第二話

 ある、風呂好きの友人の話だ。仮にそいつをAとしよう。


 Aは温泉巡りが好きでな、いつも休日には遠出してどこそこの温泉に行っただの、あの温泉の効能がいいだの、そんな話をしていた。

 そんなAがある日、山梨のとある温泉宿に出かけたんだ。

 山奥で、空気が澄んでいて、星が綺麗に見えるところでなぁ。そこの露天風呂は最高だろうって、前々から期待していたんだと。

 それでいざその温泉に着いてみると、なるほど確かに山際にあって眺めのいい場所だ。人も少ない。ゆっくり星をツマミに湯浴み酒というのもありだなぁと、そんなことを思いながら足取り軽く客室に向かった。


 目論見通り、深夜の風呂には誰もいなかった。満天の星空のもと、貸し切り状態の露天風呂に桶を浮かべ、ゆっくり酒を飲みながら過ごしていると、気持ちがいい反面なんだか人寂しくもなってくる。一人酒もいいが、やはり飲み友達がいた方がいい。

 そんなことを思っていると、がらがらがら……入り口の戸が開く音がした。

 これ幸い、晩酌に誘ってみようと様子を伺うも、立ち上る湯気に遮られて姿が見えない。どんな人間が入ってきたのか気になる。しかし気持ちのいい湯であったし、なにより出て行って一緒に飲まないかなんて声をかけるのは風流でないから、わざわざ向かうこともあるまい、その何某がこちらに来たら声をかけてやればいい。そんなふうに思い直して、Aは再び杯をあおろうとした。

 「おとなり、よろしいですか」

 危うく酒を溢すところであった。入り口に向けた目線を戻した瞬間、背後からそんな声がした。突如背後に現れた声にも、それが若い女のものであったことにもAは驚愕した。

 しかしいざ目の前にした女は艶めかしく、魅了されてしまったAにとって、もはやそうした驚きは些事でしかなくなった。

 「構わないが、おまえさん酒は飲めるのか」

 「そんなに幼くお見えですか。わたくし酔いにくい性質ですの」

 そうして酒を酌み交わしていくうち、次第に二人の距離が縮まっていく。

 じわり、じわりと。

 白濁した湯の下で、少しずつ。

 そうして触れた女の指は、底冷えするほど冷たかった。

 しかし湯と酒で熱ったAの肉体には、その冷たさが心地よかった。その女は指も、腕も、肩も、首も、舌も、触れる全てが真綿のように柔らかく、そして凍てつくほど冷たかった。しかし女の冷たさに触れれば触れるほどAの熱はむしろ昂っていった。熱に揺られるまま何度も肌を重ねた。


 半刻ほど経ち、流石にのぼせてきたAは女を部屋に誘った。しかし女は「それはできません」と固辞する。すでに女に夢中であったAは引き下がらない。

 すると女は「あなたはこちらにお泊まりですか」と問うた。Aは「そうだ。一番北の部屋に泊まっている」と答えた。女は「ではそちらにわたくしからお訪ねしますから、お待ちください」と言う。

 Aはそれを聞いて喜び、急いで部屋に戻って布団を敷き直した。しかし夜が明けども女は来ない。

 Aは裏切られたかと腹を立て、山を降りようと支度を始めた。部屋を出て渡り廊下を歩いていると、向かいから一人の老人が歩いてくる。ぶつからないように避けようとした瞬間、がっ、とその老人に腕を掴まれた。

 「おぬし、鬼に魅入られているぞ」

 「なにをいう、ばからしい」

 「信じぬならばそれでもよいが、悪いことはいわぬ。大人しくこの宿を去れ」

 老人の言葉には、聞き流せない威力があった。老人はAの腕を離すと、もと来た方向へと歩き去っていく。その背を追おうとしたとき、びゅうと山から吹いた風がAの肌を撫でた。皮膚を突き刺すようなその冷たさに、Aは昨晩の女のことを思い出さずにはいられなかった。

