第26話

「……鍵、かけましたか?」


王城の最上階。

皇帝(予定)夫妻の寝室にて。


私はベッドの端にちょこんと座り、カチャリと扉を施錠したルーカス殿下――いえ、夫に問いかけた。


「ああ。三重の結界も張った。これでドラゴンが攻めてきても朝までは開かん」


殿下はマントを脱ぎ捨て、首元のタイを緩めながらこちらへ歩み寄ってくる。


その瞳は、獲物を前にした肉食獣のようにギラギラと輝いている。


(……まずいわ。逃げ場がない)


私はゴクリと喉を鳴らした。


予算折衝や外交交渉なら、どんな相手でも論破できる自信がある。

しかし、これから始まる『業務』に関しては、私は完全なる素人(未経験者)だ。


「さあ、シルビア。ドレスを脱がせてやる。……その重そうな拘束具から解放される時間だ」


殿下が私の前に跪き、ドレスの背中の紐に手をかける。


「あ、あの! ちょっと待ってください!」


「なんだ? まだ心の準備ができてないのか?」


「い、いえ。準備といいますか……手順(プロセス)の確認を」


私は慌てて、サイドテーブルに置いてあったメモ帳(緊急用)を手に取った。


「初夜におけるスケジュール案を作成してきました。まず、入浴に三十分。次に、明日の公務の打ち合わせに十五分。そして就寝準備に……」


「却下だ」


殿下は私のメモ帳を取り上げ、背後のゴミ箱へシュートした。


「あっ! 私の進行表が!」


「今夜にスケジュールなどない。あるのは『本能』だけだ」


殿下の指先が、背中の紐をスルリと解く。

バサッ。

二十キロのドレスが床に滑り落ち、私は薄いシュミーズ姿になった。


「ひゃっ……!」


急に肌寒くなり、私は自分の腕を抱いた。


「……美しいぞ」


殿下が熱っぽい息を吐きながら、私の肩に触れる。

その手は驚くほど優しく、熱い。


「い、言い値で買わないでくださいね……。今の私は、装飾品(ドレス)を失って市場価値が下がっていますから……」


「馬鹿か。中身の方が価値が高いに決まっているだろう」


殿下は私をそっと押し倒した。

ふかふかのベッドが沈み込む。


視界いっぱいに、殿下の顔がある。

整った鼻筋、長い睫毛、そして燃えるような金色の瞳。


(……悔しいけど、顔がいいわね。鑑賞価値だけで金貨千枚はいけるわ)


私がそんな現実逃避をしていると、殿下が顔を近づけてきた。


「シルビア。……愛している」


「……っ」


甘い。

声が甘すぎる。砂糖を煮詰めたシロップのようだ。

いつも「殺すぞ」とか「燃やすぞ」とか言っている口から、こんな甘い言葉が出るなんて詐欺だ。


「……殿下。愛の定義について議論しませんか? 脳内物質の分泌による一時的な……んぐっ!?」


唇が塞がれた。

議論の余地なし。強制終了。


「……ぷはっ!」


「うるさい口だ。今は黙って俺を感じろ」


殿下のキスが、首筋へと降りてくる。

ゾクゾクとした感覚が背骨を駆け抜ける。


「あ、あの……殿下……」


「ルーカスだ。名前で呼べ」


「る、ルーカス様……」


「いい子だ」


殿下の手が、私の腰を撫で上げる。

思考回路がショートしそうだ。

計算機がエラーを起こしている。


「……ところで、ルーカス様」


「なんだ、いいところなのに」


「ふと気になったのですが……次期皇帝としての『後継者育成計画』についてです」


「……は?」


殿下の動きが止まった。


「今、私たちはその『製造工程』に入ろうとしているわけですが、リスク管理は万全ですか?」


私は必死に、理性を取り戻そうと喋り続けた。


「もし子供が双子だった場合の教育費の変動、および帝位継承権の順位付けについて、事前の取り決めをしておくべきかと……きゃっ!」


「……お前なぁ」


殿下は呆れたように笑い、私のおでこをペチンと弾いた。


「今、この状況で、子供の教育費の話をする女がどこにいる」


「ここにいます。未来への投資には、緻密な計画が必要です」


「ハハハ! さすが俺の妻だ。ブレないな」


殿下は私を抱きしめたまま、仰向けに転がった。


「いいだろう。なら、話し合おうか」


「え?」


「お前が気が済むまで、国の未来でも、子供の教育でも、税制改革でも……全部聞いてやる」


殿下は私の髪を指で梳きながら、優しく微笑んだ。


「その代わり、話しながら手は動かすぞ? マルチタスクはお前の得意分野だろう?」


「……っ!?」


殿下の手が、再び動き始める。


「さあ、第一議題はなんだ? 『第一子の帝王学教育』についてか?」


「そ、そうです……っ! まずは……んっ……語学教育の……早期導入を……!」


「なるほど。だが俺は剣術を優先させたいな。……ここの感度はどうだ?」


「ひゃうっ! そ、そこは……予算外です……!」


「予算増額だな。承認する」


……結果として。


私たちの初夜は、実に奇妙なものとなった。


「あっ、ルーカス様……そ、その……! ……で、消費税の引き上げについては……!」


「今は据え置きだ……。それより、もっと声を聴かせろ……」


「ダメです……インフレが……あああんっ!」


熱い吐息と、甘い声。

その合間に挟まる「財政健全化」や「外交方針」の単語。


普通ならムードぶち壊しだが、私たちにとっては、これが最高のコミュニケーションだった。

体を重ね合わせ、熱を共有しながら、同時に頭脳もフル回転させて未来を共有する。


心も、体も、思考も。

すべてが混ざり合い、溶け合っていく。


「……シルビア、愛してる」


「……私も……計算外ですが……大好きです」


深夜。

窓の外の月が沈む頃。

私たちは汗だくになりながら、最後の一線を越えた。


そこにはもう、損得勘定も、政策論争もなかった。

ただ、互いを求め合う二人の人間がいるだけだった。



翌朝。


チュンチュン、と小鳥のさえずりが聞こえる。


「……朝か」


私は重い瞼を開けた。

全身が痛い。特に腰が。

これが『激務』の代償か。


「おはよう、シルビア」


隣で、ルーカス様が爽やかな笑顔でこちらを見ていた。

この体力オバケめ。


「……おはようございます、あなた」


私が言うと、彼は嬉しそうに目を細めた。


「『あなた』か。悪くない響きだ」


彼は私の肩を引き寄せ、ベッドサイドのサイドテーブルを指さした。


そこには、昨夜の情事の合間に二人で書き殴ったメモ書きが散乱していた。


『第一子:文武両道(ただし筋肉寄り)』

『新居のリフォーム案:子供部屋を追加』

『来年度予算:子育て支援金を増額』


「……随分と、生産的な夜でしたね」


私は苦笑した。


「ああ。おかげで、向こう十年の国家ビジョンが完成した」


ルーカス様は私の額にキスをした。


「最高の夜だったぞ。……体の方は大丈夫か?」


「修理費を請求したいくらいです。……ですが」


私は彼の胸に頭を預けた。


「……悪くない取引でした。満足度(CS)、星五つです」


「そうか。なら、リピート確定だな」


「ええ。長期契約でお願いします」


私たちは顔を見合わせて笑った。


シーツに包まりながら、私たちはまた懲りずに話し始めた。

今度は、今日の朝食のメニュー(タンパク質多め)について。


これが、私たち流の『幸せな結婚生活』の始まりだった。

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