第5話 「役所の仕事は、派手じゃない」
第5話
「役所の仕事は、派手じゃない」
朝の区役所は、まだ眠っているみたいに静かだった。
自動ドアが開くと、ワックスの匂いが鼻に入る。
どこか無機質で、でも嫌いじゃない匂いだ。
「おはようございます」
「おはよう」
声を掛け合いながら、修司は自席につく。
パソコンを立ち上げる音。
コピー機の低い唸り。
九時ちょうど。
窓口が開く。
最初に来たのは、痩せた中年の男だった。
「生活保護の……相談なんですけど」
声が小さい。
それでも、必死に出している声だと分かる。
「どうぞ。こちらに座ってください」
修司は椅子を勧める。
「仕事、なくなって……家賃も……」
男は言葉を探すように、視線を泳がせる。
「大丈夫です。順番に確認しましょう」
書類を一枚ずつ出す。
説明は、短く、丁寧に。
「ここに、お名前を」
「……はい」
震える手。
ペンが少しだけ止まる。
「今日は、ここまでで大丈夫です」
「……助かります」
その「助かります」は、声にならないほど小さい。
感謝の言葉は、それで終わりだった。
次は、高齢の女性。
「この手続きが、分からなくてねえ」
紙を何枚も抱えている。
「大丈夫ですよ。一緒に確認しましょう」
修司は、女性のペースに合わせて説明する。
「ここに、丸を」
「ええっと……こう?」
「はい、それで大丈夫です」
女性は何度も、何度も頭を下げる。
「ありがとうねえ」
「いえ」
その「ありがとう」は、軽い。
でも、確かだ。
昼前になると、声が荒れている人が来る。
「何回も来てるんですけど!」
「説明、聞いてないんですか?」
カウンター越しに、強い視線。
「申し訳ありません。もう一度、確認します」
修司は、声のトーンを変えない。
「時間がないんですよ!」
「分かります。ただ、この手続きには——」
途中で遮られる。
「役所って、ほんと融通きかない!」
言葉が、胸に当たる。
「申し訳ありません」
頭を下げる。
その人は、満足したように帰っていった。
感謝はない。
謝罪だけが残る。
昼休み、修司は弁当を食べながら、窓の外を見る。
曇った空。
冬の、色の薄い光。
同窓会の声が、ふっと浮かぶ。
《勝ち組》
《夢ないよな》
箸を動かす。
「……」
午後も、同じようなやり取りが続く。
書類。
説明。
確認。
誰かの人生の、ほんの一部分。
でも、その一部分が、崩れたら、全部が倒れる。
「修司、これお願い」
「はい」
淡々と、引き受ける。
夕方。
窓口が閉まる。
「お疲れさまでした」
「お疲れ」
椅子から立ち上がると、腰が少しだけ重い。
「今日も、何もなかったな」
同僚が言う。
「そうですね」
何もなかった。
それが、仕事の成果だ。
帰り支度をしながら、修司は思う。
派手じゃない。
拍手もない。
でも、今日も誰かは、眠れる。
生活の底が、抜けなかった。
同窓会の笑い声が、また遠くなる。
あの夜の音量が、嘘みたいに小さくなる。
修司はコートを着て、外に出た。
冷たい空気が、頬に当たる。
「……明日も、同じだな」
でも、その「同じ」は、悪くない。
役所の仕事は、派手じゃない。
それでも——
誰かの暮らしは、今日も、ぎりぎりで保たれている。
修司は歩き出す。
静かな足取りで。
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