境界温度
えびもも
第1話 「上司の指に、逆らえない」
彼の名前を呼ぶだけで、喉の奥が少しだけ乾く。
それが恋なのか、恐れなのか、私はまだ分からない。
地方支店の朝は、妙に静かだった。
本社にいた頃の、あの息の詰まるような忙しさが嘘のようで、コピー機の小さな音さえやけに耳につく。
「今日の会議資料、確認してもらえますか」
そう言って私が差し出したファイルを、彼は指先だけで受け取った。
ほんの一瞬、紙越しに触れたその指先が、なぜか熱を持ったみたいに残った。
「ありがとう。助かる」
低く、落ち着いた声。
それだけで、胸の奥がきゅっと縮む。
——この人は、私の上司だ。
——そして、結婚している。
頭では分かっている。
分かっているのに、どうしてこんなにも、視線を追ってしまうのだろう。
彼と再会したのは、半年前だ。
本社での失恋と評価の失敗が重なって、私は半ば“左遷”のような形でこの支店に異動してきた。
そして、その支店の責任者として立っていたのが、
高校時代の同級生だった——今の上司。
「久しぶりだな」
最初にそう声をかけられたとき、私はほとんど何も返せなかった。
制服で並んでいた頃と同じ笑顔なのに、左手の薬指には、当然のように指輪があって。
あのとき、私は思ったのだ。
「もう、この人を見ることはない」と。
それなのに。
会議室で二人きりになると、空気が変わってしまう。
仕事の話しかしていないはずなのに、言葉と沈黙のあいだに、名前のつかない何かが溜まっていく。
「……最近、疲れてる?」
不意にそう聞かれて、私は少しだけ目を伏せた。
「いえ、大丈夫です」
本当は、大丈夫なんかじゃなかった。
夜になると、理由もなく胸が苦しくなることが増えた。
眠る前、思い出すのは決まって——彼の横顔だった。
「無理はするな。倒れられたら、困る」
困る、なんて言い方。
部下として。
それだけの意味だと、分かっているはずなのに。
その日、帰り際に書類のミスが見つかって、私は一人で残って修正をしていた。
時計はもう、二十一時を回っている。
カタン、とドアの音がして振り返ると、彼が立っていた。
「まだいたのか」
「すみません……少し、確認が」
「分かった。見よう」
そう言って、私の隣に椅子を引く。
距離は、肩が触れるほど近い。
画面を指す彼の手が、私の視界に入るたび、呼吸が浅くなる。
香水でもない、柔軟剤でもない、ただの彼の匂いが、なぜこんなにも近いのか。
「ここ、計算式が一段ずれてる」
「あ……本当ですね。ありがとうございます」
画面を見つめながら、私は必死に平静を装っていた。
少しでも油断すれば、この静かな空間に、心の音が漏れてしまいそうで。
ふと、彼が言った。
「……こうしてると、昔を思い出すな」
心臓が跳ねる。
「文化祭の準備、よく二人で残ってた」
「……覚えてないです」
嘘だった。
忘れるわけがない。
あの頃、私はずっと彼を遠くから見ていた。
告白する勇気もなく、ただ同じ時間を共有できることだけで満足していた。
「そっか」
少しだけ寂しそうに笑って、彼はそれ以上何も言わなかった。
沈黙が落ちる。
キーボードの音だけが、やけに大きく響いていた。
そのとき——
私の手に、彼の指がそっと触れた。
「……冷えてる」
そう言って、すぐに離れたのに。
触れたのは、ほんの一瞬だったのに。
胸の奥で、何かが静かに、しかし確実に音を立てて崩れていくのが分かった。
「上司と部下、ですね」
思わず、そう口にしていた。
「……ああ、そうだな」
彼は否定しなかった。
でも、その声の中に混じった迷いを、私は聞き逃さなかった。
帰り道、夜風がやけに冷たかった。
それなのに、触れたはずのない場所が、ずっと熱を持ったまま消えない。
——これは、始まってはいけない関係だ。
——分かっているのに。
私はもう、
彼に触れられる未来を、想像してしまった後だった。
境界温度 えびもも @ebimomo_
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