることよりも、何も考えずに機械の一部になれることの方が、遥かに「有能」なのだ。

休憩時間。

吉岡は、油の匂いが染み付いた休憩室の隅で、冷えたペットボトルの茶を飲んでいた。

周りの作業員たちは、スマホのゲームに興じているか、あるいは休日のパチンコの話に花を咲かせている。

彼らにとっての世界は、このセンターと、自宅の往復、そして半径数キロメートルの娯楽で完結している。

かつての吉岡なら、彼らを「狭い世界に生きる人々」と、心のどこかで憐れんでいただろう。

だが今の彼は、彼らこそが、この「現実」という名の重力に正しく適応している勝者であると知っている。

自分のように、一度重力圏を離脱し、宇宙の塵(ちり)を浴びて帰ってきた人間は、もはやこの地面に正しく足を下ろす方法さえ忘れてしまっているのだ。

「吉岡さんだっけ。あんた、昔、何かやってたの?」

隣に座った、歯の抜けた中年男が、興味なさげに訊ねてきた。

「……いえ、別に。普通の会社員でしたよ」

「ふーん。なんかさ、あんたの目、時々どっか遠く見てるっていうか……。まあいいや、ここは余計なこと考えない奴が一番楽だからな。仕事終わったら、駅前の王将でも行こうぜ」

「……すみません、今日は用事があって」

吉岡は、丁寧に断った。

用事など、何もない。

ただ、六畳一間のアパートに帰り、伯父から預かった三箱の段ボールを眺めるだけの一夜が待っている。

アパートへ帰る道すがら、吉岡はスーパーで半額になった惣菜をカゴに入れた。

セルフレジにバーコードをかざす。

ピピッ。

その音を聞くたびに、彼は自分の「旅」という名の壮大な余暇が、今の生活を支えるための何の貯金にもなっていないことを痛感する。

部屋に帰り、電気をつける。

部屋の隅に置かれたバックパックは、もはや異国の土埃を纏った誇らしげな戦利品ではなく、不法投棄されたゴミのような惨めさを漂わせていた。

彼はそれを開けることさえしなくなった。

中に入っている、渡せなかった土産物。あれはもう、この世界のどこにも流通しない、死んだ通貨なのだ。

(これが、俺の再配置か)

吉岡は、冷めたコロッケを口に運んだ。

悲しいとは思わなかった。ただ、あまりにも「整合性が取れている」と感じた。

自分は世界を捨て、世界も自分を捨てた。

今、自分が手にしているこの薄暗い静寂は、自分が五年かけて積み上げてきた「無関心」という名のレンガで築かれた、自業自得の牢獄なのだ。

ふと、窓の外を眺める。

東京の夜空は明るすぎて、星の一つも見えない。

かつてアフリカの砂漠で、吸い込まれそうになったあの銀河。

あの時、自分は確かに「何か」に触れたと思った。

自分は自由であり、世界と一体化し、どんな場所でも生きていける「真の個」になったのだと。

だが、あの全能感の正体は、ただの「無責任」だったのだ。

守るべき者も、果たすべき義務も、すべてを放り出して、他人の人生を観客席から眺めていただけの、贅沢なモラトリアム。

今、目の前にあるのは、一分一秒を切り売りして、家賃と食費に変えるだけの、逃げ場のない「生」だ。

そこには、サトウが語った哲学も、ムサが示した強さも、入り込む隙間はない。

ただ、明日の午前四時三十分に起きるために、今、眠る。

吉岡は、布団に入り、目を閉じた。

瞼の裏に浮かぶのは、実家の空っぽになった郵便受け。

自分が世界を回っている間に、その郵便受けを溢れさせていたのは、家族の死の気配だった。

自分が異国の風に吹かれている間に、故郷の家は、音も立てずに朽ち果てていった。

(俺は、何も見ていなかった)

その自覚だけが、唯一の「変化」だった。

だがその変化は、今の吉岡を救うことはない。

ただ、明日の仕分け作業を、少しだけ正確にするための、無機質な動力源になるだけだ。

夜が更けていく。

湾岸の巨大な物流センターは、眠ることなく稼働し続けている。

その巨大なシステムの一部として、吉岡英智は、明日もまた、バーコードを読み取り続ける。

かつて世界を知ったはずのその瞳で、ただ、商品の番号だけを追い続けるのだ。

残酷なまでに。事務的に。

それが、彼が手に入れた「新しい日常」の全容だった。


第十二章:取り残された自覚


伯父の家の納戸に預けられていた、たった三箱の段ボール。

吉岡は、物流センターでの夜勤を終えた日曜の午後、六畳一間のアパートの真ん中で、その一箱目を開封した。

中には、実家のリビングに置かれていた細々としたものや、家族の私物が詰め込まれていた。

吉岡は、無機質な手つきでそれらを一つずつ取り出していく。

父が愛用していた眼鏡ケース。母が趣味で集めていた地域の料理教室のレシピ集。そして、妹が使っていたらしい、見慣れない派手な色のパスケース。

そのパスケースの中から、数枚のレシートと、一枚のメモが出てきた。

『お兄ちゃん、また連絡なし。今度はアフリカだって。お父さん、心配してないふりして、毎日地図帳開いてるよ。いい加減にしてほしい。』

妹の、飾り気のない筆跡。

その日付は、吉岡がナミビアの砂丘で「孤独の美学」に浸っていた頃のものだった。

吉岡は、そのメモをじっと見つめた。

自分が異国の空気に触れ、自分自身をアップデートしているつもりでいたその瞬間、この家では、自分という「欠落」を抱えたまま、残された三人の生活が、重苦しく、しかし着実に回り続けていたのだ。

