海外進出ライブ編

九龍の紅い熱狂


香港国際空港に降り立った瞬間、肌にまとわりつくような湿気と、都会の喧騒が四人を迎えた。初の海外ライブの地として選ばれたのは、アジアの熱が凝縮された街、香港。


「……腹減った。ドラム叩く前に倒れちまうよ」


薬を取り上げられ、顔色の悪い田上を気遣うように、不破がわざと明るい声を出した。四人は舞元の手配した送迎車を待つ間、空港の近くにある庶民的な食堂街へと足を運ぶ。


だが、そこで彼らが見たのは、予想を遥かに超える光景だった。


「……おい、嘘だろ?」


桑田が指差した先。街を歩く若者たちの多くが、見覚えのあるロゴを身に纏っていた。


赤地に黒のスプレーで殴り書きされた『WR』の文字。そして背中には大きく『WORLD RESISTANCE』のプリント。学校の屋上ジャックから始まったあの反逆のシンボルが、海を越えたこの地で、制服のように溢れかえっていたのだ。


「セカレジだ! 本物か!?」


「荒崎! 桑田! 不破! 田上!」


一人が気づくと、瞬く間に人だかりができた。食堂の店員も、麺を啜っていた若者も、スマホを掲げて駆け寄ってくる。言葉は通じなくとも、彼らの瞳に宿る熱狂は、渋谷の屋上で見たあの眼差しと同じだった。


「……すごいな。僕たちはまだ、この街で一音も鳴らしていないのに」


田上が震える手で胸元を押さえながら呟く。薬はない。押し寄せる群衆の圧迫感に、心臓は早鐘のように打っている。


「当たり前だろ。俺たちの『ノイズ』は、電波に乗ってとっくにこの街をジャックしてたんだよ」


荒崎は押し寄せるファンを避けるどころか、その熱狂の渦の真ん中で不敵に笑った。


「見ろよ、田上。この街の奴らも、何かに中指を立てたくてウズウズしてんだ。お前のそのバクバク言ってる心臓の音を、待ってる奴らがこんなにいる」

一人の少年が、拙い日本語で「待ってた、セカレジ!」と叫び、荒崎に握手を求めた。荒崎は力強くその手を握り返し、そのままメンバーを振り返る。


「飯はこれくらいで十分だ。この熱をそのままステージにぶつけるぞ」


食堂から漏れるスパイスの香りと、数千、数万のファンの期待。


薬で抑え込むにはあまりに巨大すぎる「生(なま)」のエネルギーを前に、田上は逃げ場がないことを悟った。だが、その瞳からは、恐怖に混じって初めて「戦う男」の光が灯り始めていた。


「……ええ。薬なんて飲んでいる暇は、なさそうですね」


香港の夜、ネオンサインが不夜城のように輝く中、セカレジの海外初ライブの幕が上がろうとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る