 どうしてももう一度、会いたい。

 そんな思いが燃え上がり、Aは結局踵を返すことにした。一晩だけ、あと一晩だけ待って、それでも来ないなら帰ろう。そう心に決めた。

 その日は夕方、まだ明るい時間に風呂を済ませた。遥かな地平線に沈んでいく太陽を見ながらの湯浴みには、星見酒に勝るとも劣らぬ風情があった。

 夕餉も済ませ、床も敷き、いよいよあとは寝るだけとなってからもAは、なお待っていた。酒も飲まずに、ただ座って待っていた。

 月が山の端にかかるころ、戸を叩く音でAは目を覚ました。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。

 「もし。約束を覚えておいでですか」

 昨晩の女の声に違いなかった。喜んだAは足をもつれさせながら戸に駆け寄り、破り捨てる勢いで引き戸を叩きつけた。

 「お待たせしてしまいました。事情があったのです。許してください」

 「許すとも。さぁ中へおいで」

 Aは再びまみえた女の美しさに改めて心を奪われていた。

 酒を酌み交わし、躰を組み交わし、そうして夜を明かした。

 夜明け間際になって、女は「もう帰らねばなりません」と言う。Aは女の手を取り「なぜだ。まだおれはおまえの名前も聞いていない」と言う。女は「名乗れば離していただけますか」と答える。Aは「せめて名を聞かせてほしい」と繰り返す。女は諦めたように「李香と申します」と答えた。

 Aは「李香、李香か。おまえは、なぜ立ち去ろうとする?名を知り、躰を知った間柄だというのに」と問う。李香は「どうしても言えません。知られて仕舞えば、あなたさまはわたくしを見限ることでしょう」と答える。Aは「そんなことはしない。おれはおまえを嫁に迎えたいのだ。だからしりたいのだ」と言う。李香は「では、このままともに過ごしましょう。時がくればわかります」と言う。

 Aは李香を抱き寄せ、言葉を交わした。「おれは横浜からきた。おまえはどこからきたのだ」と問うと、李香は「わたくしも横浜におります」と言う。Aは「おりますとはどういうことだ。ここにいるではないか」と言おうとして、李香が姿を消していることにはじめて気が付いた。

 酔っていたからといって腕の中の女すら見失うほど現を抜かしてはいない。では、女はどこへ?

 考えてすぐ、Aは昼間の老人の言葉を思い出した。途端、あんなに愛しかった熱が恐ろしいものに思えて仕方がなかった。朝をも待たずにAは山を降りた。

 Aは車に乗り込むと暗い山道をブレーキも踏まずに走り抜け、ひたすら高速道路を飛ばして横浜まで帰ってしまった。


 それからしばらく、Aは温泉に行くのを避けた。特別理由があったわけではないが、なんとなく抵抗があった。

 しかしふた月もする頃には、また元のように各地の温泉を巡るようになった。星空の下、暖かな湯に浸かるのは至福であった。

 ある時、Aは友人たちと散歩がてら近所の温泉に行くことになった。

 並んで身体を洗っているときに、ふと思い出したようにAが語り出した。

 「おれはこの間山梨の温泉で不思議な女に遭ったのだ」

 「なにが不思議だったと言うんだ」

 「身体のどこも綿のように柔らかく、凍てつくように冷たい女だった。しかし気付くとこの腕の中から姿を消していたのだ」

 「ははぁ、さてはこっぴどく振られたと見える」

 「そうではない。忽然と姿を消していたのだ。思うにあれは鬼神の類であろう」

 「鬼であれ神であれ、酒を交わせる女であるなら俺は歓迎するがね」

 「あの冷たさを味わえばおまえもそうは言えまい」

 身体を洗い終え、湯船に浸かっていると、誰かが言い出した。「せっかくだから露天風呂に行こう」と。皆で連れ立って外に続く戸を開くと、おかしい。良い天気だと言うのに、誰もいないのだ。特別湯の調子が悪いようにも思えぬ。

 「これはどうしたことだ」

 湯気の立ちこめる場であるというのに、どうも背筋が冷える。と、入り口の戸の開く音がした。何も見えぬ。俺には、何も見えなかった。しかしAはひどく震え出した。嘘ではない、すまなかった、寒い、やめてくれと、うわごとのように繰り返したのち、Aは動かなくなった。

 Aの身体には、女が抱きついたような痕が残っていた。

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