(俺は、止まっていただけなんだ)

不意に、その実感が喉元までせり上がってきた。

彼はこれまで、自分の旅を「劇的な変化」だと思い込ませてきた。

仕事を捨て、国を捨て、過酷な環境に身を置くことで、以前の自分とは違う、より高潔で、より強い人間に生まれ変わったのだと。

だが、この段ボールの中にある「生活の痕跡」は、別の真実を告げていた。

家族は、病める日も健やかなる日も、この狭い島国で、日々の労働をこなし、老いを受け入れ、互いの安否を気遣い、そして死んでいった。

彼らは、現実という逃げ場のない戦場で、一歩ずつ「前」へ進んでいたのだ。

対して、自分はどうだったか。

自分が行ってきた「旅」は、変化などではなかった。

それは、人生という重い責任から一時的に目を逸らすための、長すぎる「保留」に過ぎなかったのではないか。

国境を越え、景色を入れ替えることで、あたかも自分が進歩しているような錯覚を買い取っていただけ。

実際には、自分はあの冬の会議室で「区切り」をつけられた瞬間のまま、一歩も動いていなかった。

彼は二箱目の段ボールを開けた。

そこから出てきたのは、父が記していたらしい、数年分の日記帳だった。

吉岡は、恐る恐るそのページをめくった。

『英智からメールあり。ベトナム。無事なようで何より。』

『英智から連絡なし。母さんが心配している。』

『テレビでアフリカの特集。あんなに暑いところにいるのか。』

父の日記は、吉岡の「移動」を追うだけの、待つ側の記録だった。

吉岡がタイでサトウと出会い、大麻に溺れ、自分を捨てると悦に入っていた夜。

父は、古い地図帳で「ベトナム」のページを探し、息子の生存を祈っていた。

吉岡がインドの火葬場で「生と死の超越」を気取っていた時、

母は、いつ帰ってくるか分からない息子のために、実家の郵便受けを掃除し続けていたのだ。

彼らの人生は、吉岡という不確かな存在を繋ぎ止めるための、重い錨(いかり)のようだった。

そしてその錨は、吉岡が「自由」という名の嵐の中にいた間に、一人、また一人と、音もなく海中に没していった。

(俺は、何も背負っていなかった)

