第9話
オリハルコンの小箱が開かれたという事実は、ローゼリア公爵家を激震させた。
執務室に漂う沈黙を破ったのは、公爵ではなく、扉を乱暴に開けて入ってきた一人の青年だった。
「——父上! 冗談も休み休み言ってください! そのような平民の、しかも魔力欠乏症のような男が、我が家の秘宝を解いたなど!」
現れたのは、エリナの兄であり、ローゼリア家の嫡男であるカイン・フォン・ローゼリアだった。彼は学園の卒業生であり、現在は王国騎士団の若きエリートとして知られている。その魔力値は600を超え、家系特有の炎の魔術を操る実力者だ。
「カイン、騒がしいぞ。客人の前だ」
「客人だと? 父上、目を覚ましてください。こいつは妹をたぶらかし、何らかの禁忌の道具を使って箱をこじ開けたに過ぎない。正当な魔術の研鑽も積んでいない者が、ローゼリアの門を潜ること自体、家名の恥です!」
カインはアルスを蔑みの目で見下ろした。
アルスは感情を動かすことなく、ただ黙ってカインを観察していた。
(……筋肉の付き方は一流、魔力の循環も安定している。だが、腰に下げている剣が泣いているな。過剰な装飾が重心を狂わせている。あれでは、いざという時に刃が遅れる)
「お兄様、失礼よ! アルスは私の命を救い、この家が数百年解けなかった謎を数秒で解いたのよ!」
エリナが食ってかかるが、カインは冷笑を浮かべるだけだった。
「エリナ、お前は純粋すぎる。……アルス・レーヴェンと言ったか。貴様が本当に『力』を持っているというのなら、私と手合わせ願おう。騎士道に基づいた決闘だ」
「決闘……。僕には、貴族の方々と遊んでいる暇はないんだが」
アルスの淡々とした態度は、火に油を注いだ。
カインの周囲の空気が、怒りによって熱を帯び、陽炎となって揺らめく。
「逃げるか、臆病者。それとも、化けの皮が剥がれるのが怖いのか?」
「……いいだろう。ただし、僕には僕の戦い方がある。それでもいいなら受けて立つよ」
公爵領の広大な演習場。
噂を聞きつけた使用人や私兵たちが遠巻きに見守る中、アルスとカインは対峙した。
カインは豪華な細剣(レイピア)を構え、その全身から炎の魔力を噴出させている。
「ルールは単純だ。先に相手を戦闘不能にするか、参ったと言わせた方の勝ち。殺しはしないが、大火傷くらいは覚悟しろ!」
「アルス、無理しないで!」
エリナの叫びを合図に、カインが動いた。
「『紅蓮の刺突(プロミネンス・スラスト)』!」
カインの姿が、炎の軌跡を残して一瞬でアルスの懐に飛び込む。
圧倒的な速度。通常なら、魔力値12の人間が反応できるレベルではない。
だが、アルスは動かなかった。
「——遅いな」
アルスは一歩も引かず、右手に持っていた「銀の鍵」を、カインが突進してくる軌道上の「地面」に突き立てた。
(……地層構成、粘土質から高純度の『絶縁石』へ。電荷の強制放電——)
カインの剣がアルスの胸元に届く寸前、激しい放電現象が起きた。
カインの全身を包んでいた炎の魔力が、地面に突き立てられた鍵を起点として、一気に「大地」へと吸い込まれていったのだ。
「なっ……魔力が、消えた!?」
魔法を支えるエネルギー源を失い、カインの体が前のめりに崩れる。
アルスはその隙を見逃さず、空いた左手でカインのレイピアの「鍔」を指先で弾いた。
(……結晶格子、一方向へのせん断応力……)
パキィィィィィィン!
カインの自慢の名剣が、何かにぶつかったわけでもないのに、まるで氷細工のように砕け散った。
カインは呆然として、自分の手に残った柄を見つめ、そのまま膝をついた。
「……何をした。貴様、一体、何をしたんだ……!」
「君の剣は、美しさにこだわりすぎて内部の炭素の結びつきが不安定だった。そこに、僕が少しだけ『振動』を加えた。自重に耐えられなくなって壊れただけだ」
アルスは鍵を地面から引き抜き、土を払った。
「戦う前に、道具を信じすぎてはいけない。物は、いつか必ず壊れるようにできているんだ」
演習場は、葬らるような静寂に包まれた。
エリート騎士であるカインが、魔法さえ使えない少年に、指先一つで敗北した。
それは魔術の常識に対する、残酷なまでの「拒絶」だった。
「……見事だ」
観覧席から公爵の重厚な拍手が聞こえた。
公爵はゆっくりと歩み寄ると、アルスの肩に手を置いた。
「アルス。貴様を単なる技術者として扱うのはやめよう。……我がローゼリア家は、貴様を『特別顧問』として遇する。そして、王都に潜む“12”の影を追うための特権を貴様に与える」
アルスは静かに頭を下げた。
エリナは嬉しそうに駆け寄り、彼の腕をぎゅっと掴んだ。
しかし、アルスは感じていた。
敗北し、地面を叩いて悔しがるカインの背後に、先ほどとは違う「不気味な魔力の揺らぎ」が紛れ込んでいることを。
それは学園で見た『黄昏の歯車』のものとも違う、より古く、より深淵な悪意の色だった。
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