第8話 あいつは、いつもそうだ
――魔奔が起きた。
その報せがギルドに届いたのは、夕暮れ前だった。
伝令が駆け込み、広間が一瞬でざわめきに包まれる。
帳簿を叩きつける音、武具を掴む音、怒号。
その中を、バルドは重い外套を羽織って歩き出した。
「前哨基地へ行く。職員を五名つけろ」
短い命令に、誰も逆らえなかった。
灰鉄の門のギルド長――バルド・グレインの声は、
戦場の鐘のように重く響く。
◆
迷宮前の前哨基地は、すでに地獄のような有様だった。
負傷者が担架で運び込まれ、薬師が怒鳴りながら包帯を巻いている。
裂けた鎧、焦げた布、血の匂い。
人の呻きと、焚き火の煙が入り混じっていた。
「道を空けろ! 傷口を洗え!」
「魔物の群れだと!? そんなはずは――」
混乱の中で、バルドは職員を指で散らし、一人ひとりの顔を確かめていった。
やがて、石壁の陰に座り込む一団を見つける。
調査団――今日、迷宮へ入った面々だ。
全員、無事だが、目の焦点が合っていない。
「……生きて帰ったか」
バルドが低く呟くと、座り込んでいた学者が顔を上げた。
「ギルド長……っ、全員……なんとか……」
そこへ、詰所の方から鎧を軋ませて歩く男が現れる。
ヘルマンだ。
血と埃にまみれたまま、敬礼をして口を開く。
「報告は後で正式にまとめますが……
上層で魔物の暴走に遭遇。 死者ゼロ、全員生還です」
バルドは一拍おいて頷いた。
「よくやった。……あの状況で全員無事とはな」
目だけで周囲を見渡す。
だが、すぐに異変に気づいた。
「……ひとり、足りねぇな」
ヘルマンが眉をひそめるより早く、後方でロイが手を上げた。
「タクミさんなら――」
一瞬、言葉を詰まらせ、苦笑した。
「“チョット ヨウス ミテクル”って言って……戻っていきました」
「どこへだ」
ロイが指さす先、薄明の霧の中に、迷宮の入口がぽっかりと口を開けていた。
血の匂いと焦げた風の中で、その闇だけが、不気味に静かだった。
バルドはしばし視線を止め、低く呟いた。
「……あいつは、いつもそうだ」
◆
翌朝。
灰鉄の門の執務室には、冷たい光が差し込んでいた。
窓辺の外では、冒険者たちが交代で報告を上げている。
どの顔にも疲労が刻まれていた。
机の上には厚い紙束。
調査団の報告書である。
バルドは重い身体を椅子に預け、無言でページをめくっていった。
隣に、鎧を脱がぬままのヘルマンが立っている。
深く息を整え、背筋を伸ばして、無言でバルドを見据えていた。
紙をめくる音だけが、部屋に響いていた。
しばらくして、バルドが目を細める。
「……よく書けてる。被害状況も正確だ。……それで――お目当てのタクミはどうだった?」
ヘルマンの眉がぴくりと動いた。
しかし、すぐに顔をしかめて黙り込む。
その反応だけで、バルドには十分だったらしい。
口の端をわずかに上げて、紙束を机に置いた。
「中央の狙いは読める。昔いたからな。
実力の確認と――あわよくば引き抜きだろう」
ヘルマンは苦い息を吐く。
「……あの男は異常だ。俺は特級と呼ばれる連中を何人も見てきたが、あんなやつは初めてだ」
バルドはゆっくりと椅子から立ち上がり、窓の外を見た。
迷宮を望む塔の影が、霧に溶けている。
「良心があるなら、報告はするな」
低く響く声。
「お前も身をもって体験したろう。あの迷宮の異常はまだ終わってねぇ。
中央の連中は机の上で地図を広げるだけで、現場を見ようとしない。
タクミがいなくなったら、誰が対処する」
その言葉に、ヘルマンは唇を噛んだ。
報告書を胸に抱え、黙って敬礼をする。
「……了解しました」
彼が部屋を出ていく背を、バルドは何も言わず見送った。
鉄の扉が閉じると同時に、ため息が静かに漏れた。
(……守るしかねぇか。あいつを)
◇
ギルドを出たヘルマンは、朝の光を浴びて目を細めた。
通りの先には、前日の混乱が嘘のように人の声が戻っている。
荷車、行商人、薬師たち。
それでも、空気のどこかにまだ“迷宮の匂い”が残っていた。
ふと視線を向けると、宿の前で見覚えのある背中があった。
タクミだ。
棍棒を壁に立てかけ、腰を下ろして何かを話している。
周囲には、昨日の調査団の面々が集まっていた。
包帯の白だけが、昨日を思い出させる。
それでも彼らは、何事もなかったかのように笑っていた。
ヘルマンが近づくと、タクミが軽く顎を上げた。
「……キイタ。 カエル?」
その問いに、ヘルマンは苦笑した。
「出直しだ。調査に使う高価な測定装置を、迷宮でなくしちまった」
隣の学者が肩を落とす。
「予算が……また吹き飛びますよ……」
タクミは少しだけ目を細めた。
「ソレ、ダイジ? ミツケル、テツダウ」
学者は慌てて手を振る。
「い、いえいえ! 命を助けてもらっただけで十分ですから!」
笑いが起き、空気が緩む。
ヘルマンはその場を見回し、静かに言った。
「お前のおかげで、全員生きて帰れた。感謝してる。次も頼むぞ、タクミ」
右手を差し出す。
タクミは一瞬きょとんとしたが、すぐに表情を和らげ、手を握り返した。
「……マタ テツダウよ」
短い言葉。
だが、その手の力は、誰よりも確かだった。
周囲の調査員たちも次々に手を差し出す。
タクミは一人ひとりの手を固く握り、照れたように頷いていく。
その光景を見ながら、ヘルマンは胸の奥で何かが解けるのを感じた。
昨日までの恐怖と、血の臭いが、少しずつ遠のいていく。
やがて調査団は荷をまとめ、馬車へと乗り込んだ。
タクミは無言で見送る。
風が吹き、棍棒の布が揺れた。
去り際に、ヘルマンが振り返る。
「おい、次は……あの異常の原因を突き止めるぞ!」
タクミは静かに片手を上げた。
「……マッテル」
その声に、学者たちが笑顔で手を振り返す。
馬車の車輪が石畳を軋ませ、遠ざかっていった。
残されたタクミは、しばらくその後ろ姿を見つめていた。
やがて、迷宮の方角へと視線を向ける。
灰色の雲がゆっくりと流れ、
その向こうから――低く、かすかな鼓動のような音が響いていた。
(……まだ、終わってない)
棍棒の奥で、微かに“何か”が応えた気がした。
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