影の玉座(The Shadow Throne)

@popomi1221

第1話 月光館にて

東華(とうか)国。

直系男子のみが皇位を継ぐ国。

影として育てられた五十二歳の女性が、制度の終わりとともに、自分の人生を取り戻していく物語。



生まれた瞬間から、彼女には「代わり」が用意されていた。



月光館の朝は、いつも音がない。


正確には、音は存在するのだが、誰もそれを言葉にしない。廊下を歩く足音、襖のわずかな軋み、遠くで鳴る鐘。それらはすべて、ここでは「なかったこと」にされる。


翠星(すいせい)と呼ばれていた頃の名残を、李 麗華(リ・リーファ)はもうほとんど思い出さない。


名は、役割とともに与えられ、役割とともに消えるものだった。


月光館には五人の子どもがいた。

同じ日に生まれ、同じ顔立ちを与えられ、同じ言葉を教え込まれた「スペア」たち。彼らは互いを兄弟とも姉妹とも呼ばなかった。呼び名を持つことは、個を持つことだったからだ。


麗華は五人の中で唯一の女子だった。


それは失敗作ではなく、保険だった。

皇太子が幼少期に病に倒れた場合、性別はまだ問題にならない。声変わりまでの年月、完璧に代役を務められる存在として、彼女は選ばれた。


教育は過酷だったが、残酷ではなかった。

教師たちは優しく、丁寧で、感情を見せなかった。

感情を教えることは、ここでは禁じられていた。

文字、歴史、礼法、演説、沈黙の仕方。

そして何より、「自分を消す技術」。


最も優秀だったのは、

長男の浩然(ハオラン)だった。

彼はすべてを理解するのが早く、疑問を口にしなかった。


次男の耀星(ヤオシン)は身体が弱く、

三男の承恩(チョンエン)は時折、誰もいない方向に話しかけた。

四男の仁(レン)は穏やかで、いつも一歩引いたところにいた。


麗華は、書を好んだ。

紙の上に並ぶ文字だけが、誰の影でもなく、誰の代わりでもなかったからだ。


転機は、あまりに静かに訪れた。


オリジナルの皇太子、李 瑛(リ・エイ)に、重度の聴覚障害が見つかった日。

誰も泣かず、誰も怒らず、ただ役割が更新された。


浩然が皇太子となり、他の四人は「影」へと下がった。

それは栄誉でも、屈辱でもなかった。

ただ、そう決まっただけだった。


数年後、浩然は事故で死んだ。

その報せもまた、静かに月光館へ届いた。

彼の部屋は一晩で片づけられ、翌朝には、そこに誰もいなかったかのように光が差し込んでいた。


耀星は病で脱落し、承恩は「適性なし」と判断された。


残ったのは仁と、麗華だけだった。

「二人で、一人をやろう」

そう言ったのは仁だった。


その声には、命令でも希望でもない、ただの提案があった。

麗華は頷いた。

拒否する理由を、彼女は持たなかった。


それからの日々、彼らは完璧だった。

公の場では仁が立ち、裏では麗華が整えた。

文書、儀礼、歴史的解釈、言葉の選び方。

仁は光となり、麗華は影として、その光を正しい形に整えた。


誰も気づかなかった。

気づく必要がなかった。


月光館の庭に、春が来ても、花は語らない。


麗華は五十二歳になっていた。

そして、まだ一度も、自分の人生を生きたことがなかった。

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