吉岡は、段ボールのふちに指をかけ、強く握りしめた。

旅先で見たどんな絶景も、今の自分の孤独を癒やすことはない。

むしろ、あの絶景を見ていた時間のすべてが、家族と共に過ごせたはずの時間を奪い取った「罪」のように感じられた。

彼がアフリカの砂漠で誇っていた「不感症」は、今や、自分を罰することすらできない無感覚となって彼を苦しめた。

泣きたい。叫びたい。

だが、五年の放浪で磨き上げられた「冷めた観察者」としての自分が、それを許さない。

「今さら何を言っているんだ。お前が選んだのは、この断絶だろう」

脳内の冷酷な声が、彼を嘲笑う。

彼は、最後に残った三箱目の段ボールを開けるのを止めた。

これ以上、彼らの「進んでいた時間」を見てしまうと、自分が今、この安アパートで生きていることの正当性が、跡形もなく消えてしまいそうだったからだ。

吉岡は、部屋の灯りを消した。

暗闇の中、物流センターで酷使した肩が、鈍く痛む。

窓の外からは、遠くを走る車の走行音が、寄せては返す波のように聞こえてくる。

家族は、あの日、高速バスという狭い空間の中で、共に死んだ。

それは一つの結末であり、一つの完成だった。

一方、自分は、世界の果てまで行った挙げ句、何の結末も得られず、ただ、期限切れのパスポートを抱えて、止まったままの時間を反芻している。

「……保留、だったんだな」

吉岡は、自分に言い聞かせるように呟いた。

旅は、自分を新しくしてはくれなかった。

ただ、自分が「何者でもない」という事実を確定させるための、長すぎる猶予期間だったのだ。

彼は、冷たい布団に潜り込み、丸まった。

かつてタイのバーでサトウが言った、「自分を捨てていく作業」の本当の意味を、吉岡は今、最悪の形で理解していた。

すべてを捨てたあとに残ったのは、高潔な魂などではなく、

「誰からも必要とされず、誰の役にも立てない、ただ生きながらえているだけの肉体」という、剥き出しの現実だった。

世界は回り続けている。

人々は前に進み、そして死んでいく。

吉岡英智だけが、その巨大な循環から零れ落ち、終わることのない「保留」の続きを、今日からまた、生きていく。


最終章:救いは来ない


吉岡は、夜勤明けの気怠い体を引きずりながら、街灯が寒々と光るアスファルトを歩いていた。

何かを克服したわけではない。

家族の死を受け入れ、新しい人生の一歩を踏み出す……そんな、物語的な跳躍は、今の彼には起こり得なかった。死んだ者は死んだままであり、消えた家は消えたままだ。そして吉岡は、自分がかつて「世界を見た」という傲慢な錯覚を抱いていたことすら、今ではどうでもいい手続きの一つとして処理していた。

ふと、街道沿いにある深夜のコンビニエンスストアが、不自然なほどの白光を放って彼を誘った。

自動ドアが開き、チャイムが鳴る。

その音は、かつて国境を越えるたびに聞いたどの警笛よりも無機質で、絶対的だった。

店内の棚には、埃一つないパッケージが、軍隊のように整列している。

吉岡は、飲料コーナーの前で立ち止まった。

彼の右手は、無意識にミネラルウォーターのペットボトルではなく、棚の奥にある「ぬるい常温の水」を探そうと泳いだ。

(ああ、そうだ。ここは日本だ)

旅先で覚えた、腐敗を避けるための、あるいは常温で喉を潤すための染み付いた癖。

冷え切ったショーケースを前に、その指先の迷いだけが、彼が五年間の放浪を本当に行ってきたという、唯一の、そして無意味な証明だった。

彼は、結局一番手前にあった冷たい水を手に取り、レジへと向かった。

レジカウンターに商品を置く。

店員がバーコードを読み取る、乾いた電子音。

ピッ。

その音を聞いた瞬間、吉岡は反射的に、バックパックのサイドポケットを片手で押さえた。

パスポート、財布、航空券。

それらが盗まれていないか、あるいは常に奪われない場所に「在る」かを確認する、旅慣れた者の脊髄反射的な動作。

だが、その指先が触れたのは、安物の作業服の、ざらついたポリエステルの感触だけだった。

「六百八十円になります」

若い店員は、吉岡の奇妙な挙動に一瞥もくれず、ただ手元の画面を見つめている。

ここでは、誰も吉岡を襲わない。

誰も、彼を騙そうとしない。

そして誰も、彼がどこから来て、何を見てきたのかに興味を持たない。

吉岡は、小銭入れから正確に硬貨を取り出し、トレーに置いた。

「袋、いりますか?」

「……いえ、いいです」

自分の声が、店内の冷たい空気に溶けていく。

かつてアフリカの砂漠で、あるいはアジアの混沌の中で、叫ぶようにして発していたあの「生」の言葉たちは、今やこの清潔なコンビニのカウンターで、事務的な拒絶の語彙へと成り下がっていた。

商品を抱え、店を出る。

夜の冷気が、物流センターで火照った頬を撫でる。

彼は、買ったばかりの冷たい水を一口飲んだ。

喉を通る鋭い冷たさが、自分の内臓を、この国の現実へと無理やり繋ぎ止める。

(生きては、いるんだな)

彼は、歩きながら思った。

そこに、かつてのような高揚感も、絶望すらもなかった。

絶望するには、彼はあまりに多くを知りすぎていたし、希望を抱くには、彼はあまりに多くを失いすぎていた。

救いというのは、何かを信じている者にしか訪れない特権だ。

「自分は変われる」と、「世界は素晴らしい」と、「いつか赦される」と。

今の吉岡は、そのどれもを信じていない。

ただ、明日もまた、四時三十分に起き、物流センターへ行き、バーコードを読み取り、そしてこの道を帰ってくる。

その反復が、彼にとっての唯一の、そして最も残酷な「救い」だった。

アパートの前に着いた。

郵便受けには、自分の名前が手書きされた、簡素な名札が貼ってある。

彼は、鍵を開けて中に入った。

狭い玄関に、あの泥に汚れたバックパックが転がっている。

それはもう、彼をどこへも連れては行かない。

吉岡は、服を着替えもせず、冷たい布団の上に横たわった。

目を閉じると、微かに、かつての喧騒が聞こえるような気がした。

サトウの笑い声、マカイの汗の匂い、砂漠の砂嵐、沈みゆく太陽。

だが、それらは急速に遠ざかり、ただの「記録されたデータ」として、脳の奥底へ沈殿していく。

明日も、仕事だ。

明日も、生きる。

それ以上の意味を、彼はもう求めない。

吉岡英智、四十六歳。

彼は、救いの来ない夜の静寂の中で、ただ、重い瞼を閉じた。

遠くで、始発列車の準備をするような、無機質な鉄の音が響いていた。



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保留 不思議乃九 @chill_mana

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