第13話 崩れたリズム

 翌日。  リハビリテーション室に現れた久保の様子は、明らかに異常だった。


 いつもなら、病棟まで迎えに行かなければ車いすに乗ろうともしなかった男が、予約時間の十分も前から一階のリハビリ室に降りてきて、プラットフォームで貧乏揺すりをしながら叶多を待っていたのだ。


「遅いぞ、若造」  叶多が駆け寄るなり、久保は低い声で唸った。  その目は血走っており、昨日の息子との修羅場の余韻を引きずっているようだった。 「すみません、前の患者さんの記録が伸びてしまって……。体調はどうですか?」 「いいから始めろ。時間がないんだ」


 久保は叶多の返事も待たずに立ち上がろうとした。  バランスを崩しかける。叶多は慌てて腰を支えた。 「危ない! 急に動くと血圧が下がります。まずは準備運動をして、リズムを確認してから……」 「そんな悠長なことをやってる暇はねえんだよ!」


 久保の怒号が響いた。  周囲の空気が凍りつく。だが、今の久保には他人の目など気にする余裕はなかった。 「歩かせろ。もっと長く、もっと速くだ。……来週には退院できるように仕上げろ」


 無茶だ。  まだ病棟内での杖歩行が安定してきたばかりだ。階段昇降も、屋外歩行もまだ手をつけていない。最短でもあと一ヶ月はかかる。 「来週なんて無理です。焦って転倒でもしたら、全部振り出しに戻ってしまいますよ」 「うるせえ! 俺がやると言ったらやるんだ!」


 久保は強引に叶多の手を振りほどき、杖を掴んで歩き出した。  呼吸が荒い。  あの大切な『シューッ、トン』というリズムがない。  ただ闇雲に、焦りだけが足を前へと急かしている。


 案の定、五メートルも進まないうちに異変が起きた。  歩幅が狭くなる。足が前に出ず、チョコチョコとした小刻みなステップになる。  加速歩行(突進現象)。  一度スピードがつくと、自分では制御できなくなり、前のめりに倒れてしまうパーキンソン病の危険な症状だ。


「久保さん、止まって! リズムが崩れてます!」  叶多が叫んだ。  だが、久保の耳には届かない。彼の目には、廊下の突き当たりにあるゴールではなく、その先にある「崩壊寸前の工務店」しか見えていないようだった。


「まだだ……まだいける……!」  久保が無理やり足を運ぼうとした瞬間。  足がもつれた。  上体だけが前に行き、足がついてこない。


「あっ」  久保の身体が大きく傾いた。  受け身も取れないまま、硬いリノベーションの床が迫る。


 ドサッ!  鈍い音が響いた。  間一髪、叶多が後ろから飛びつき、自分の体をクッションにして久保を抱き留めたのだ。  二人して床にもつれ込むように倒れた。


「……ぐっ」  叶多は肘を強打したが、痛みなど感じている暇はなかった。 「久保さん! 大丈夫ですか!」


 腕の中の久保は、荒い息を吐きながら、小刻みに震えていた。  怪我はないようだ。だが、その顔色は土気色だった。 「……くそっ……なんでだ……」  久保が床を拳で叩いた。 「なんで動かねえんだ! 俺が戻らなきゃ、店が潰れちまうんだぞ! 聡のやつ、借金まみれにしやがって……俺が稼がなきゃなんねえんだよ!」


 久保の口から、悲痛な叫びが溢れ出した。  やはり、昨日の話を全て真に受けて、自分一人で何とかしようと背負い込んでしまっていたのだ。 「あの神社は、俺の集大成なんだ。……俺のわがままで始めた仕事だ。だから、俺が最後まで責任を持たなきゃなんねえ……。それなのに、なんだこのザマは!」


 自分の身体への怒り。ふがいなさ。そして、家族を苦しめているという罪悪感。  それらが混ざり合い、久保を暴走させていた。


 叶多は、久保の背中をさすることしかできなかった。  リハビリで身体機能を治すことはできる。  けれど、患者が抱える「生活の不安」や「人生の責任」までは、理学療法士の手ではどうすることもできない。  その無力感が、叶多の胸を締め付けた。


「……今日はもう、終わりにしましょう」  叶多は静かに言った。 「こんな精神状態でやっても、怪我をするだけです。……頭を冷やしてください」


 久保は抵抗しなかった。  エネルギーが切れたように、力なく頷いただけだった。  車いすに乗せて病室へ送る道中、二人の間に会話はなかった。  昨日まであんなに希望に満ちていた「職人のリズム」は、完全に鳴り止んでしまった。


 スタッフルームに戻った叶多は、重い足取りでデスクに向かった。  そこには、ソーシャルワーカー(MSW)の門田からのメモが置かれていた。  『久保様のご家族(長男)より、転院希望の相談あり。早急にカンファレンスを行いたい』


 最悪のタイミングだった。  息子・聡は、父親をこのままリハビリ病院から出し、費用の安い療養型病院へ移そうと動き出していたのだ。  それはつまり、久保勝の「職人復帰」の道を、家族の手で断つことを意味していた。

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