第4話 灰鉄の門

 まだ朝の空気を残した石畳を踏みしめながら、タクミは灰鉄の門――冒険者ギルドへ向かった。


 分厚い扉を押し開ければ、油と鉄の匂いが迎える。


 広間は朝から活気に満ち、酒場兼務の奥ではパンを焼く香ばしい匂いが漂っていた。

 石床には無数の靴跡が刻まれ、壁際には古びた掲示板が並ぶ。

 討伐依頼や失踪者の情報が紙片となって打ち付けられ、所々には血の染みが乾いて黒ずんでいる。


 だが今朝は、いつもと違っていた。

 鉄とオーク材の重厚な扉の前には、朝から妙に人がいる。

 革鎧が擦れる音、鞘金具の触れ合う澄んだ響き。ざわつきの粒が、扉の前で渦になっていた。


「今日は掲示が出てないぞ」「迷宮が閉鎖されたって」「上層で妙な声を聞いたって話、ほんとだったのか?」


 断片的な言葉が耳に触れる。

 タクミは扉を押した。軋む金具の低音が、腹に響く。


 中は、革と油の匂い。

 踏み鳴らされた石床は朝露を吸った靴跡で黒く濡れ、掲示板の前にだけわずかに空白がある。

 そこに貼られていたはずの張り紙が、いくつか剥がされていた。

 奥への半円通路は木の柵で閉ざされ、兵装庫の扉には鍵。

 職員の動きは速い。書類束を抱えた若い書記が背を丸めて走り抜け、受付台の上には封蝋の跡がいくつも並んでいた。


 ――いつもと違う。


 タクミは足元に棍棒をずらし、受付に近づく。そこで彼女と目が合った。


「……タクミさん」


 エマだ。藍色のベストの胸元に、ギルドの鉄の紋章が光る。

 ほっと息を漏らしたように微笑んだが、その目の縁はわずかにこわばっている。


「オハヨウ」


「おはようございます。ごめんなさい、今は受け付けを止めていて……」


 タクミは短く頷く。

「ナニ、アッタ?」


 エマが周囲に視線を走らせ、声を落とす。


「昨日、上層の偵察班が戻らなかったの。二班とも。夜明けに連絡を待ったけど、音沙汰なし。

 ……それで、上で会議。ギルド長が、朝いちで召集をかけました」


 昨日から異変は起こっていたのかと知り、タクミは視線を受付台に置かれた羽根ペンの先に向ける。

 インクは乾き、ペン先の黒がひび割れていた。朝一番の手続きが止まっている印だ。


「タクさん、今日は……迷宮、行くんですか?」


「モウ イッタ。バルド ト ハナシタイ」


 それってどういう……と、エマが言いかけた瞬間。

 タクミの視線が、奥の重い扉に向いた。


 扉が開く。低く、重たい風が一つの形になって、場の音をさらっていく。

 灰色の短髪、厚い体躯。右眼の義眼が、静かな光を返した。


「タクミ、来ていたか」

 グランデルのギルド長、バルド・グレインが通路に立っていた。


 呼ばれると同時に、タクミは一歩前に出る。

 バルドは顎で示すだけで背を向けた。執務室までの廊下は、いつもより長く感じられた。

 壁に掛けられた古い戦斧と盾。金属の鈍い輝きが沈んだ朝の光を返し、床石に薄い反響を落とす。


 執務室の扉が閉じられると、外の喧噪は遠のいた。

 机の上には地図、白墨で印が付けられている。立体的な迷宮の構図、前哨基地の位置。

 そこから先に引かれた矢印は途中で止められ、黒い×印が二つ。


「……戻らなかった」

 バルドは椅子を引かずに立ったまま、地図を指で叩いた。

「昨日から、上層でいくつかのパーティがやられた。異変を感じた兵士の偵察班もだ。トロルが群れを作っていた」


 顎鬚をさすりながら、彼は言葉を続ける。

「夜明け前に討伐隊の派遣を考えたが、“強化個体”を見たという報せが別口から入った。群れの動きもおかしい。おそらくは――連動している」


 彼は言葉を選ぶとき、短く息を整える癖がある。今も、ほんの一拍だけ呼吸が深くなった。


「タクミ、お前には討伐隊と合流して――」


 そう言いかけたバルドを、タクミが遮る。


「タオシタ」


 返された言葉に、バルドの表情がわずかに揺れる。


「タブン タオシタ。クワシク ハナシタイ」


 バルドは黙り込み、顎に手をやった。

 重苦しい沈黙ののち、長く息を吐く。


「……いつもの事だったか。書記を呼んでくる」


 ◇


 書記の聞き取りは、いつもながらスムーズに進んでいく。

 どんな魔物だったか、どのくらいいたか、どのくらいの強さか――。

 深層で出会った魔物を日常的に報告しているタクミにとって、いつもと変わらないやり取りであった。


 書記官が仕事を終え、部屋から退出し、バルドと二人きりになる。


「……俺がまだ現役だった頃も、似たような変調があった」

 低く掠れた声には、重い記憶が滲んでいた。


「上層での異常。それを無視して仲間を失い、俺は引退した。あのときも“兆し”は確かにあったが、誰も本気で取り合わなかった」


 義眼の奥が、微かに光を反射する。

 失った右眼が、その証左だった。


「だからこそ、お前の報告は見過ごせん。……だが中央の連中は、数字と報告書しか見ねぇ。現場の声など耳に入らんだろう」


 タクミは黙って耳を傾ける。


「割に合わん、か」

 低く呟く。

「ここ最近、冒険者どもが他都市へ流れ始めている。危険が増しても、得られる報酬は変わらんからな」


 しばしの沈黙ののち、バルドが名を呼ぶ。


「タクミ。中央から調査団が来る。明日には到着するはずだ」


 タクミは瞬きひとつせず、静かに耳を傾ける。


「奴らの目的は、迷宮の異常の実態調査だ。だが正直、護衛だけでは荷が重い。……戻ったばかりで悪いが、お前も同行してくれないか」


 短い間を置いて、タクミは頷いた。

「……ワカッタ」


「すまんな」

 バルドの声は低いが、そこに含まれるのは信頼と、わずかな安堵だった。


 タクミが退室し、静けさが戻る。

 残されたバルドは椅子に深く身を沈め、ひとり呟いた。


「今の迷宮は……嫌な予感がする」


 窓の外には、まだ陽が高い。

 だが都市を包む空気は、どこか沈んだ鐘のように重く響いていた。

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